紗綾樺とお洒落なレストランならぬ、いつものファミレスでのランチを終え、食休みもそこそこに森沢夫人の入院する病院へと車を走らせた尚生は、近くのコンビニの駐車場に車を停めて大きく深呼吸した。
 休暇扱いとは言え、未だ復職の許可が下りていない尚生が一民間人である紗綾樺に、故意に捜査情報を漏らし、更に世間が悪意を持って鼻でせせら笑いそうな紗綾樺の『心を読む力』を当てにして独断で捜査対象に接近、その上、捜査班の許可なく被害届を出した森沢夫人に紗綾樺を面会させたことが知れたら、軽く見積もっても懲戒、いや実際のところ、不祥事が続いている警察の蜥蜴の尻尾きり、もしくはスケープゴートとして大々的に日本全土のお茶の間に顔写真が公開され、壊れたレコードのように何度も罪状が繰り返されて、全国の人に昨日付で懲戒解雇されましたとレポートされる事になる。もしかすると、前回の勝手な行動から、精神の異常がみられるなどの余罪ならぬ、おまけ情報まで垂れ流されることまでは尚生にも予想できた。
 これはつまり、尚生を女手一つで育ててくれた母に対する最悪の親不孝であり、宮部の名に泥を塗る事になる。今までの尚生であれば母の事を考え、全てのリスクは回避してきた。そう、反抗期もなく、悪い友達の誘いや、悪い遊びの誘惑もすべて回避し、クリーンすぎる男として警察に入ったのだって、母の事を考えての結果なのかもしれない。しかし、今の尚生には一つだけ譲れないものがある。それは、警察官としての考えではなく、尚生の個人的な紗綾樺に寄せる信頼と愛だった。
 すべてが失敗に終わり、たとえ自分の顔写真がお茶の間の笑い話の種にされても、母に親不孝者と罵られても、紗綾樺にならこの事件を解決することができるという確固たる信念と、紗綾樺への愛が尚生をここまで行動させていた。
 こうして車を停め、全てを思い返すに至って、多少の恐怖は感じるものの、それでも怖気づいて紗綾樺に計画の取りやめを申し出るつもりはなかった。
 まるで神隠しのように消えた子供、日本中のあちこちで発生している未解決事件の数パーセントを占める児童の行方不明事件。それはあまりにも突然で、日常茶飯事の中に埋もれて発生し、目撃者もほとんどない。営利目的ではないのか、身代金要求もないのに、子供は見つからない。山で遭難したわけでも、マンホールに落ちたわけでもないのに、遺体も見つからない。まさに現代の神隠しだ。
 こんな事件の話を聞くたびに、尚生は子供たちを探して親元に返してあげたいとずっと思ってきた。そして今、紗綾樺という特別な力を持った存在と知り合い、この事件をやっと解決に導くことができると信じる心が、尚生の恐怖を全て拭い去っていく。
「尚生さん、ここからは歩いていきます」
 尚生の心を知っている紗綾樺は言うと、助手席のドアーを開けた。
「紗綾樺さん・・・・・・」
 紗綾樺を一人で病院に行かせることに後ろめたさを感じて尚生は呼び止めたものの、振り向いた紗綾樺に次ぐ言葉を見つけられなかった。
「尚生さん、迎えは結構です。今日は、このまま家に帰ってください」
 笑顔で言う紗綾樺の言葉に、尚生は得体のしれない恐怖を感じた。
「待ってください紗綾樺さん、僕はここで待っています」
 縋るように尚生が言うと、紗綾樺は無言で頭を横に振った。
「紗綾樺さん!」
「ここからは、私の仕事です。依頼人の尚生さんが傍に居ると迷惑です」
 きっぱりと言い切られ、尚生は紗綾樺が助手席の扉を閉めて歩き去るのを見送るしかなかった。


 コンビニから病院までは五分ほどの距離で、紗綾樺は勇敢にも点滴をぶら下げてコンビニを目指す入院患者や、パジャマ姿で携帯片手にコンビニ方向に三々五々歩いてくる患者の群れを逆に辿ることで難なく病院にたどり着くことができた。
 見上げる程高く威圧的な景観は、紗綾樺が入院していた低く古い地方の総合病院とは大きく異なっていた。それは、紗綾樺が目覚めた街が低いビルと古い商店ばかりだった町と大都会の高層ビル群に埋め尽くされた街の違いの縮図のようだった。
 敷地に足を踏み入れると同時に、あらゆる痛み、苦しみ、恐怖、死が紗綾樺に忍び寄り、絡みついてきた。
 今まで、何度となく検査で連れていかれた病院でも感じた、言葉では表現することができない紗綾樺だけが感じる苦しみだ。それでも、紗綾樺はまっすぐに正面玄関を目指した。
 正面の自動ドアーをくぐって驚いたことは、大手コーヒーチェーンの店舗がドーンと入り口付近のエリアを占有していた事だった。
 そしてその奥にはお見舞い用の花束やバスケットを売る自動販売機が設置されていた。
 紗綾樺自身、花を買い忘れて来ていたので、この自動販売機の存在は、まさに神の助けというべき存在だった。
 手ごろな値段の物は全て完売していたが、紗綾樺は臆すことなく五千円の花かごを購入した。それから、受付に向かうと見舞客の踏まなければならない手続きを確認した。
 受付の近くに設置されたデスクで訪問先の患者名とフロアーを紙に記入して『見舞い』のバッジを身に着けるシステムになので、紗綾樺はボールペンを何本か手に取り必死に森沢夫人の情報を探した。
 沢山の見舞客の名前と患者の名前の羅列の中から、やっとの事で森沢夫人の情報を見つけると、紗綾樺は敢えて隣の部屋の入院患者の情報を記入し受付で見舞客用のバッジを受け取った。尚生の話から、夫人が監視対象である可能性は高かったので、本人の名前を記入して警察を呼ばれては話すチャンスを逃すことになるだけでなく、誘拐犯の仲間として連行されたりでもしたら、尚生に迷惑をかけることになる。
 目的のフロアーに着くと、部屋番号を確認しながら辺りの気配と思考に注意する。警察関係者が少なくとも一人はフロアーで見張っている事を予想していた紗綾樺は、一人もいないことに逆に驚いた。休憩なのか、自然の摂理で席を離れたにしろ、森沢夫人が厳重な監視下にないことは紗綾樺にとっては好都合だった。
 森沢夫人の部屋は四人部屋だったが、二つのベッドは空いていて、同室の患者は不在だった。
 紗綾樺は窓側のベッドに歩み寄ると、一瞬だけ中の気配を確認し、仕切り替わりのカーテンの隙間から患者のプライベート空間に滑り込んだ。
 突然の事に、驚いた森沢夫人が起き上がり、紗綾樺の事をまじまじと見つめた。
 小柄な紗綾樺には大きすぎるフラワーバスケットと『見舞い』バッジから見舞客であると認識した森沢夫人が口を開いた。
「青木さんのベッドはお隣ですけど・・・・・・」
 同室の患者の見舞客が迷い込んだと判断しての事だったが、紗綾樺はさらに一歩ベッドへと歩み寄った。
「間違いじゃありません。このお花は崇君からです」
 紗綾樺の言葉に、森沢夫人の顔が驚きと、怒りと、困惑で七面相のようにくるくると変わった。
「あなた誰?」
 最初の優しげで、いかにも病人らしい細い声とは異なり、誰何する声はドスが聞いていると言ってもいいくらい、低く太かった。
「崇君からの伝言を伝えに来ました」
「あんたが崇を誘拐したのね!」
 言うなり、森沢夫人は紗綾樺の持っていたバスケットを死が近い病人とは思えない力で弾き飛ばし、紗綾樺の腕を掴んだ。飛んだバスケットはカーテンにぶつかり、ベッドの向こう側の床に落ちた。
「手を放してください」
「警察を呼ぶわ!」
 森沢夫人は言いながら、手探りでナースコールのボタンを探した。
「呼ぶのは勝手です。でも、呼べば崇君は不幸になります」
 冷たい感情のない紗綾樺の声に、森沢夫人の手が止まった。
「教えてください。あなたの望みは何ですか? 崇君の幸せですか? それとも、崇君の不幸ですか?」
「幸せに決まってるでしょ!」
「誰の幸せですか? あなたの? それとも、崇君の?」
 紗綾樺の問いに、森沢夫人は沈黙した。
「あなたの傍に居ることが崇君の幸せだと思っていたんですか?」
「当たり前よ! 母親と一緒に居ることが、子供の幸せでしょう?」
 勝ち誇ったように言う森沢夫人に、紗綾樺の目が細くなる。
「あなたの食事の世話をして、あなたの看病をして、友達と遊ぶこともできず、継父に殴られ、蹴られる、そんな生活が崇君の幸せだと?」
 紗綾樺の言葉に、森沢夫人が驚いたような表情を浮かべた。
「夫が崇に暴力を! 私は知らなかったんです。退院したら、すぐに止めさせます」
 夫人の言葉に、紗綾樺は大きく息を吐くと、頭を横に振った。
「あなたも、それから、あなたの夫達は、みんなろくでなしだわ。あなたは崇君の父親があなたに暴力をふるい、悪事に手を染めたと言って離婚したけれど、あなたは最初からあの男がろくでなしだって知っていたけど、子供が出来たから結婚した。暴力に耐えられずに離婚したと言ったけど、本当は暴力を振るわれたことで流産できたらと思って耐えていた。でも結局、流産はしなかった。崇君が生まれ、夫の暴力が自分ではなく崇君に向くことを願ったけど、崇君が泣くたびに、殴られるのはあなただった。離婚して、あなたの話に同情して再婚した現在の夫は、あなたが不治の病だと知って心変わりして、崇君に暴力を振るうようになった。あなたは知っていたけれど、殴られるのが自分じゃないから、崇君が泣くたびに前の夫に殴られ続けたのは自分だったから、自分の代わりに崇君が殴られるのは当然だと思った。そして、あなたの夫は、このままあなたの高額な医療費を払い続けた挙句、縁もゆかりもない崇君を成人になるまで育てる義務を負いたくなくて、崇君を買い取ってくれる人を探した。今まであなたのために払った医療費全てを回収して、さらに良い暮らしができるような額を支払ってくれる人を・・・・・・。でも、あなたが警察に通報したから、お金は支払われなくなった」
「悪魔・・・・・・」
「あなたたちには、その言葉がぴったりよ」
 紗綾樺の言葉に、夫人の瞳に狂気が宿った。
「あんたは悪魔?」
「違うわ」
「じゃあ、化物ね」
 ズキリと『化物』という言葉が紗綾樺の胸に突き刺さった。
「なんと言われてもいいわ。崇君は幸せに暮らしているの。誰にも見つけることはできないから、探すだけ無駄よ」
「それなら、いま警察を呼んでやるわ、あんたなら、あの子の居場所を知ってるんだろう」
 夫人の変わりようは、まさに化けの皮が剥がれたといった風だった。
「あなたは母親失格よ。こどもを奴隷のように自分に見えない鎖でつないで、子供が健やかに学び、遊ぶことを妨げ、自分の不満のはけ口として暴力を加え、夫が暴力をふるう事を止めもしなかった。どっちが悪魔? 私? それともあなた達?」
 紗綾樺の言葉が変わるのを待って、夫人が勝ち誇ったように左手にしたナースコールのスイッチを差し出して見せた。
「どっちが悪魔かって? そりゃ子供を誘拐した犯人の仲間のあんたよ!」
 ゆっくりと、スローモーションのようにボタンにのせられた指に力が込められていくと同時に、紗綾樺の体が金色に光り、ぶわりと九本の半透明の尻尾が広がった。
「ば、ば、化け物!」
 悲鳴に近い声を夫人が上げたが、カーテンで仕切られた空間は現実から切り離され、院内の喧騒も消えうせた。あまりに非現実的な出来事に、夫人はボタンを押す指に力を込めることもできず、その場で金縛りにあったように動くことが出来なくなった。
「残り短い命とは言え、その命惜しかろう?」
 威圧的で、命令するのが当たり前という響きを持つ声は、紗綾樺の声とは似て非なるものだ。
「お前がそのボタンを押す前に、妾にはお前の命の炎を燃え尽きさせることができる」
 声に従うように紗綾樺の左手が夫人の方に突き出されると、上を向いた手のひらに今にも消えそうな小さな炎が揺らめいた。
「これがお前の命の炎。妾が手を握れば炎は燃え尽き、お前の命は塵となる」

(・・・・・・・・ばけもの・・・・・・・・)