ハイヤーは、場所を間違えているのではないかと思われるくらい、平凡を通り越して、あばら家というのがふさわしそうなボロアパートの前で停車した。ドアーはタクシーのように自動では開かず、運転手がわざわざ手ずからドアーを開けてくれた。
「ありがとうございます」
 宗嗣は、慣れないVIP対応に困惑しながらも、階段の音が鳴り響くのも気にせず階段を駆け上がった。そして、取り出してあった鍵で開錠しようとすると、音を聞きつけたらしい宮部がドアーを開けて宗嗣を部屋の中に入れてくれた。
「さや!」
 宗嗣は靴を脱ぐのももどかしく、紗綾樺の元へと滑り込んだ。
「具合はどうなんですか?」
 宮部に礼を言うでもなく、宗嗣は問いかけた。
「変化はありません。ただ、少しだけ体温が戻ってきたようです。最初は手も氷みたいに冷たくて・・・・・・」
 宮部の説明を聞くのももどかしく、宗嗣は紗綾樺の額や手に触れてみた。
 ホットタオルに包まれてる手は、包んでいたタオルに冷たさの余韻を残していたが、既に体温を取り戻していた。また、額もしっかりとした体温を感じられるほど暖かくなっていた。
「すいません。突然の事で、こちらにお送りする以外、考えつかなくて・・・・・・」
 『病院に連れて行くべきだったか?』という言外の問いに、宗嗣は頭を横に振って答えた。
「ありがとうございます。どうせ、病院に連れて行っても、点滴したりするだけで、根本的な解決にはならないんです。誰にも、さやが助かった理由も、さやの記憶がもどらないことも、説明できないんです」
 宗嗣の言葉に、宮部はどれほど宗嗣が紗綾樺の事だけを考えて生きて来たのかを感じた。それと同時に、自分が本当に紗綾樺と恋人になったら、それは宗嗣から生きる理由を奪ってしまう事になるのではないかという不安にも襲われた。
「さやの事、嫌いにならないでやってください。きっと、いつか治るって、医者もいってますから・・・・・・」
 宗嗣の言葉に、宮部は宗嗣の隣に正座した。
「宗嗣さん、僕は心から紗綾樺さんを愛しています。だから、そんな心配しないでください」
 宮部の言葉に、宗嗣の方があっけにとられているようだった。
「もし、いつか・・・・・・」
 宮部は言うと、一瞬、躊躇したように言葉を切った。
「本当は、こんなこと考えたくないですけれど・・・・・・。もし、紗綾樺さんに他に好きな人が出来て、僕が紗綾樺さんを幸せにする相手として選ばれなくても、僕は恨んだりしません。もし、記憶が戻って、紗綾樺さんが僕を必要としなくなっても、それでも僕は、それまで紗綾樺さんと一緒に居たいです」
 宮部のまっすぐで真摯な紗綾樺への想いに、宗嗣は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。これからも、さやのことをお願いします」
「お礼なんて不要ですよ。僕は、紗綾樺さんの傍に居られるだけで、幸せなんですから」
 宮部は言うと、少し後ろに下がった。
「洋服を着たままだと、体か休まらないでしょうから、紗綾樺さんを着替えさせてあげてください。自分は、こちらの部屋で待たせていただきますから」
 宮部は言うと、宗嗣の返事を待たずに、背を向けながら襖を閉めた。

(・・・・・・・・こんなに一途に愛してくれる人がそばに居たら、そりゃ元気にもなるよな。やっぱり、兄貴じゃだめか・・・・・・・・)

 宗嗣は、そんな事を考えながら紗綾樺の布団をはがした。
 今まで、何度も繰り返してきたことだ。突然倒れ、体が氷のように冷たくなる紗綾樺の事を直せた医師は誰もいない。結局、自然と体が温まり、意識を取り戻すのを待つだけだ。だから、宗嗣は紗綾樺を病院に連れて行くのをやめ、自分で看病するようになっていた。
 外出用の可愛いブラウスのボタンをはずし、ゆっくりと片手ずつ抜くとブラジャーだけの上半身に布団をかけ、下半身側の布団をめくりあげると、今度はお揃いのスカートを脱がせる。
 いつもは、このまま布団をかけておいて目覚めるのを待つのだが、さすがに宮部が隣の部屋にいることもあり、宗嗣は紗綾樺がほとんど着ることのないパジャマのズボンをはかせ、更に布団をかけなおすとパジャマの上を着せた。
 ただ眠っているだけなら、これだけ体を動かされれば目覚めるはずなのに、紗綾樺の眠りは深く、まだ眠ったままだった。
 パジャマを整え、布団をかけなおすと、宗嗣は襖を開けた。
「どうぞ宮部さん。さやの傍に居てやってください」
 宗嗣は言うと、ハイヤーがまだ待っていないかを確認するために玄関の外へと出て行った。
 宗嗣の許可を得て、紗綾樺の傍に戻った宮部は、少し赤みが差してきた紗綾樺の頬を見つめ、ほっと安堵のため息をついた。
「紗綾樺さん、早く目覚めてください」
 宮部にも、紗綾樺が病気だという感覚はなく、何らかの理由、たぶん力に関係のある理由で眠っているのだと思っていた。ただ、それと同時に、宗嗣がこの原因不明の症状と紗綾樺の力を切り離して考えているのだという事も感じ取ることができた。
「おまたせしました」
 戻ってきた宗嗣に声をかけられ、場所を開けようとすると宗嗣は頭を横に振った。
「宮部さんが傍についている方がさやも喜びますよ」
 紗綾樺に愛されているという自覚のない宮部は、もう一度、宗嗣に場所を譲るべきか逡巡したが、宮部が結論に達する前に宗嗣は冷蔵庫の前に腰を下ろすとズボンを痛めないように足を投げ出して座った。
「あの・・・・・・」
 どうするべきか悩んだ宮部が声をかけると、宗嗣は優しく笑い返した。
「たぶん、もうすぐ目が醒めますよ。いつもそうですから」
 宗嗣の言葉に、宮部は紗綾樺の手を握り続けた。

 着替えをしたいというのが宗嗣の本当の所だったが、ああして献身的に紗綾樺の手を握り続ける宮部を部屋から閉め出すのも申し訳なかったし、かといって宮部の前で着替えをするほど宗嗣は無神経でもなかった。
 不安と恐れ、つまり紗綾樺を失うのではないかという思いを抱いて座る宮部の姿は、宗嗣自身の姿とも重なった。そんな宮部の姿を見つめながら、宗嗣は別れ際にしっかりと持たされた封筒を取り出して中を確認した。
「・・・・・・・・・・」
 手紙の内容に宗嗣は言葉もなく、握りしめた手紙を見つめた。
 内容は、どう考えても狐につままれたとしか思えないような内容だった。
 記憶に間違いがなければ、今期で契約は終了となり延長はされないと、はっきりそう言い渡されたはずだ。だから、宗嗣としては、今夜の豪華な晩餐は、早い別れの振る舞いのようなものだと、そう理解していた。しかし、手紙に書かれている内容は、それとはまったく逆の内容だった。

(・・・・・・・・俺をデザイン部門のチーフ? 設計部門の副部長待遇?・・・・・・・・)

 何度読み返しても、文字が頭の中を通り過ぎるだけで、宗嗣は言葉を理解することができなかった。
 設計部門の副部長という事は、契約スタッフいびりをしている、あの社員の直属の上司という事になる。
 読み進めて行くと、更に待遇の詳細が明記され、健康保険や福利厚生、そして有給の日数や給与と賞与が記載されている。

(・・・・・・・・エイプリルフールには、早すぎるっていうか、遅すぎるっていうか・・・・・・・・)

 宗嗣は困惑を露わにしながら、何度も書面を読み返した。
 書面の最後には、通常のオファーレターに書かれている有効期限、つまりオファーを受諾するかどうかの回答期限が『無期限』とされ、その脇に但し書きとして『現社長の任期中に限る』とされていた。
 つまり、社長の任期中であれば、いつでもこのオファーは有効という事になる。

(・・・・・・・・あのお偉いさん、もしかして、本当にすごく偉かったんだ・・・・・・・・)

 今更ながらに、宗嗣は心の中でつぶやいた。

 そんな宗嗣に、宮部が声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
 振り向くと、宮部が安心した様子で、微笑みかけてきた。
「紗綾樺さんの意識がもどりました」
 宮部の言葉に、宗嗣は立ち上がると、紗綾樺の傍へと歩み寄った。
「お兄ちゃん・・・・・・」
 紗綾樺は虚ろな目で宗嗣を捉えると声をかけてきた。
「まったく、心配させるなよ」
 宗嗣は言うと、膝立ちになり紗綾樺の髪をぐりぐりかき混ぜるようにして頭を撫でた。
「宮部さんが心配して、ずっと付き添ってくれたんだぞ」
 宗嗣の言葉に、紗綾樺は視線を宮部の方に戻した。
「尚生さん・・・・・・」
 紗綾樺の呼びかけに返事をするように、宮部はしっかりと紗綾樺の手を握った。
「気が付いてよかったです。自分は、これで失礼しますけど、明日、お迎えに来ますね」
 宮部の言葉に、紗綾樺はゆっくりと頷いた。それから、宮部は宗嗣の方を向き、明日のデートの承諾を求めた。
「今更、ダメだなんて言いませんよ」
 宗嗣は笑顔で言うと、名残惜しそうにしながらも丁寧に挨拶をして部屋を出ていく宮部をアパートの下まで見送った。

 去っていく宮部の車を見送り、宗嗣は星も見えない都会の空を見上げた。
 夜空を見上げると、あの晩のことが思い出されて、宗嗣はいつも空を見ないようにしていた。
 あの遮る明かり一つない、寒々として、星の光が冴えわたる夜空。絶望と、恐怖と、寒さと、そして渇きと飢え。おなかが減ったと泣く子供と寒さに震える人々。家を失い、家族の安否も分からないまま、ただ全てを失う事を恐れ、絶望し、放心状態のままの人たち。そして、まるで全てが特撮映画か何かのように、現実感から切り離され、はしゃいでいるように見えた人々が現実に引き戻された後の暗転。
 宗嗣自身、落ちてくるような星空と光のかけらも見えない闇の中で、紗綾樺を失った絶望に打ちのめされた。ひらひらと軽やかに舞い落ちる雪に、足首まで水に浸かった両足が凍えそうに冷たくて、生きた心地がせず、今にも空の星までも落ちてくるのではないかという恐怖に襲われた事を昨日の事のように覚えている。だから、宗嗣は夜空を見上げることを今も心の中で拒み続け、世間が流星群で盛り上がっても、星が流れていく様を見たいとも思わなかった。ただ一つ、もし、星に願って紗綾樺が元気になるのであれば、全ての苦しみに耐えてでも願をかけたいとすら思った。しかし、もう充分に大人になってしまった宗嗣には、星に願いをかける事すらできなかった。

(・・・・・・・・さやに宮部さんという恋人ができた今、俺も、もう少し俺らしい生き方を見つけるべきなのかもしれない・・・・・・・・)

 宗嗣は考えながら、あの日以来、初めて自分が夜空を見上げている事に気付いた。
 もう二度と見上げることがないと思っていた夜空を見上げ、時間は止まることなく流れ続けている事を宗嗣は感じた。どんなに紗綾樺と共に自分の時も止まってしまったと思っていても、本当のところ、時間は休むことなく流れて行っている。そして、気付けば人形のように表情も感情もなかった紗綾樺にも笑顔と感情が戻り、自分以外にも紗綾樺を大切に思ってくれる宮部という男まで現れた。もはや紗綾樺に自分が必要のない人間だとは思わないけれど、宗嗣は自分が一歩下がり、立ち位置を宮部に譲るべきかもしれないと思った。
 ゆっくりと階段をのぼり、部屋に戻った宗嗣は既に寝息を立てて眠りについている紗綾樺を起こさないように着替えを済ますと、紗綾樺の隣に自分の布団を敷き、そのまま横になった。
 あの驚くほどに寛大な内容のオファーレターを受ける決心はついていなかったが、明日の仕事に備えて宗嗣は眠りを求めた。いつもなら、シャワーを浴びて、翌朝の朝食の支度や、弁当の準備、そして着替えを整えたりするのだが、宗嗣は何もせずに横になると、絡んだ糸のような心と気持ちを休めるために眠りについた。

☆☆☆