目の前で紗綾樺さんが意識を失い、僕は慌てて店員を呼ぶと千円札を握らせた。
「すいませんが、連れが具合が悪くなってので、これで会計を・・・・・・」
 そこまで言ってから、店員の目が疑いに満ちている事に気が付き、慌てて上着のポケットから警察手帳を取り出した。
「念のためですが、怪しい人間じゃありません。連れを自宅まで送って行きますので、清算をお願いします。それから、おつりは寄付に回しておいてください」
 それだけ言うと、紗綾樺さんを抱き上げ、店を後にした。
 階段を降り、一階にある駐車場に停めた自分の車の助手席に紗綾樺さんを乗せてシートベルトを止める。
 椅子を最大限にリクライニングにするが、前回同様、この車では無理がある。
 額に触れると、熱はなく、どちらかというと冷たくなっていて、冷や汗をかいているようだった。
 運転席に乗り込み、エンジンをかけてから、紗綾樺さんの脈をとる。
 脈は弱く、ゆっくりだった。
 前回の時は、力を使ったからだと説明を受けていたので、そういうものなのかと納得してしまったが、いまの紗綾樺さんは力なんて使っていなかったし、どちらかと言えば、何か記憶を取り戻しかけていたような気がする。
 そこまで考え、宗嗣さんに紗綾樺さんの記憶を取り戻すようなことをするなと釘を刺されたことを思い出す。
 もしかして、記憶が戻りかけると、こういう症状がでるのか?
 初めての経験で、他に記憶喪失になった人を知らない自分は、これが他の人にも共通することなのか、紗綾樺さん独特な現象なのか判断がつかない。
 本当は、自宅が一番近く、すぐに紗綾樺さんを休ませることができるのだが、さすがに母が心臓発作を起こす可能性も否めないので、ここは大人しく紗綾樺さんの部屋を目指して車を走らせた。
 エンジンが温まり、暖房が入れられるようになると、僕は信号で停止した時に上着を脱ぎ、ヒーターを全開にした。
 信号で止まる度に紗綾樺さんの額を触ったり、脈をとってみたりしたが、紗綾樺さんは意識を失ったままだった。
 スピード違反で捕まらない程度にスピードを上げ、紗綾樺さんの部屋を目指す。既に、通いなれた感があるくらい、ナビを頼らなくても道がわかるから不思議だ。

 他の人の邪魔にならない場所に車を停めると、『失礼します』と一言断ってから紗綾樺さんのポシェットから鍵を取り出す。それから紗綾樺さんを抱いて階段を上り、鍵を開けて部屋に入った。
 玄関のたたきで靴を脱ぎ、一度紗綾樺さんを床に横たえて靴を脱がす。それから奥の部屋へと運ぶと、思った通り紗綾樺さんの布団はそのままになっていた。
 きっと、紗綾樺さんの事だから、宗嗣さんに内緒で軽井沢まで行き、僕が合流しなければ、そのまま家に戻って、どこにも行かなかったフリをするつもりだったのだろう。
 僕はそんなことを考えながら、紗綾樺さんを布団に寝かした。
 季節柄、既に紗綾樺さんの布団の脇には厚手の毛布も用意されていたので、掛布団の上から更に毛布を掛ける。
 医者でもない僕には、これから先、どうしていいのか分からなかったので、宗嗣さんに電話をかけた。

☆☆☆

 他人様のデザインだからという事もあるが、都心に新しく建った、色々なオフィスビルや商業ビル、マンションのデザインの良し悪しについて、お酒を酌み交わしながら忌憚なく意見を交換していると、俺のスマホが振動した。しかも、メールではなく電話だ。
「すいません、ちょっと失礼します」
 俺は断ると、席を立とうとした。
「ここで出たまえ。私がちょっと失礼するから」
 お偉いさんは言うと、『自然の摂理だよ』と囁いて廊下へと向かった。
 着信画面を見ると、相手はさやではなく、奴からだった。
「もしもし?」
 まさか、この時間からさやを連れ出す許可申請じゃあるまいなと思いながら、声はアルコールのせいか不機嫌さ二〇〇パーセントだった。
『すいません、宮部です』
「わかってますよ。着信画面に、あなたの名前が表示されてましたから」
 不機嫌さは、声を聴いた途端に二倍に膨れ上がったため、実際に発せられた声は更にその場合位不機嫌に奴には聞こえただろう。
『じつは、今、お宅に伺っています』
 あーそーですか、また、事後報告ねと考えながら、あのアパートが『お宅』なんて、結構な呼び方をしてもらえるのは、奴からだけだろうななんて、思ったりもした。
「最近の警察官は、約束も守らないんだってことが、あなたと知り合えたおかげで良くわかりましたよ」
 ここまでくると、自分の皮肉の才能に感激してしまう。アルコールってやつは、意外にも人の普通じゃわからない才能を開花させる効果があるらしい。
『すいません。出先で紗綾樺さんから連絡を受けて、迎えに行ったんですが、紗綾樺さんが急に意識を失って・・・・・・』
 俺の中のアルコールが一瞬で消え去った。
「何があったんですか?」
『紗綾樺さんの意識が戻らないんです』
「いったい、さやに何をしたんです?」
『ただ、次のデートの約束をして、紗綾樺さんが指切りしようって、小指を出したんです。でも、そうしたら急に紗綾樺さんの様子がおかしくなって・・・・・・』
 指切り。俺が絶対にしないことだ。なぜなら、俺はあの日、さやに差し出された小指に自分の小指を絡めて約束した。絶対に外出せず、さやが帰宅するまで家で寝ていると。それなのに、俺はさやが学校に行くとすぐに家を抜け出し、仕事に行った。もし、俺が家にいないと知っていたら、さやは家に戻っては来なかった。そうすれば、他のクラスメートと一緒に安全な山の方に逃げて、津波にも飲まれることはなかった。俺が約束を破ったから、さやが怒っても、会社にいるとさやに知らせていれば、さやは海に近い家に帰ることはなかった。俺が約束を破ったから・・・・・・。
「すぐに帰ります。それまで、さやをお願いします」
 俺は言うと、バッグを手に立ち上がった。
「どうしたんだ天野目君? まだ、料理は終わってないぞ?」
 戻ってきたお偉いさんが、驚いたような顔をしている。
「すいません、妹の具合が悪くなったと連絡が・・・・・・」
「そうか、ちょっと待ちなさい」
 良く響く手を打つ音に、すぐに仲居さんが飛んでくる。
「急いでハイヤーを呼んで貰えないか? ご家族が急病なんだ」
 仲居さんは『かしこまりました』と残し、足早に去っていく。
「どちらの病院だい?」
「自宅で休ませているんです。帰りが遅くなるので、友人に妹の世話を頼んでいて」
「そうか、じゃあ、とにかくハイヤーが来たら、それに乗って帰りなさい。もし、病院に連れて行くなら、そのままハイヤーを待たせておけばいい。遅い時間だと、なかなかタクシーがつかまらないこともあるからね。明日は、無理して出社しなくてもいいから、仕事の事は、なにも心配しなくていい」
 ハイヤーが来たことを告げる仲居さんに案内され、俺はお礼もそこそこにハイヤーで自宅に向かった。

☆☆☆