「おまたせしました」
 声をかけて向かいに座ると、紗綾樺さんがまじまじと僕の事を見つめた。
「スーツじゃないんですね」
 そういえば、紗綾樺さんに私服姿で会うのは初めての事だった。なんだか、ずっと昔のように感じるけど、昨日は自宅待機を命じられたまま紗綾樺さんの所に押しかけてしまったし、今日だって、緊急とばかりに、仕事用のスーツ姿だった。
「母がデートなら、ダサいスーツはやめておけって・・・・・・」
 言いながら、過保護すぎるよなと僕は思った。
「優しいお母様ですね」
「あ、いや、そんな、お母様なんて柄じゃないですから」
「私は、母の事も忘れてしまったんです」
 紗綾樺さんの言葉に、ドキリとする。
 そうだ、紗綾樺さんのご両親は既に他界されていて、家族は宗嗣さんだけなんだ。
「すいません、変なこと言っちゃって」
 僕の心の中の葛藤を読んだのか、紗綾樺さんが謝る。
「謝らないでください。僕は、紗綾樺さんが悲しい時は、そばにいるようにしますから」
 言ってしまってから、先輩方に言われた、『辛い時には傍にいる発言厳禁』という事を思い出す。
 しかし、いまここで否定するのもなんだかバカだし。かといって、いつか紗綾樺さんに『嘘つき』と罵られることになるかもしれないと思うと、落ち着いては居られない。
 でも、何か言った方が良い気もするし、言うと、ドツボにはまるような気もする。
「尚生さん、明日なんですけど」
 俺が悩んでいる間に、紗綾樺さんが話題を変えてくれた。
「明日。そうですね、明日。はい」
「病院の近くまで連れて行ってもらえますか?」
 改めて問われ、僕は一瞬、答えに窮する。なんとなく、紗綾樺さん一人を行かせることに迷いがあるからだ。でも、僕がついていけば、たぶん、紗綾樺さんは目的を果たすことができない。
「紗綾樺さん、絶対に無理をしないって約束してください。いくら行き先が病院だからって、廊下で倒れたりするような無茶をしないって、約束してください」
 そう、僕の知らないところで紗綾樺さんが倒れたり、苦しい想いをするのが僕は嫌なんだ。
「努力します」
 でも、紗綾樺さんから帰ってきた返事は『はい』じゃなかった。
「紗綾樺さん!」
「これは、私しかできない事なんです」
 紗綾樺さんがまっすぐに僕の目を見つめて言った。
「崇君の為に、私ができることはこれだけなんです。もう・・・・・・」
「わかりました」
 なにもわからないけど、そう返事をするしかない。
「面会時間は、平日は午後からですから、お昼過ぎ位に迎えに行きます」
「ありがとうございます」
「明日のお昼、一緒に食べられますか?」
「はい」
「じゃあ、約束ですよ」
 僕は言うと、手を出した。指切りのつもりで。

☆☆☆

『じゃあ約束よ、お兄ちゃん』
『ほら、指切り』
『嘘ついたら、針千本だからね』
『俺を殺す気か?』
『おとなしく寝てたら熱も下がるし、明日は仕事に行かれるよ』
『来週の水曜が納期の大事な仕事があるって言ってるだろ』
『ダメ。熱っぽいのに、昨夜も遅くまで会社にいて、だから熱が上がったのよ。今日は、ちゃんと休むこと。社長さんにも電話で説明したら、大切な体だから、月曜日までゆっくり休ませてくださいって言われたんだから』
『わかった。寝てるよ。寝てればいいんだろ』
『そうよ。私は、お母さんの変りなんだからね』
『はいはい。おとなしく寝てますよ、お母さん』
『帰りに、夕食の買い物もしてくるから、ちゃんと寝てるのよ。また、起きて映画とか見てたら、社長さんに言い付けちゃうからね』
『怖い怖い。・・・・・・死んだ母さんは、そんなに怖くなかったぞ!』
『死んだお父さんは、お兄ちゃんの百倍優しかったよ』
『なんだよそれ。男の俺には、父さん厳しかったのに、娘には甘々だったからな』
『とにかく、行ってきます』
『気をつけてな。変な男に引っかかるなよ』

「紗綾樺さん?」
 尚生さんの声が聞こえ、私は一瞬何が起こったのか分からず、辺りを見回した。
「ここは・・・・・・」
 ついさっきまで目の前に居たはずの布団にくるまって横になっていたお兄ちゃんの姿もない。
「紗綾樺さん大丈夫ですか?」
 私の手は、小指を差し出そうとしたまま、中途半端で止まっている。
「紗綾樺さん?」
 心配げな尚生さんが私の手を握り、驚いたような顔をする。
 尚生さんの手の暖かさに、自分の手が氷のように冷たくなっている事を自分でも感じた。
「どうしたんですか急に、手も冷たくなって。何度も名前を呼んだんですよ」
 尚生さんの顔は、心配気に私の手を両手でくるんで温めてくれる。
「いま、お兄ちゃんと何かを約束したのを思い出したんです」
 あれは、お兄ちゃんの説明で聞いたことのある、私たちの無くなってしまった家だ。
「昔の事を思い出したんですか?」
「お兄ちゃんが、お父さんの代わりで、私がお母さんの代わりだって・・・・・・。でも、変ですよね。お父さんもお母さんも、私と同じで津波に飲まれたのに・・・・・・」
 初めて事実を口にした途端、まるで心臓が耳の中にあるかの様に、鼓動が大きく聞こえる。
「すいません、紗綾樺さん」
 何故か尚生さんが謝ってくれる。
「僕が無神経なことを言ったせいで」
 でも、何のことかわからない。
「紗綾樺さんは、ご両親を亡くして辛いのに。僕が母の事なんて話したから・・・・・・」
 尚生さんが自責の念で一杯なのは、心を読まなくても分かる。
「家に、帰っても良いですか?」
 自分が立っているのかも、座っているのかも、わからなくなってくる。
 とにかく、気分が悪い・・・・・・。
「わかりました。ちょっと待っててください」
 尚生さんの言葉ももう聞こえない。目の前が暗くなり、私は意識を失った。

☆☆☆