駅中の喫茶店に入ろうと、案内待ちの列に並んでいると、紗綾樺さんがスマホを取り出した。
「お兄ちゃん、今日は会社の偉い人に付き合うから遅くなるって・・・・・・」
 紗綾樺さんはそう言うと、僕にメールを見せてくれた。
「じゃあ、僕は一度家に戻って車を取ってきます」
 いい加減、バッグに押し込んだとはいえ、釜めしの重さがが肩に食い込んでいるし、できるなら、母に今日中に手渡したいというのもあった。
「あの、近くまで一緒に行っていいですか?」
 紗綾樺さんの言葉に、僕は何も考えずに頷いた。
「じゃあ、こっちです」
 僕は列から抜けると、紗綾樺さんを案内しながらスマホを取り出す。
「ちょっと、すいません」
 紗綾樺さんに謝り、母に電話をかける。
「あ、尚生だけど、これから釜めし持って一度帰るから。車で出るから」
 仕事だと思っている母は『気を付けて』としか言わない。でも、釜めしが何かはわかっているようだった。ただ、仕事の場合、自分の車で出かけることはないので、疑問に思っている事は間違いない。でも、出かけた時の格好が緊急招集スタイルだから、きっと今頃、質問攻めにする準備をしているに違いない。

 電車を乗り換え、自宅近くの駅までの間、紗綾樺さんとの会話はほとんどなかった。まあ、通勤ラッシュの激混み電車の中で、紗綾樺さんと離れ離れにならないようにするだけで精一杯だったというのが事実かも知れない。
 やっとの事で人の波から解放され、外の空気を吸うと、都会の綺麗とは言えない空気でもほっと落ち着く。
 疲れている紗綾樺さんを家まで歩かせたくなかったので、駅の近くにあるファミレスで紗綾樺さんに待っててもらい、僕は一人で釜めしを届けに帰った。


 玄関のカギを開け、「ただいま」と声をかけると、母が姿を現した。
「はい、釜めし」
 手渡して家を後にしようとすると、母が上着をしっかりと掴んでいた。
「なに? 急いでるんだけど・・・・・・」
 母の意味不明な行動に、首をひねりながら言うと、母がするするとショルダーバッグをおろした。
「ちょと、母さん、急いでるって・・・・・・」
 抗議しかけて、母が今まだかつて見たことがないくらい、不気味な笑みを浮かべている事に気付いた。
「まったく、デートだっていうのに、あんたって男はこんなダサいスーツとカバンで軽井沢まで行ってたわけ?」
 母の言葉に、頭が少しパニックを起こす。まさか、母が俺のGPSをチェックしているはずはないのに。
「早く着替えてきなさい。一応、見られるカジュアル用意しておいたから」
 母に言われ、仕方なく部屋に戻ると、ブルー系のチェックのシャツにライトブラウンのカジュアルジャケットと紺のチノパンが用意されていた。
「デートの待ち合わせの時間を忘れるなんて、教育を間違ったかしら・・・・・・」
 どうやら、突然、走り出て行ったのを時間を忘れていたと思ったらしい母は、一度帰宅するという電話を受けて、着替えを用意してくれていたらしい。
 ここで言い訳しても仕方がないので、母の好意に甘えて着替えを済ます。
「もうすこし早く連絡してくれたら、夕飯作らなかったんだけど。デートでも母さんの好物を忘れないでくれて嬉しいわ。でも、せっかくなら、相手の人を紹介して欲しかったけど・・・・・・」
 まだまだ続きそうな母の言葉に、僕は「ありがとう、いってきます」と言葉を残し、ダッシュで家を後にした。
 バッグの中身を入れ替える時間がなかったのが心残りだけれど、とりあえず紗綾樺さんを一人で待たせているから、僕は帰りと同じく小走りで駐車場へ急いだ。

☆☆☆

 表現するなら、高級料亭というのがぴったりな場所に連れていかれた俺は、勧められるまま上座に座りそうになって、慌てて下座に座りなおした。
「ご両親の教育が良いんだね」
 お偉いさんは言うと、苦笑しながら上座の席に着いた。
「今日は、招待だから、君が上座で良かったんだよ」
「いえ、そんな、とんでもないです」
 そうだ。ご馳走になる挙句に上座なんて、絶対にありえない。
 答えながら、俺は背筋を伸ばす。
 すると、温かいおしぼりが手をされ、後から来た仲居さんがとっくりを二本持ってきた。
「冷酒じゃなく、燗で良かったかい?」
「あ、はい」
 俺は返事をしながら、促されるままお猪口で人肌に温まった日本酒を受ける。
「自分が・・・・・・」
 お猪口を置いて酌をしようとするが、手で制されて、俺は再びお猪口を持ち上げた。
「乾杯」
「戴きます」
 かすかにお猪口を触れ合わせ、一気に日本酒をあおると、待っていたように酒のつまみがどんどん運ばれてきた。
「足をくずして、楽にしなさい」
 言われたものの、俺がどうするべきか悩んでいると、「安いズボンは膝がでやすいぞ」と続けられ、俺は「失礼します」と一言断ってから足を崩した。
 そうしている間に、空になったお猪口に酒が注がれる。
「心配しなくていいよ。君を酔わせてどうこうしようなんて、考えてないからね」
 笑えない冗談に、目が点になる。
「どうも、私は冗談のセンスがなくてね」
 言った本人が苦笑しているくらいだから、俺の目が点になったのも笑いで済みそうだ。
「君の事は、調べさせてもらったよ」
 せっかく、ほぐれた緊張が、再び呼び起こされる。
「ああ、すまない。緊張させてしまったようだね。そんな怖い目をしないでくれたまえ」
 言われて、相手を強い視線で睨んでいたことに俺は気付いた。
「調べたというのは言い過ぎだったかな。履歴書を人事に探させたんだ。君の場合は、履歴書じゃなく、スキルシートだったけれどね」
 派遣の俺の場合、面接前に提出されるスキルシートには個人名がなく、ただスキルの羅列された物だけで、個人を特定できる情報は記載されていない。
「君の行方が分からなくなってから、人事には天野目宗嗣という一級建築士からの応募があったら、すぐに私に知らせるようにと伝えてあったんだが、まさかただのデータ入力スタッフとして、派遣スタッフとして紹介されるとは思っていなかったらしい」
 まあ、言われてみればそうだ。普通、一級建築士なら、それなりの仕事を探す。派遣のデータ入力なんて、普通考えないだろう。
「スキルシートには、扶養家族ありとなっていたが、奥様かな?」
「いえ、妹です」
「そうか、やはり・・・・・・」
 その先は言葉にしない。だれも、あの日の惨劇を思い出したくはないから。
「うちの会社はどうだい? 正直、働きやすいかい?」
「そうですね。ちょっと癖のある人もいますけど、今までの仕事の中では時給も良いですし・・・・・・」
 言ってしまってから、顧客と時給の事を話してはいけないという、派遣の決まりを思い出す。
「コーヒーマシンもエスプレッソマシンも使えるようになったし、悪くはないかい?」
「ええ。働きやすいです」
「もうすぐ、君は契約期間が満了になるね?」
「そうです。延長の話はまだ聞いていないので・・・・・・」
 そこまで言ってから、俺は顧客と契約期間の事を話してはいけないという派遣の決まりを思い出して黙る。
「今日、ここで話すことは全てオフレコだから、気にする必要はないよ。派遣の苦しい決まりなんて、守らなくても大丈夫だ」
「こうやって、派遣先の方とお話しするのは慣れていなくて・・・・・・」
 実際、こんなに何度も食事に誘われるのは初めてだ。
「君は、もう設計の仕事はしたくないのかな?」
 いつかは聞かれるだろうと思っていた問いだった。
「妹が病気なので・・・・・・」
「妹さんが?」
「設計を始めると、他の事が目に入らなくなっちゃうんです。自分では、天職だと思ってます。でも、そのせいで、俺は・・・・・・。自分は、妹の命を犠牲にするところだったんです。だから・・・・・・」
「だから、もう設計はしない?」
「いつか、妹が独立したら、戻りたいと思ってます」
「妹さんの病気の事を訊いてもいいのかな?」
「外傷性の記憶障害です」
 『外傷性』ということで、あの天変地異のような災害に思い当たったらしい。
「そうか。でも、派遣の暮らしは安定しなくて、それこそ、妹さんにも苦労をかけることになるのではないかい?」
「そうですね。それは、事実です。頑張って自炊して、手弁当でも狭苦しい、汚いアパートに住むのがやっとです」
 そう、もっとさやには楽をさせてやりたい。でも、今の俺には、それができない。
「妹さんは、それで幸せかい?」
 質問の意味は分かっても、俺にはその問いに対する答えがなかった。
「妹は、何も覚えてないんです。何も・・・・・・」
 その瞬間、俺は自分が涙を流している事に気付いた。
「大変な思いを、辛い想いをしてきたんだね」
 両拳を握りしめ、俺は必死に涙を堪えた。
「すまなかった。でも、もう一度考えて見て欲しい。私は、君の溢れるような才能を埋もれたままにしておきたくないんだ」
 そう言うと、お偉いさんは一通の封筒を手渡した。
「残念ながら、君の契約を延長しない旨、担当者が君の派遣元に連絡しているそうだ。だが、それとは別に、これが私の答えだ。後で目を通して、ゆっくり考えてほしい」
 俺が封筒を受け取ると、お偉いさんは良く通る音で手を叩いた。
 それを合図に、今度は料理が運ばれてきた。

☆☆☆