紗綾樺の軽井沢への旅を一言で表現するのであれば、それは『快適だった』という一言に尽きるだろう。
 ゆったりと、ラグジュアリーな車両にはほとんど人がおらず、いつも食べる事なんてろくに考えない紗綾樺の前には、車両専属アテンダントがメニューを差し出し、洋食か和食かを選ばせてくれたうえ、ドリンクやデザートまで用意されていた。
 他の乗客は短い一時間ちょっとの旅の間、読書をしたり、音楽を聴き、残りの時間は食事の事を考える程度で、紗綾樺を疲れさせるような公序良俗に反するような穏やかでない思考をする者もいなかった。
 座り午後地の良い椅子にゆったりと腰かけ、食事を終えた紗綾樺は地図ソフトで改めて場所を確認した。
 まもなく軽井沢駅に到着する旨のアナウンスに、紗綾樺は身の回りを確認した。確認と言っても、持ち物はハンドバッグ一つしかないのだが、それでも初めての一人旅なので、どんな失敗も犯さない注意力が必要だと感じていた。
 新幹線が音もなく駅に入線し、プシューという独特のエアー音がしてドアーが開いた。
 初めて降り立った軽井沢駅は、飾り気もなにもなく、ここが紗綾樺も名前を知っている軽井沢駅なのかと目を疑うくらいシンプルな駅だった。
 古くからの有名な避暑地、観光地だから、なんとなく豪華さとか、派手さを期待してしまっていたようで、正直、拍子抜けしてしまうほど、何の変哲もないただのプラットホームがあるだけの駅だった。
 電車を降り、エスカレーターを上がる。そして目にした改札口は、やはりシンプルの一言で、自分は名前が同じな違う軽井沢に来てしまったのではないかと不安になるくらい、普通だった。
 有人改札に駅員がいるのを確認すると、紗綾樺は自動改札ではなく、有人改札を通って外へ出た。
 改札の正面にある大きな地図に向かい、紗綾樺は自分の行くべき方向を確かめた。
 改札口は線路と立体交差する作りになっている通路の真ん中にあり、改札口を出て
左に行くとアウトレット、右に行くと、軽井沢町の商店街、旧軽井沢方面になる。
 JRの改札口のとなりには、ローカル線の改札口があり、その向こうには釜めしの店や土産物店が並ぶ。
 『絶対に買っておかなくちゃ』という複数の思考に、紗綾樺はとても興味をそそられたが、これから崇君を訪ねるのに、手土産ではなく、自分の土産の釜めしをぶら下げていては、ただでさえ警戒されそうなのに、余計怪しまれてしまうと諦めた。
 通路の両端に階段やエスカレーター、それにエレベーターが設置されており、右端の階段をおりると、タクシー乗り場が広がっていた。
 全く土地勘のない場所で闇雲に歩き回っても時間をロスするだけになりかねないので、紗綾樺はタクシー乗り場に進むと先頭のタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで?」
 地元民にも、観光客にも見えない紗綾樺に、運転手は機械的に問いかけた。
「旧軽井沢の商店街の近くまでおねがいします」
 果たして軽井沢が小さい町という言葉がふさわしい街かどうかはわからないが、小さい町の場合、見知らぬ人間が特定の民家の住所を指定してタクシーに乗ったりしたら、タクシーを降りて目的の家にたどり着く前にその家に警告の連絡が届いてしまう可能性も考えられるので、敢えて紗綾樺は観光客の多い場所を選んで行き先に使った。
「どのあたりに着けたらいいですか? あの辺は一通が多いんですが・・・・・・」
 運転手の言葉に、紗綾樺は返事に困って一瞬沈黙した。
「観光なので、どこでもいいです。止めやすいところで結構です」
 無難な答えだし、運転手が誠意ある人間であれば、一番近いワンメーターの場所で降ろしてくれるだろうし、運転手が儲け主義なら、一番稼げるルートを使って、適当な場所で降ろしてくれるはずだ。
「かしこまりました」
 運転手は答えると、すぐに車を発進させた。
 駅前のロータリーを回り、直進の太い道をまっすぐに走り抜けた。そして、三差路の手前で運転手は車を停めた。
「右に進むと、旧軽井沢銀座通りになります」
 説明をしながら、運転手は既にメーターを止めている。確かに距離はあったが、ただ真っすぐに走った先で止めるのであれば、歩いてでも来れるのにと紗綾樺は理不尽な怒りを感じながら、料金を支払ってタクシーを降りた。
 目的地までは、まだ少し距離がある。紗綾樺はスマホの地図を片手に、わき目も振らずに目的地へと歩き続けた。
 商店街から離れると、一気に人通りが少なくなる。道がわからなくなっても、訪ねる人もいないから、スマホの地図だけが頼りだった。
 黙々と早足で歩き続けること十分、紗綾樺は目的の家の前までたどり着いた。大きな庭のある一戸建ては生垣と門にしっかりと護られていた。
 門の右側には木製の表札が出ており、そこには『中澤』と太筆で描いたような文字で書かれており、その下にはインターフォンが設置されていた。
 門の正面に立ち尽くしていては不審者として通報される可能性があるので、紗綾樺は生垣に沿って少し横に移動した。そして、力を少し開放して生垣の木々に話しかけた。

『ねえ、教えて、ここの家には男の子がいるでしょう?』
『おまえ、人間じゃあないな。ここらでは見ない顔だが、何しに来た?』
 さすがに、門の並びの木々には防衛本能があるらしい。
『ここの家の男の子、つい最近来た子供でしょう?』
『あの子供を探しに来たのか?』
『そうよ。あの子は、生まれた時からのここの家の子供ではないでしょう?』
 木々が答える前に、庭の草木が悲鳴を上げた。
『あの子を連れて行かないで。あの子は、二人に授かった大切な子供なの! とりあげないで! やめて! やめて! やめて!』
 紗綾樺は無駄だと分かっていたが、両手で耳を塞いだ。しかし、草木の悲鳴は響き続けた。
 あまりの事に激しい頭痛がして、何かが紗綾樺の中ではじけた。
『黙りなさい!』
 自分の声とは思えない声が一喝すると、木々も草木も一斉に黙った。
『誰に向かって口をきいている?』
 あるはずのない尻尾の気配を感じて、紗綾樺は左手をお尻の辺りにやってみたが、やはり尻尾はなかった。それなのに、体はそこに尻尾があると告げていた。
『質問に答えよ!』
 高圧的な物言いに、紗綾樺自身が戸惑っていると、最初に口をきいた生垣の木が答えた。
『あの子は、ここの夫婦の子供ではありません。ちょっと前に、この家に来て暮らしていますが、ここの夫婦はとても幸せで、あの子を奪わないでやってください』
『しかたがないな、あれは我が贄、本来であればその肝を喰らうところだが、贄の印を消してやろう』
 紗綾樺が思ってもいない言葉が頭の中に響き、木々と会話していた。
『ありがとうございます』
 会話が終わると同時に、尻尾の感触は消え、頭痛もおさまった。しかし、思った以上に体力は消費してしまったようだった。
 ところが、ちょうどその時、家の中から声が聞こえてきた。
「崇君、気を付けていくのよ」
「はーい、わかってます」
 そして、玄関の扉が開いて閉まる音、子供の足音が続き、門を開けて男の子が出てきた。それは、間違いなく紗綾樺が探している崇君だった。
「崇君」
 紗綾樺が声をかけると、男の子は驚いたように紗綾樺の方を見つめた。
「お姉さん、誰?」
 知らない大人に声をかけられた時の、子供特有の警戒心を顕わにした態度だった。
「お母さんの知り合いなの。ここで良いから、少し話せる?」
「僕を迎えに来たの?」
 崇君は、困ったように問いかけてから、一歩後ずさった。
「違うわ。元気で、幸せに暮らしているか確認しに来たの」
「おかあさん、僕がいないと何にもできない人だから、迎えに来たのかと思った」
「崇君、ここでの生活、楽しい?」
「とっても楽しい。おじさんも、おばさんも、親切だし、誰にも殴られないし」
 崇君の言葉からではなく、母と義理の父の事を思い出している崇君の心の中の情景から、紗綾樺は義父からの暴力と、母の看病に崇君が疲れていたことを知った。
「学校はどうしてるの?」
「おじさんが交渉してくれてて、もうすぐ行かれるようになるって。それまでは、おじさんとおばさんが、勉強教えてくれてる」
「ディズニーシーは楽しかった?」
 紗綾樺の問いに、崇君はびっくりしているようだった。
「どうして知ってるの? おとうさんにはディズニーランドに行くって言ったのに」
 会話を続けるうちに、紗綾樺はすっかり崇君の心の中を読みつくしていた。
「本当のお母さんに二度と会えなくてもいいの? ここの家の子供になりたいの?」
 紗綾樺の問いに、崇君はしばらく黙り込んだ。しかし、その心の葛藤は、全て紗綾樺に聞こえていた。
 しばらくして口を開いた崇君の心は既に決まっていた。
「おかあさんの病気は、もうなおらない。いつか、おかあさんがいなくなったら、ぼくはおとうさんに殴られるだけだ。本当のお父さんの顔なんて覚えてないし。僕は、おとうさんと暮らさないといけないなら、おじさんとおばさんと暮らしたい」
 十歳の子供とはいえ、しっかりとした言葉だった。
「ありがとう崇君。幸せに暮らしてね」
 紗綾樺は言うと、崇君の返事を待たず、もと来た道を戻り始めた。
「お姉さん、僕、家に戻らなくていいの? 誰も連れ戻しに来ない?」
 不安げな崇君の問いに、紗綾樺は一度立ち止まると崇君の方を振り向いた。
「今は誰も崇君がここにいるって知らないから大丈夫よ」
「でも、お姉さんは・・・・・・」
「大丈夫。お母さんは、私が説得するわ」
 紗綾樺が笑って見せると、崇君は少し安心したようだった。
「お姉さん、駅に行くの?」
「そうだけど・・・・・・」
「じゃあ、近道、教えてあげるよ」
 崇君は言うと、紗綾樺の手をとって歩き始めた。
 崇君の手から伝わってくる記憶は、紗綾樺が宮部から聞いていた物とは大きく違い、それが大人にとって都合の良い説明で、崇君本人にとっては苦しい日々の繰り返しであったことを知った。
「ここをまっすぐ行って、太い道にでたら左ね。まっすぐ行ったら駅だから」
「ありがとう」
「じゃあね!」
 崇君は言うと、笑顔で走り去っていった。
 紗綾樺は一人、駅を目指した。

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