まるで憑きものが落ちたように元気になった紗綾樺さんに僕は安心したけれど、やはり『今は何も聞かないで、私を信じてください』と言われてしまうと、それ以上問い詰めることはできなかった。
 あの少し思いつめたような瞳が何を意味しているのかが分からないから、僕はとてももどかしい気持ちになりながら、レストランの列に並んでいた。
 腕時計に目をやり、いまレストランの列に並んでいるようでは、せっかくのイベントを列から立ち見になってしまうなと思うと、自分の計画のなさに嫌気がさしたし、だいたい好きな女性とのデートを無計画に実行に移している時点で、既に紗綾樺さん争奪戦から脱落しつつある気もする。そんなことを考えながら見る周りのカップルは、みな幸せそうで、問題や不安なんてこれっぽっちも抱えていないように見える。
 単に隣の芝は碧く見えるだけだとはわかっているけれど、紗綾樺さんの体調も考えず、食事もとらずにぐるぐる回ったうえ、具合が悪くなって倒れるような目に合わせたのは僕の至らなさからだ。
 ああ、もっとしっかりと紗綾樺さんを受け止められる男になりたい。
 ため息は出るけれど、おんぶの話から笑い続けている紗綾樺さんがとても楽しそうに見えるので、僕でも少しは紗綾樺さんの人生の潤滑油に慣れているのかなと、思ったりもした。
 それにしても、順番が来ない・・・・・・。
 そんなことを考えているうちに、イベントの時刻がやってきてしまった。
 いきなり、大きな音を出して怪しげな雰囲気を醸し出す目の前の火山に、紗綾樺さんは首を傾げながら、少し不安そうな表情を浮かべでいた。
 そして、火山は見事噴火を始めた。
 その瞬間、紗綾樺さんは驚いたように僕の方を振り向いた。
「火山が・・・・・・」
「大丈夫です。演出ですから」
 僕が説明すると、紗綾樺さんは安心したように火山の方に視線を戻した。そして、火山は噴火をおさめ、それを待っていたかのように花火が火山の真上に上がった。
 本当なら、ワイングラスを片手にピザを食べながら見たい景色なのに、紗綾樺さんと僕は空腹のまま、レストランの外で順番待ちをしながら、この日最後のイベントを見終わってしまった。
「すごいですね、なんだか、本当の噴火みたいでした」
 造り物に接することのあまりない紗綾樺さんは、楽しむというよりも少し緊張した様子だった。
 思えば、紗綾樺さんを連れてくるのにここはふさわしくなかったのではないかと、僕は改めて思い返した。
 海の近く、アトラクションでは地震だ、津波だと、挙句の果てには火山の噴火。これって、どう考えても宗嗣さんと約束した、紗綾樺さんの過去を思い出させないようにするに違反しているような内容ばかりだ。きっと、これが知れたら、宗嗣さんは事前許可なしのデートを禁止にするだろうなと、僕は思わずため息をついてしまった。
「あの、夕飯はここの中でなくても、私は近くのファミレスでも構わないです」
 待ちくたびれたのか、僕の財布を心配してくれているのか、紗綾樺さんが声をかけてくれた。
「いや、外のお店もそれなりに待つと思いますし・・・・・。それに今日は車じゃないので、近くのファミレスと言っても徒歩圏にあるかどうか・・・・・・」
 あともうすぐ、次の次には順番が回ってくる。
「じゃあ、このままで・・・・・・」
 紗綾樺さんは答えると、花火のどさくさにウェイターから手渡されたメニューを広げた。しかし、ほんの数秒見ただけで、紗綾樺さんはメニューを閉じると僕に手渡した。
 ものすごい即決だ。よっぽど好きなものがあったのかなと思っている僕に、紗綾樺さんは『よくわからないので、尚生さんが選んでください』と言った。
 そうか、ファミレスではいつもの品で済むけれど、初めての場所では紗綾樺さんは何を食べていいのかわからないんだ。きっと、デザートと同じで、いつもは宗嗣さんが選んでいるから・・・・・・。
 僕はメニューを受け取り、さっと目を走らせた。このレストランに決める前に、大体の値段を調べるためという事もあるけれど、入り口脇に置かれているメニューには目を通していたので、改めてメニューを見て列から抜け出て別の列に並びなおすというような顰蹙なサプライズはない。
 しかし、僕には紗綾樺さんの好き嫌いが全く分からない。
 仕方なく僕はスマホを取り出すと、宗嗣さんに助言を求めた。既に仕事を終えているらしい宗嗣さんは、僕のメールにすぐに返信してくれた。
 ハンバーグ、ミートソースのスパゲッティ、カレーライス・・・・・・。なんだか、子供の好きなメニューのリストのようだ。
 宗嗣さん情報をもとに、僕は紗綾樺さんにハンバーグと自分にスパゲッティを選ぶことにした。それと同時に、お洒落なピザとワインのひと時は、夢に消え去っていった。理由は、宗嗣さんからのメールの最後に『絶対飲酒厳禁』と書かれていたからだ。
 僕としては、完全な非番だし、車でもないし、できればお洒落にワインくらいは飲みたかったが『絶対飲酒厳禁』と書かれては、それを無視することはできなかった。もし、自分がトラになることを心配されての事だったら心外だけれど、ここまで五言絶句調に漢字六文字で並べられては、僕の豹変を心配するというよりも、紗綾樺さんの健康にかかわることのような気がした。敢えて理由を尋ねないまま、僕はワインを片手に運河を見下ろしてロマンチックな時間を紗綾樺さんと過ごすことを諦めた。
 花火が終わったせいか、一気にレストランの列は長くなり、それと同時に閉園前に最後のひと遊びをするためにレストランを後にする人たちも多く、僕たちは順当に席へと案内された。
 一見、高級レストランを思わせる内装だが、実のところはぎゅうぎゅう詰め状態のファミレスと変わらない。ウェイターにもウェイトレスにも上品のかけらすらなく、奇声を発して食べ物をまき散らしたり、店内を走り回る無秩序で躾のかけらも感じられない家族連れに混ざっての食事だ。店内の雰囲気がこれでは、ロマンチックも何もあったものではない。しかも、ふかふかで座り心地のよさそうに見えた椅子は実は固く、長時間お客が席に粘らない配慮もされている。
 ええい、こうなったら、もうディナーにロマンチックさなんて求めるものか!
 僕は自分の中の幻想を吹っ切ると、家族連れを捌くのに疲れ切って、どちらかと言うと慇懃無礼なウェイトレスにオーダーを伝えた。
『なにこのオーダー、ガキくさ~。お酒ぐらい頼めば? 大人なんだからさ』
 正直、僕はテレパスでも、特殊な力もないけれど、なぜか彼女の顔に浮かんだ言葉が音声になって頭に響いたような気がした。
「すいません、尚生さんに恥をかかせてしまったんですよね」
 当然、同じ言葉を聞いたであろう紗綾樺さんの言葉に、僕は慌てて頭を横に振った。
「やっぱり、ハンバーグとかスパゲッティのミートソースって、大人は頼んじゃいけないんですか?」
 真剣な瞳で問いかける紗綾樺さんに、僕は無言で更に頭を横に振った。
「いいえ、そんなことはありません。僕も大好きですし、ハンバーグは奥が深いですよ。もともとはドイツ料理だったものが日本にもたらされて、独自の進化をたどり今のデミグラスソース、イタリアン系のチーズとトマトなどなどに発展したんですから。ミートソースのスパゲッティだって、ある種日本独特なものがありますし。大人が注文して、何にも悪いことはないですよ」
 笑顔で答える僕に、紗綾樺さんは少し安心したようだった。
「いつも、兄と出かけても同じような反応されるんです。だから、大人は食べちゃいけないのかなって・・・・・・」
「そんなことないですって。確か、一流ホテルのレストランにもあるメニューですし、確か、ハンバーグは専門店も多いですよ。じゃあ、今度のデートは、ハンバーグの美味しいレストランに行くってどうですか?」
 気が付けば、僕は自然の成り行きで紗綾樺さんをデートに誘っていた。
「私、いつもお兄ちゃんが食事を作ってくれるか、ファミレスなので、ハンバーグの専門店、楽しみです!」
 目を輝かせて言う紗綾樺さんに、僕は自分が案内しようとしていた、超お手頃価格の専門店ではなく、もっとグレードの高いデートにふさわしい専門店を調べるべきか逡巡してしまった。
「尚生さん、私、お店のグレードとかわからないですから、だから、尚生さんが最初に連れて行ってくれるって言ったお店が良いです」
「紗綾樺さん・・・・・・」
 僕は涙がでそうなほど嬉しかった。
 いままで、散々同期達が苦しんで来た彼女ができない五大原則(彼女からのクレーム含む)、原則一、公務員は安定しているけど、若いうちは給料が安い。原則二、警察官は休みも勤務も不規則すぎて、会いたいときに会えないし、電話もできない。いつ事件が発生するかわからないので、自分からデートを切り出してはいけない。原則三、プレゼントは安物、レストランは並み、来ているものは安物、デートは予定してもドタキャンする。原則五、将来的に殉職のリスクがあるので、結婚相手には向かない。そして、この原則には、諦めのルールと言うものが付帯する。一、安定を求める女子、但し、内勤からあぶれた女子だけが最終的に回ってくるため、見え麗しい女性の確率はゼロに近いので、我慢すること。二、連続三回デートをすっぽかした場合、結婚でも切り出さない限り、次に来る連絡は別れ話で、承諾するほかない。三、なんとかプロポーズに漕ぎつけても、内勤でないと分かると、相手の両親からの反対が激しく、場合によっては配置転換、最悪転職を要求されることがあり、これを断るとほぼ間違いなく破談になる。
 こんなルールに縛られないだけでなく、誰もが羨むような素敵な紗綾樺さんが、友達とはいえ、僕とハンバーグを食べに行くのを楽しみにしてくれる。
 もう僕は頭の中で踊りだし、それを見たらしい紗綾樺さんが、必死に笑いを堪えながらも笑う姿を見つめ続けた。
 しかし、ディナーの席は、忍耐との戦いだった。
 僕たちの幸せを嫉んでなのか、やけにウェイターもウェイトレスも冷たい態度で、更に隣の席の子供三人が猛獣のように叫んで、暴れてを繰り返していた。しまいには、食べ物がテーブルに飛んでくる始末だ。
 親は一応謝っては来るものの、子供三人作る前に、一人ずつちゃんと躾をしてほしいと、思わず言いそうになるほどの傍若無人ぶりで、僕たちはゆったりディナーどころではなく、食べ終わると脱兎のごとく店を後にした。


「はあ、すさまじかったですね」
 会計を済まして外に出ると、僕は思わず声に出していってしまった。
「仕方ないですよ。子供にも、子供の考えがあって、親がちっとも聞いてくれないとなると、ああなるんじゃないでしょうか」
 僕と違い、あのモンスター家族の内情を知ってしまった紗綾樺さんは、僕のようにイラついても、怒ってもいなかった。
「つぎ、どこに行きますか? お土産でも買いますか?」
「さっきお話しした、ホテルに連れて行ってください」
 『うっ、やっぱり忘れてなかったのか!』と言うのが、僕の心の第一声だった。でも、約束は約束だ。
「いいんですか、宗嗣さんにお土産買わなくて」
 僕は念のため確認した。
「私、何を買ったら兄が喜ぶかわからないですから、今日はいいです」
「わかりました。僕も始めていくので、ちょっと迷うかもしれませんが、行ってみましょう」
 僕は言うと、少し名残惜しげに運河の方を見つめながら、紗綾樺さんの手を取った。
「離れ離れになったら大変ですからね」
 理由をつけなくても、紗綾樺さんは僕の手を振り払ったりしないことはわかっていた。
「ちゃんと、尚生さんについていきます」
 笑顔で答える紗綾樺さんの手を引き、僕はゲートを目指した。

☆☆☆