中央救護室のベッドで紗綾樺さんが休んでいる間、僕はベッドの隣に置かれた椅子に座って紗綾樺さんが目覚めるのを待った。
 完全に意識を失い、顔色の悪い紗綾樺さんを見た救護室のスタッフは救急車を呼んで病院に搬送することを勧めてくれたが、僕は紗綾樺さんが倒れた理由が紗綾樺さんの力に関係があるのではないかと思ったので、敢えて横になって休むことを希望し、救急車を呼ぶのは止めてもらった。
 少しでも僕の気持ちが届くように、僕は紗綾樺さんの手を握り続けた。

(・・・・・・・・紗綾樺さん、僕はあなたが好きなんです。あなたが苦しむ姿じゃなく、あなたが微笑む姿が見たいんです。もし、あなたの力があなたを苦しめるだけなら、二度と自分から力を使わないでもらいたい。仕事だって辞めてほしい。毎日、大勢の知らない誰かの過去や未来、考えていることを知ることがあなたにとって幸せな事じゃないのなんて、僕にだってわかります・・・・・・・・)

 血の気を失い、蝋人形のように見える紗綾樺さんの姿は、崇君を探すために力を使ってくれた時の姿と全く同じだった。
 やっぱり僕に内緒で崇君を探してくれていたんだ。僕には、崇君よりも紗綾樺さんの方が大切なのに。なんで、紗綾樺さんに捜査協力なんて頼んでしまったんだろう。
 でも、頼みに行かなければ、紗綾樺さんと再会することも、こうしてデートすることもなかった。でも、苦しい。苦しくてたまらない。僕にはどうすることもできなのに、愛する人が苦しむ姿を見ている事しかできないなんて・・・・・・。
 その瞬間、僕は初めてあの過保護なまでに過干渉な宗嗣さんの気持ちを理解することができた。あの震災以来、宗嗣さんは僕と同じで、苦しむ紗綾樺さんを見つめる事しかできなかった。だから、紗綾樺さんが苦しまないようにすべての物から守ろうとしていたんだ。それなのに、僕は紗綾樺さんを宗嗣さんが守る城から連れ出して、倒れるほどに苦しい想いをさせてしまった。
 よく考えたらわかったはずだ。こんなに大勢の人が一ヵ所に集まる場所で、紗綾樺さんが平気なはずはなかったんだ。
「紗綾樺さん・・・・・・」
 呟くようにして紗綾樺さんの名を呼ぶと、僕は冷たく冷え切った紗綾樺さんの手をしっかりと握りなおし、その小さな手を胸に抱いた。
「この手は決して放しません。何があっても」
 次の瞬間、僕の脳裏に誰かの言葉が浮かんだ。
『本当のみんなの幸せの為なら、僕の体なんて百回焼いたってかまわない』
 それは、どこかで聞いたことのある言葉のようにも思えたけれど、どこで聞いたのかも思い出せないほど昔、子供のころに読んだ本に書かれていたような気がした。
 『どうして?』と、思った瞬間、それは僕の頭に浮かんだのではなく、紗綾樺さんから流れ込んで来たのだと感じた。
「紗綾樺さん、あなたって人は・・・・・・」
 それから先は言葉にならなかったが、僕の声が聞こえたのか、紗綾樺さんの瞼がかすかに動いた。
「紗綾樺さん」
 僕はもう一度、紗綾樺さんに呼び掛けた。
 紗綾樺さんはゆっくりと目を開けると、しばらくの間じっと天井を見つめていた。そして、見覚えのない景色に戸惑ったように僕の方に顔を向けた。
「大丈夫ですか? 急に倒れたから、ここは救護室です」
 僕の言葉に安心したのか、紗綾樺さんは表情を緩めると僕がしっかりと胸に抱いている自分の手を見つめた。
「ずっと、握っていてくれたんですね」
「えっ、あっ、はい。その、すいません、痛かったですか・・・・・・」
 僕は慌てて紗綾樺さんの手を放した。
「大丈夫です。とても、温かかったです」
 紗綾樺さんは言うと、少しだけ笑みを浮かべた。
 顔色はまだ青いままだったが、気分はだいぶ良くなったように見えた。
「お願いがあるんです」
 紗綾樺さんは少し言いにくそうに言った。
「紗綾樺さんのお願いなら、何でも聞きますよ。あ、もちろん、僕にできる範囲の事ですけど・・・・・・」
 言いながら、『公務員の給料で出来ないことは無理です』と、頭の中では考えてしまう自分が少し悲しかった。
 そうは言っても、莫大な遺産を残してくれそうな親戚も知り合いもいないし、買ってないから宝くじが当たるはずもなく、警察官だから犯罪に手を染めるなんて論外だし・・・・・・。ああ、凡人だ・・・・・・。
「そんな難しい事じゃないんです」
 僕の支離滅裂な暴走思考を読んだ紗綾樺さんが、すぐにフォローを入れてくれる。
「ここの一番近くのホテルに行きたいんです」
 『ホテル』という言葉に、文章の前後を無視して頭が過剰反応する。
 だ、だ、ダメだ。ホテルなんて、どうやって宗嗣さんに行動予定を説明するんだ? これから、紗綾樺さんとホテルに行きますなんて、メールした途端、誘拐で警察に通報されそうだ・・・・・・。いや、帰ったところを袈裟斬りか・・・・・・。
 僕の思考はとめどなく暴走していく。
「えっと、敷地に隣接しているホテルがありますよね? あの、尚生さん?」
「あ、は、はい。えっと、アンバサダーホテルかな・・・・・・」
 僕は慌てて地図を取り出して確認する。
「敷地に面しているのだと、ホテルミラコスタですね」
 僕が答えると、しばらく紗綾樺さんは考え込んでから、頭を横に振った。
「その名前じゃないです。最初の方のも違います」
「えっと、そうすると、ディズニーランドホテルですか?」
 パッと紗綾樺さんの顔が明るくなる。
「だとすると、ランドの向かいですね。ここに隣接してるほてるじゃないですね」
「そこに行かれますか? これから・・・・・・」
 僕は紗綾樺さんの真意が分からず答えに窮した。
 もし、ただ見てみたいなら、答えはもちろん『イエス』だが、宿泊したいとなると答えは『ノー』だ。予約してなくて当日行って泊まれるはずがない。万が一にも部屋が空いていたとして、とても二部屋分の宿泊費用を払える自信がない。いや、払えたとしても、当分、お昼はおにぎりだけになる覚悟が必要だ。
「あの、尚生さん。私、ただ、行ってみたいだけなんです」
 当然、僕の葛藤と煩悩の大騒動を理解している紗綾樺さんが、僕を宥めるように言った。
「とても綺麗みたいで、一度自分の目で見てみたいと思っただけです」
「あ、じゃあ、もう行きますか? 本当は、ゴンドラに乗って、ディナーをしてからって思っていたんですけど」
 僕の問いに、紗綾樺さんは即答した。
「ゴンドラ、乗ってみたいです」
「もう、大丈夫ですか?」
「はい。もう大丈夫です」
 笑顔で答える紗綾樺さんの顔色は、いつの間にか良くなっていた。
 僕は救護室の人に状況を説明し、お礼を言って紗綾樺さんと一緒に中央救護室を後にした。
 本当は、すぐに紗綾樺さんに訊きたいことがあったのだが、救護室では人に聞かれる心配もあったし、とりあえずゴンドラ乗り場を目指して進みながら、人気の少ない場所を探した。もちろん、人気の少ない場所なんて、ほとんど皆無なのだが、少なくともみんなが自分たちの事に集中していて、紗綾樺さんと僕の事に注意を向けない場所なら安全だと僕は判断した。
 辺りの様子を窺ってから、僕は足を止めると紗綾樺さんの方に向き直った。
「紗綾樺さん」
 僕が声をかけると、紗綾樺さんは既に僕の言おうとしていることを知っているから、ただ一言、『今は何も聞かないで、私を信じてください』と言った。