玄関の扉が開いて紗綾樺さんの姿が見えた瞬間、嬉しくて思わず抱きしめてしまいそうで、仕方なく扉にしがみついてその衝動を抑えたが、勧められるまま部屋まで上がり込んでしまったものの、当然ながら、仕事で出かけている宗嗣さんは返ってきていない。つまり、密室で紗綾樺さんと二人っきりという事だ。
 どうしよう。
 どうしようって、どうもこうもない。困る方がおかしい。
 いや、人目がある。こうして自分が考えもなく部屋まで上がり込んでしまったせいで、近所に変な噂でもたったら、紗綾樺さんに申し訳ない。
 でも、今時、そんなことで『隣は何をする人ぞ』という都会の疎遠な人間関係の中で噂なんてたつのか? いや、噂がたつ、たたないの前に、独身女性の部屋に男が上がり込んでいいのか? ん、でも、ここは一人暮らしじゃなく、宗嗣さんと同居の部屋だし。いざとなれば、宗嗣さんを訪ねて来て待っているという事で、噂は回避できるかもしれない。
 それより、具合の悪い紗綾樺さんにお茶なんて煎れさせていいのか? 見舞いに来た方がするべきことじゃないのか? でも、見舞いと言っても焦りすぎて手ぶらだ。花一本、フルーツ一個持ってきていない。これで見舞いと言えるのか? それなら、せめてお茶を煎れるべきだ!
 僕は取り留めのない考えをまとめると、『お茶は自分が煎れます』と言おうと紗綾樺さんに視線を戻した。
 よく考えれば、部屋の電気は消されていて、街灯の明かりで部屋が照らし出されているだけの暗さだ。そのせいで気付かなかったが、よく見れば紗綾樺さんは男物のダブダブの襟付きシャツを着ているだけだ。シャツの裾から覗く白く細い足はとても美しい彫刻のようで、思わず目を離せなくなる。
 ある意味、目の保養ではあるが、美し過ぎて妖しい欲望は湧いてこない。これが逆にフリフリ、ヒラヒラのネグリジェなんかを着ていられたら、ダッシュでお暇しないといけない事になっていたかもしれない。
 次の瞬間、紗綾樺さんがよりにもよって僕の方に腰を突き出すようにして体を折った。
 理由は、シンクの下の扉を開けたからだが、問題なのは、薄暗い部屋だから絶対とは言い切れないが、たぶん、ほぼ確実に、間違いなく、紗綾樺さんが下着をつけていないという事だ。
 そこまで考えが到達した瞬間、自分でもよくわからない声をあげて僕は叫んでいた。
 およそ、隣近所に響き渡りそうな声だ。
 それと同時に両手で目を覆った。それでも、顔に血が上って行き、明るい部屋なら凧のように真っ赤な顔になっているであろうことは自分でも感じられた。
 やばい。紗綾樺さんが何か言っているようだが、もう、言葉を理解できないくらいのパニックだ。とにかく、お茶を煎れよう、僕が、それで、紗綾樺さんには休んでいてもらえばいい。見舞いに来たんだし、当然だ。
 そこまで考えると、僕はいったん背を向けて立ち上がり、紗綾樺さんの所まで行くと、ちょっと強引かなとは思いながらも、その手を掴み、なんとか『紗綾樺さん、お茶なら自分が煎れますから、休んでいてください』と、言えたはずだ。それから、紗綾樺さんの手をひいて数歩、奥の部屋へと進んだ僕の目に、寝乱れた一組の布団が目に入った。
 枕元に紗綾樺さんのものと思しき洋服一式と女性ものの下着の上下が揃えてあるという事は、間違いなくシャツの下の紗綾樺さんは下着をつけていない。
 違う! そんなことは重要じゃない。いま重要なのは、あの布団は紗綾樺さんのもので、僕は具合が悪くて着替えもしないで休んでいた紗綾樺さんを叩き起こし、あまつさえお茶まで煎れさせようとしている不心得者だという事だ。
 とにかく、僕の理性が吹き飛ばないうちに・・・・・・。
 違う、違う! 紗綾樺さんの具合が悪くならないように、紗綾樺さんには布団で休んでもらって、僕がお茶を煎れる!
 ひたすら謝り、休んでいてくれるように頼むと、僕は紗綾樺さんを奥の部屋に押し込んでから、紗綾樺との距離を取るようにカチリと音を立ててお湯が沸いたことを知らせる電気ケトルの元まで戻った。
 あと、どれだけ僕の理性もつんだ?
 バカか、僕は。こんなこと考えていたら、紗綾樺さんに筒抜けになるのに、もう、嫌われてもしょうがないようなことばかり考えてる。
 自分の愚かさに気付くと、ズーンと気持ちが暗くなった。
 それから、紗綾樺さんが覗いていたシンクの下を覗き込んだ僕は、紗綾樺さんがこの間のカップを探していたのだと気付いた。
 そうだよな。いつもは、お兄さんと二人きり、お客の分の食器やカップなんて用意していないのが普通だよな。
 たぶん、宗嗣さんに恋人がいたとしても、紗綾樺さんの事を思えば家には呼ばないだろうし、この間の話からすれば、紗綾樺さには過去にも恋人と呼ぶような男はいなかった。それに、いたとしても、兄と二人暮らしの部屋に恋人を招待することはないだろう。そうすると、この部屋に入ることを許された第三者は僕が初めてっていう事になるのか?
 僕は考えながら、あのカップを宗嗣さんが箱から取り出していたことを思い出した。
 知っている人もいない都会での二人だけの暮らし。慎ましく、ひっそりと、まるで身を隠すような暮らし。
 僕はカップを取り出すと、この間紗綾樺さんが使っていたカップとポットを棚から取り、あの晩を思い出させる煮えたぎるお茶を煎れた。
 ふと見ると、きれいに片付いた洗いかごにはお皿も箸も何もおかれていない。
 もしかして紗綾樺さん、何も食べてないのか?
 僕は考えながら、お茶をポットから注ぎ、二つのカップを手に紗綾樺さんのいる部屋との境まで歩いて行った。
 幸いにも、紗綾樺さんはおとなしく布団の中に入って横になっていてくれた。
「お茶、熱いですよ」
 僕が紗綾樺さんの布団の脇にカップを置くと、紗綾樺さんは、ゆっくりと上体を起こした。僕は魅惑的な胸元を覗き込まないよう、紗綾樺さんから少し距離をとって正面に座った。
「もしかして、何も食べてないんですか?」
 僕の問いに、紗綾樺さんは少し考えてから頷いた。
「朝から、何も食べてないんですよね?」
 続けて問うと、紗綾樺さんは困ったような顔をした。
「起きたら食べるように、向こうの部屋に兄がパンを買っておいてくれていると思います。でも、今日は、食べるの忘れてました」
 言ってから笑って見せる紗綾樺さんに、僕は紗綾樺さんの事がとても心配になった。
「食欲ないんですか?」
「よく、わからないんです」
 紗綾樺さんが呟くように答えた。
「私、友達もいないし」
 えっ、友達?
「さっき、なんとなく誰かと話したくて、宮部さんに電話をかけちゃったんです。ご迷惑でしたよね。すいません」
 そう言うと、紗綾樺さんは頭を下げた。
「宮部さんが親切にしてくれるから、友達になったつもりで・・・・・・」
「恋人です」
 僕は紗綾樺さんの言葉を遮った。
「それは、本当じゃないです」
 心なしか、紗綾樺さんの声が寂しそうに聞こえた。
「紗綾樺さん、僕は、本当に紗綾樺さんが好きなんです。だから、本当に紗綾樺さんの恋人になりたいんです」
 言ってしまってから、僕は自分のTPOを思いっきり無視した発言を後悔した。
「やさしいんですね、宮部さんは」
 紗綾樺さんの瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「好きな女性に優しくするのは、当たり前ですよ」
 もう半ば自棄になって僕は言葉を継いだ。
「いろいろ、お仕事してみたんです。でも、人と一緒に働くお仕事はダメで。友達もできなくて・・・・・・」
「紗綾樺さん・・・・・・」
 とったはずの紗綾樺さんとの距離が自然と縮まっていく。
「お兄ちゃんは言うんです。昔は沢山友達がいたって、だから、心配しなくてもそのうち友達はできるって。でも、一人もできません」
「あの、僕じゃダメなんですか? 紗綾樺さんの友達」
 僕の言葉に、紗綾樺さんは僕を見上げた。
「宮部さんは、事件が解決したらいなくなってしまうでしょう」
 紗綾樺さんの瞳が語る孤独に、僕は紗綾樺さんを抱きしめた。
 紗綾樺さんは驚いたようだったが抵抗しなかった。それと同時に、僕は自分の心の奥に秘めていた紗綾樺さんへの深い想いを隠すのをやめた。
 ただ、ただ、紗綾樺さんをいとしいという想いが溢れだす。
 僕の心を読んだ紗綾樺さんの瞳が再び驚きで揺れた。そして、紗綾樺さんが僕の瞳を見つめた。
 僕はいなくならない、紗綾樺さんが僕を嫌いだというまで。紗綾樺さんが他に好きな人ができたと、僕とは付き合えないというまで、僕は紗綾樺さんのそばを離れない。
 溢れていく想いが紗綾樺さんの体にしみこんでいくような不思議な感覚だった。
「ほんとうに?」
 僕は心で答えるのと同時に、大きく頷いて見せた。
 不安げに問いかける紗綾樺さんの唇を塞いでしまいたいと、体の奥底から湧き上がる欲望を僕は払いのけた。
 恋人としてのキスを交わすのは、まだ先、もっともっと自分と紗綾樺さんの心が近づいてからだ。
「私の友達に?」
 継がれた紗綾樺さんの言葉は、表現するならドラム缶で殴られたような衝撃を僕に与えた。それと同時に、キスしなくて本当に良かったと僕は思った。
 でも、ここでくじけたら終わりだ。どんな恋愛だって、最初は友達から始めてはいけないという事はない。特に、僕と紗綾樺さんのような特殊な出会い方をしてしまった場合、一足飛びに恋人になるのではなく、一歩ずつ近づいて、紗綾樺さんが僕を好きだと思ってくれた時、本当の恋人になれるんだ。
 僕は自分で自分を励ましながら紗綾樺さんの問いに答えた。
「ずっと一緒にいます。紗綾樺さんが悲しい時も、寂しい時も、嬉しい時も。ずっと一緒です」
「ありがとう」
 紗綾樺さんは言うと、その手を僕の体に回して抱きしめ返してくれた。
 その瞬間、僕の背中でゴトンという大きな音が聞こえた。
 驚いて頭だけで振り向くと、そこには目を瞬く宗嗣さんが立っていた。

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