玄関のベルが鳴っても出なくていいと、兄からは言われていた。
 私にはよく変わらない、色々な理由があるらしく、はっきりと『これこれこういう理由だから』とは、説明されていない。でも、兄が心配するなら、心配をかけないようにと、私は玄関のベルがどれだけしつこく鳴っても、ノックされても出たことはない。
 だから、玄関のベルがしつこく鳴らされても、ああ今日はしつこいなくらいにしか思っていなかった。しかし、玄関の扉を叩かれ、名前を呼ばれるに至り、私は仕方なく立ち上がると玄関のところまで歩いて行った。
 歩いていくなんて言うと大袈裟だけど、私の居た窓辺から玄関までは、ほんの数歩、どう頑張っても十歩にはならない距離だ。
『紗綾樺さん、大丈夫ですか?』
 何を焦っているのか良くわからないが、薄い玄関の扉を挟んで聞こえてくるのは宮部の声に間違いない。
「はい」
 しぶしぶ返事をすると、私は玄関のカギを開けて扉を開いた。
 建付けの悪い扉に力を込めて開いた瞬間、ゴツンという音が聞こえた。
 しまった、うちの扉は外開きだから、『玄関前に人が立ってると扉に殴られることがあるから注意するように』と言われたのをすっかり忘れていた。
「紗綾樺さん?」
 扉に縋りつくようにして、頭を片手で押さえた宮部が顔を見せた。
「よかった。無事だったんですね」
 一人で盛り上がっているが、意味が全く理解できない。
「この間、無理をさせたせいで具合が悪いんじゃないかと、ずっと心配していたんです」
 ずいぶんと前の事を気にしていたとは、思ったより思いやりのある男みたいだ。
「占いの館に行ったら、あれ以来お店を休んでるって聞いたんで、心配で何度お電話しても出ないから、心配で心配で・・・・・・」
 言葉を挟む暇も与えず、宮部は話し続ける。
「お兄さんに電話して聞こうかと思ったんですけど、まさか、あの日の事を話すわけにもいかないので、仕事を待ってもらって、飛んで来たんです」
 そこまで言うと、宮部は大きく息を吸った。
「無事でよかった」
 こんなに心配されるのは、兄以外では初めてだ。しかも、心配の仕方がまるで兄そっくりだ。
「本当に、無事でよかった」
 宮部は言うと、その場にしゃがみ込みそうになった。
「あの、入ってください。うちの扉が開いてると、奥の部屋の人が出入りできないですから」
 私は、扉を閉めたいときに兄が使う言い訳をそのまま口にした。
 実際、兄がこの言葉を使うのは、しつこい勧誘が来た時なのだが、私には他には何と言っていいのかわからなかったので、そのまま使うことにした。
「あ、そうですよね。失礼します」
 宮部は言うと、扉を閉めて部屋に入ってきた。
「どうぞ」
 私は言うと、この間兄がしたように宮部に上がるように促した。
「ありがとうございます」
 宮部は言うと、更に『おじゃまします』と声をかけてから部屋へと上がってきた。
 私は兄がするようにお茶を用意すべく、お茶の缶を取り出し、電気ケトルに水を汲んでスイッチをオンにした。
 兄の話では、私は家事を良く手伝い、得意な料理も沢山あったらしいのだが、正直、まったく何も覚えていない。ましてや、火の傍に立つなんて、考えただけでも恐ろしい。
 そんな私のために、兄はIHとかいう、火を使わずに料理ができる台所にしてくれたのだが、料理を作るという行為そのものが私にはしっくりこない。だから、兄がいない間は、ペットボトルに入った飲物か、冬場は保温ポットに入れておいてくれるお茶しか飲まない。だから、お茶を自分で入れるという行為は、もしかしたら、この部屋に住み始めて初めての事かもしれない。そんなことを考えながら、私はカップを探してシンクの下を覗き込んだ。
 瞬間、宮部の文字では表現できないような絶叫が部屋に響き渡った。
 驚いて振り向くと、宮部は両手で顔と言うよりも、目を覆って下を向いていた。
「あの何か?」
 私の問いに、宮部は顔を真っ赤にして黙していた。
「いま、お茶を・・・・・・」
 そこまで言ったところで、宮部はくるりと背を向けると、立ち上がって私の方に歩いてきた。
「紗綾樺さん、お茶なら自分が煎れますから、休んでいてください」
 宮部が何を言っているのか分からず私が首を傾げると、宮部はダメ押しするように私の腕をつかんで奥の部屋の方に引っ張っていった。そして、半分開いた襖の向こうに敷かれている布団を見ると、ギョッとしたように立ち止まった。
「休んでいてください。自分がお茶を煎れて運んできます。すいません、お休みの所におしかけてしまって」
 宮部は真っ赤な顔をして謝ると私に背を向けた。
 本当なら、何を考えているのか読んでしまえば良いのだけれど、相当焦っているくせに、宮部の思考はガッチリとガードされていて、囁くほども漏れてこない。
「とにかく、やすんでいてください」
 宮部は言うと、私を置いて部屋の反対側へと戻っていった。

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