「はい、これ忘れ物」
「ああ、ありがと」

カウンター越しにスマートフォンを渡すと、ケイはにこやかに微笑んでそれをギャルソンエプロンのポケットに入れた。
周りの人たちにはケイとケイの彼女とのやり取りに見えただろうか。
こちらをちらちらと見る女性客の視線を感じる。

私も微笑み返して身体を翻しケイに向かって右手を少し挙げた。『どういたしまして、じゃあ帰るね』のサイン。

ケイは軽く頷いてカウンターから出てきた。
「気を付けて帰れよ」と言いながらお店のドアを開けてくれる。
私がうなずいてケイの横を通り過ぎる時、耳元で「声をかけられても付いていかないように」と囁かれた。

付いていかないわよ

振り返ってケイを見て苦笑いをして店を出た。

まだ21時前だし電車で帰ろうかな。
この時間の繁華街は人が多くてにぎやかだ。まぁ、ほとんどアルコールが入っている人たちなんだけど。

ケイのお店から駅まで徒歩3分。
酔っぱらいに声をかけられないようにスタスタと早足で歩いていると、前を歩く男女6人のグループが目に入った。

いやだな。
そんなに広がって歩かないでよ。
追い抜きにくいじゃない。
しかも、男性からも女性からもセレブ感が漂っている。
女性は20代半ば、男性は30代前半から半ばくらいかな。
男性は皆隙の無い高そうなスーツに身を包みどの人も引き締まった体つき。
女性もスタイル抜群で上から下まで完璧な仕上がり。アルコールが入って上機嫌なのか甘えるような甲高い声が耳障りだ。

そんな人たちが行く手をふさぐように広がって前を歩いていた。

正直に言って苦手な人種だ。
心の中でため息をついて抜かそうと足を速めた。
あれ?
右端を歩く男性の足どりがおかしい。
ふらついている。酔いが回ったにしては、急にふらつき始めて右側に寄っていっている。頭痛もするのかこめかみを押さえている。

あ、危ない。
ガラガラガッシャーン!

男性はそのまま歩道の脇のゴミ捨て場に倒れ込んでいった。

「やだー、阿部さんったら、酔いすぎ」
「飲みすぎですよ。そこ汚いから早く立ち上がって」
女性が声をあげる。

「おい、真人、何してるんだよ」
男性たちも笑っていて誰も彼に近づいたり手を貸そうとしたりしない。

私は思わず駆け寄った。

「大丈夫ですか?」
ゴミ袋の山に倒れ込んだ男性に声をかける。

仰向けになり眉間にしわを寄せて苦悶の表情を浮かべている。私の問いかけに唸るだけで返事をしない。

かがみ込んで男性の肩に触れてもう一度声をかける。
「大丈夫ですか?目を開けられますか?名前が言えますか?」

男性は目を開けず「うーうー」と唸っている。
そのうちに喉仏が上下するのが見えた。
まずい、嘔吐する。

「真上を向いてちゃダメ」
咄嗟に男性の身体を自分の方に引き寄せて横を向かせた途端にもどした。

自分の方に引き寄せたのはその方が力がかけやすかったのと生ごみの入ったごみ袋に男性の顔を押し付けたくなかったから。

きゃー

女性達が騒いでいるけれど無視して、男性の様子を確認する。
嘔吐はおさまったけれど、相変わらず苦しそうに右手は頭を押さえている。
左手は…動かしていない。左腕を軽く持ち上げて手を離すとボトンとと脱力したまま落ちていった。
「ね、ちょっとあなた。すぐに救急車呼んで」
私の背後にいる男性のお仲間たちを振り返って、近くにいた男性に声をかけた。

「え?俺?」
そう、あなた!あなたよ。
「早くして」
一瞬、私の鋭い視線に驚いたようだけれど、すぐにスマホを取り出し救急車を要請している。

すぐに救急隊が到着して、幸い隊員の中には救急救命士もいた。
意識レベルや頭痛、嘔吐、左片麻痺があることなどを伝えて私は立ち上がった。

「あなたも一緒に付き添いをお願いします」と言われたけれど、現場で処置をしている間に意識レベルは回復して男性は会話が出来るようになっていたし、ナースは必要ないだろう。救急救命士もいるからお断りをした。

救急車には1人しか同乗できない。
「私は知人ではないので、こちらのお友達にお願いしてはどうでしょうか」と背後の4人に視線を送った。

「え?あなたはお友達じゃなかったんですか?」
隊員の1人が驚いたように言う。
「ただの通りがかりで」苦笑する。
「あなたもずいぶん汚れてしまいましたね」と使い捨ておしぼりとペーパータオルをくれた。

そう、さっきの嘔吐で膝から下、ストッキングとパンプスが汚れてしまったのだ。
背後では「いやー、汚い」と女性2人の声が聞こえていたけれど振り向きもせずもちろん無視。
でも、これじゃタクシーにも乗れないか。

「病院で連絡するから。こっちをよろしく」「ああ、わかった。真人を頼む」

そんな声がちらっと聞こえた。
一緒にいた男性のうちのひとりが救急車に同乗するのが決まったらしくストレッチャーと共に歩き出す。
よかった、付き添いも決まったみたい。

この女性たちの中に恋人はいないらしい。
倒れた男性を避けるようにして見ているから。

でも、友人じゃないのかしらね。
ただ一緒に飲んでいただけってことか。
薄っぺらな関係。

どっちにしても私には関係ないけど。
「あの」

私の背後にいたここに残った方のもう一人の男性が声をかけてきた。

ペーパータオルで汚れを拭きながら
「何でしょう」と視線を合わせず答えた。

「すみません、本当にご迷惑をおかけしました。お礼と汚してしまったお詫びがしたいのであなたの連絡先を教えていただけませんか?」

私はチラリとも男性と視線を合わせることもせず汚れた手をおしぼりで拭った。

「いえ、結構です。たまたま通りががっただけですし、何も特別なことはしていませんから」

「でも、ずいぶん汚れてますし」

「いえ、本当に」私は固辞した。

「そうですよ、何にもしていないわけじゃないです。
皆さん、酔っぱらいだと思っていたのに、あなたはすぐに異常に気が付いた。
顔を横に向けて嘔吐物の誤飲を防いだり、症状の観察も処置も完璧でした。お礼はともかく新しいハイヒールの1つも弁償してもらってもいいんじゃないですか?」

そんな男性と私の会話に片づけをしていた若い救急隊員が口を挟んできた。

私は隊員を見て苦笑した。

「いえ、本当にいいんです」

「でも、汚れてしまってこのまま帰宅も大変ですよね」
と親切な隊員は帰宅の心配もしてくれるけれど、今は有難迷惑だ。




「大丈夫です。近くに知り合いがいますから。そちらを頼ります。ご心配いただきましてありがとうございます」
私は隊員に笑顔でお礼を言ってスマホを取り出した。

なおもお友達の男性と隊員は話しかけようとするから、スマホで通話を始めてそれを遮った。

「ごめん、ケイ。助けて。まだお店を出てすぐのとこにいるから」

「出発します!」

タイミング良く救急車から隊員に声がかかった。

受け入れ先が見つかったらしい。やっと救急車も出発できる。患者さんが心配だし、野次馬も増えてきて見られている不快感でいっぱいだったから早く出発して欲しい。

「連絡先だけでも教えてもらえないだろうか」

隊員が救急車に向かった後でまた、お友達に話しかけられるけれど、
「本当に結構ですから」
とお断りした。
しつこいよ。いいって言っているのに。

「でも」とまた男性が話はじめた時に私が待っていた声がした。

「エル!」

バッと振り向くとケイが野次馬をかき分けてこちらに近づいてきていた。

「ケイ」

ちょうど救急車が発進して行った。私も安心してこの場を離れられる。お友達がサイレンを鳴らして出て行く救急車に気を取られている間にケイの腕を引っ張って逃げるようにその場を離れた。


結局、ケイのお店に逆戻り。

さすがに正面からは入れないから裏口から入れてもらった。
ロッカールームで汚れたストッキングとパンプスを脱いでビニール袋に入れる。
あ、スカートもだめかも。

「何だよ、エル。だから知らない人に付いてくな言ったろ。寄り道しないで帰れって意味だったのに」
ケイは背中を向けてクスクスと笑っている。
「ごめんね。私もこんなつもりじゃなかったの」

ああっとため息がでた。

「ね、スカートもだめだわ。女性スタッフ用の制服のスカートを貸して」

洗面台でごしごしと手を洗っていると、クロックスサンダルと黒のタイトスカートを持ってケイが戻ってきた。

「タクシーを呼んでおいたから、着がえたらすぐに帰れよ」

「うん、助かる。こんな格好じゃ電車に乗れないし。迷惑かけてゴメンね」

「いや、もともと俺のせいのようなもんだから。俺がエルに忘れ物を届けてもらったからだろ」
ケイはゴメンと言う。

「じゃ、明日の朝ご飯はケイが作って」

ケイが背中を向けて私はスカートを履き替えた。
スカートもパンプスと同じビニール袋に入れて口を縛る。

「もうタクシーが来るから早く行け。ゴミはこっちで捨てておくから」

ケイに送り出されてタクシーに乗った。



流れる街並みを見てため息をついた。
はぁ、疲れた。

あの人大丈夫だったかな。
多分脳出血だろう。
言語障害やマヒが残らないといいな。

私の嫌いな集団の1人だけどあの人自身には何も恨みはない。
ただ、お金持ちがセレブオーラを出して我が物顔で騒いでいるのを見るのが嫌いで近付きたくないだけ。
ただの私の勝手な言い分。

家柄や収入でその人自身の価値まで決められてしまっているかのようなお付き合い。
あの香水や整髪料の混ざったような香りの強い人が多いのも苦手だ。自意識が高いと纏う香りも強くなるような気がするのは私だけだろうか。

もう一度大きくため息をついて目を閉じた。

明日は朝から勤務だ。もう切り替えなくっちゃ。