▼アンダンテ──日向佳澄


ただ単純に嬉しくて、あんな気持ちになったのは初めてかもしれない。あのとき、強く強く思ったのは、バレたのが中野で本当によかったということだった。
「何ぼうっとしてんだ、佳澄。はよ起きろ。ソファーなんかで寝たら休まんねぇぞ」
 その瞬間、バコッと頭に何かがぶつかった。
「毎回言ってるけどなあ、いっつもバイト終った後、ここにそのまま泊まっていくのはやめろっつの。家帰れ」
 さっきの夢の余韻でまだ頭がぼうっとしていて、宮本さんの顔がぼやけてよく見えない。視線を移すと、棚に所狭しと並べられているいくつものお酒が、この薄暗い店の雰囲気を引き立たせるように不気味に光っている。黒いカーテンで閉めっきりの店だから、今、何時だかも分からなくて、目覚めはすこぶる悪い。そんな俺から布団を引きはがして宮本さんは俺の背中をバシッと叩いた。
「もう朝だ、朝っ、学校行け、早く! 今日は文化祭なんだろ」
 すっかり忘れていた。そうだ、今日は文化祭当日だったのだ。ガバッと一気にソファーから飛び起きると、黒シャツのボタンを乱暴に片手で外して脱ぎ捨て、白いYシャツに着替える。珍しく焦っている俺が面白いのか、横では宮本さんが手を叩いて俺をはやし立てている。
「もう少しで始まんぞ。急げー遅れんぞー、サエちゃんに嫌われるぞー」
「うるさいっ」
 宮本さんがぴたっと口を閉じ、ムッとした表情をしている。舌打ち交じりに小声で言ったつもりが、聞こえてしまったらしい。
 俺は怒られる前に店を出ようと、乱暴にエナメルバッグを手に取り、ドアに向かった。重たいドアを開けた瞬間、溢れるほどの光が真っ直ぐに差し込んで俺の目を刺した。
「文化祭日和じゃん。俺の頭照り返すわー」
 奥で自分の頭をぺしぺ氏叩いている宮本さんのブラウンのサングラスが透けて、鋭い瞳がちらっと見えた。俺はそんな宮本さんに一回頭を下げてから、ドアを閉めた。
 店から出た瞬間は、なんだか映画館から出てきたときの感覚と似ている。完全に閉ざされた箱の中で少しは現実逃避できたように思えるのだけれど、ドアを開けた瞬間一気に現実が襲ってくるのだ。
「間に合うかな……」
 静かに呟いて、俺はうるさい街を走り抜けた。女子のリーダー的存在である菊(きく)池(ち)に首を絞められることになるのは確実だ。俺は覚悟を決めて、急いでチャリ置き場に向かう。秋の生暖かい風が全身を撫でていった。