私の戸惑いを無視して話を進める朝倉先生に苛立ちを覚えながらも、ちゃんと横断幕の字を美しく書けるかどうか不安に思った。毎年書道部の部員の誰かが書くということは決まっていたが、こんなにあっさり私が選ばれてしまっていいのだろうか。なんの心の準備もしていなかった私は、任された嬉しさと不安を落ち着かせるために、部室を出てすぐそばにある自販機で飲み物を買うことにした。 
 すると、ちょうど部室の前の廊下で日向君とすれ違った。
「あ、日向君」
 思わず呼び止めると、日向君は一瞬ビクッとしてからこちらに振り向いた。
「中野……、そっか、書道部員ってここで活動してるんだね」
「うん、今休憩中なんだ。中見ていく?」
「えっ、いいよ、邪魔したら悪いし」
 日向君は焦ったように否定したが、今はプレッシャーを紛らわせるために、書道部員じゃない人と話したくて、私は無理やり部室に招いた。彼は、戸惑いながらも上履きをちゃんとそろえて畳の部屋に上がり、申し訳なさそうに部屋の隅っこから足を踏み入れた。お菓子を食べたり、スマホでゲームをしていた他の部員たちの視線が、ちらちらと彼に集まっている。とくに後輩の女の子は、分かりやすく彼に見とれていた。
「でも俺、一回この部屋に入ってみたかったんだよね。校舎内にある畳の部屋ってなんか異質な空間っぽくて……」
「じゃあ入部するかあ? 日向」
 一服していたはずの朝倉先生が戻ってきて、物珍しげに部室内を見渡す日向君に近づいていった。日向君は突然現れた朝倉先生に少し驚いていたけれど、すぐに首を横に振って、あっさりと誘いを断った。
「やっぱり、中野、字が上手いんだね」
 日向君が壁にかかってる私の字を見ながら呟いた。それでちょっと鼻高々になっていると、先生がすぐに口出ししてきた。
「中野のレベルなんて普通だよ、普通。あんま褒めると調子乗るからやめろ、日向」
「……俺からすればみんな上手いです」
「お前、字だけは天才的に下手だよな。頭はいいのにな」
 さすがの私もなんのフォローもできなかった。日向君の字はお世辞でも綺(き)麗(れい)とは言えない。書いた本人しか読めないような乱暴な字体で、でも私は日向君の不器用な字が嫌いじゃない。むしろ日向君にも弱点があるんだって、隙があるように思えて、彼の字を初めて見たときはなぜか嬉しかったんだ。
「……じゃあ俺、そろそろ帰ります……」
 邪魔になっていないかを気にしたのか、日向君は小さい声でそう呟き、くるりと踵(きびす)を返して書道室から去ろうとした。しかし、その瞬間、ビリっという嫌な音がした。ピタッと固まる部員一同、朝倉先生、日向君の視線は、日向君の足元に集中した。