◆損な日──中野サエ

本音を言うと、日向君のことは全部夢なんじゃないかと思うときがある。信じてないわけじゃないけれど、どこかまだ信じきれていない。だってそうでしょう、現実世界であんな能力が存在するなんて、そう簡単に理解できるわけがない。
「中野、雑念を払え雑念を。さっきからぼうっとしてんの顔に出てんだよ。お前の筆の毛逆立てんぞ」
 ベシベシと頭を乾いた大筆で叩かれながら、私は失敗した作品を新聞紙の上に広げていた。書道室に響く部員のくすくすという笑い声が、私の顔を更に赤くさせていく。
「書き直しだ、書き直し。書け。そして書け」 
 書道部顧問・朝(あさ)倉(くら)時雨(しぐれ)は、派手な容姿と字の達筆さが全く噛み合っていない。黒髪と眼鏡でせめて教師っぽくしようとしてるみたいだけれど、元の顔のつくりがホスト顔で派手なのでカバーしきれてない。そもそも、壁じゅうに飾られている作品がかすんで見えるようなその派手なオーラは、この畳の部屋とミスマッチにも程があるのだ。
「なんだそのもの言いたげな目つきは。中野は部長という自覚をもっと持てよ」
朝倉先生は低音ボイスで忠告してから私の頭をぐしゃぐしゃにして、他の部員の字を見に行った。先生が去って、思わず安堵のため息を漏(も)らしたそのとき、肩を誰かに小突かれた。振り向くとそこにはニヤニヤした表情の、りさがいた。根元近くまで真っ黒な筆から今にも墨汁が垂れそうだ。
「いいなあ、また、時雨先生と話せて」
「いやいやいや……。どこの何がいいのよ……」
「えーだって普通にかっこいいじゃん、時雨先生。後輩からも人気だよー。それに先生目当てで入部した子も多いし」 
 りさの話を適当に流しながら私は半紙をセットし直した。
「サエと先生って仲いいよねー。なんか時雨先生もサエには特別優しいしっ」
「あの……。どこをどう見たらあれが優しいと……?」
 ミーハーなりさの言い分に呆れながらも、朝倉先生の目を気にして私は話半分で作品を書き始めた。とにかく手を動かしていないと怒られてしまうから、朝倉先生に怒られることを恐怖としないりさは、私の気持ちなんか考えずに、小声で先生の魅力を語ってくる。
「おい、そこ二人うるさいぞ」
 話しているのは私じゃないんですけど……という顔でりさを睨んだけれど、彼女は先生に注意された瞬間、態勢を整えて集中しているふりをした。その切り替えの早さに驚いているうちに、先生が再び私の前に立っていた。
「言い忘れてたけど、文化祭のとき校舎に貼る横断幕の字、中野に書いてもらうから」
「えっ、あのめちゃくちゃデカいやつですか⁉」
 思わず声を上げたが、朝倉先生はもう決まったことだから、と言って全く私の驚きを意に介さない。
「そろそろ休憩にするか、十五分後に再開な」