時は昭和。
先の大戦が終わって二十年近く経つと言うのに、私の周りでは、「女が男を立てて家を守る」と言う古い考えが横行している。
小学生の時分に、父親参観で「将来の夢」と言う題で作文を発表する機会があり、私は「いい大学を出て、オフィスレディになって男の方のように働きたい」と言った。
それを聞いた父は、帰宅してから私の頬を激しく打った。
あまりに痛さに泣き出した私に、父は冷たく言い放ったのだ。
「女が学を付ける必要はない。学ぶのは男を立てて家を守る術だけでよい――――」
少しずつ男女平等の考えが広がっていると言うのに、我が烏丸(からすま)家では戦前のような男尊女卑の考えがまかり通っている。
なぜなら、烏丸家は旧華族であり、血筋を残していくことを最も重要視しているから。
一人娘の私は、烏丸家当主である父のお眼鏡に適ったお相手が見つかり次第、その方と結婚する運命を辿る。
……冗談じゃない。
私はお人形じゃない。
ちゃんと意思と感情を持った一人の人間だ。
家の為に好きじゃない人のお嫁さんになりたくないわ。
私には昔から慕っている方がいるのに……。
午前七時半きっかりに、黒塗りの高級車が烏丸邸の門の前に停まる。
「早苗(さなえ)お嬢様、宏(ひろし)様がおいでになりました」
メイドの知らせに、寝ぼけ眼の私の鼓動が暴れだす。
私は彼女から学校指定の黒革の鞄を受け取り、「行ってきます!」と慌てて部屋から飛び出した。
「これっ、お嬢様!」と言う声は聞こえない振りをして、無駄に長い廊下を駆け抜けて行く。
玄関のドアを開けると、初夏に吹く風のように爽やかな青年が私を出迎えた。
「おはよう、早苗ちゃん」
「おはよう。お兄さま!」
満面の笑みで大きな声で挨拶をすると、目を細めて笑いかけてくれた。
お兄さまもとい長田(おさだ)宏は、名門K大学に通われている二十二歳の幼なじみ。
昔から私を妹のように可愛がってくれたの。
恋心を自覚したのは、小学校五年生の頃。お兄さまが沢山の女性から好意を持たれていると気付いたのがきっかけ。
お兄さまが私じゃない女性と交際や結婚をすると思うと胸に軋むような痛みが走ったのを鮮明に覚えている。
だけど、六つも離れているから私のことなんて妹にしか見てくれないだろう。
だから、私は本当の兄を慕うような素振りでお兄さまに甘えるの。
高校へは毎朝長田家の車で送迎してくれる。
ほんのわずかだけど、学校に着くまでの間後部座席で並んで座ってお話する時間が私のささやかな幸せ。
「お兄さま、今日の放課後のお迎えは大丈夫よ」
「おや、補習でもあるのかい?」
「違うわ! ちょっとお買い物に行きたいの。銀座の百貨店辺りに」
私の通う学校は、良家の子女が集まるお嬢様学校だけれど、お友達の中には放課後銀座に繰り出したり、喫茶店や映画館に通ったりと自由に過ごされる子がいる。
学校と家の往復だけの私は、それが無性に羨ましかったのだ。
「女性が一人で街に繰り出すのは、僕は反対だ。変な輩に絡まれたらどうする」
しかし、お兄さまはいい顔をしなかった。
「大丈夫よ。小学生の頃山猿と呼ばれた私よ。誰も相手にしないわ」
胸を張って得意げに言うと、お兄さまは片眉を下げて困った風に笑った。
「そんなに行きたいなら、休日僕が連れて行ってあげよう」
「いいの?」
「早苗ちゃんの希望はなんでも叶えてあげる」
「ありがとう。お兄さまとお出掛けなんて嬉しいわ!」
私は思わずお兄さまの肩に抱き着いてしまった。
当日おろしたてのワンピースで行こうかしら?
母が入学祝いで買ってくれた香水を付けてみようかしら?
私はすっかり休日のことで頭がいっぱいになっていた。
「おはよう、早苗ちゃん」
教室に入ると、長い三つ編みを揺らす綺麗な女の子が私に声を掛けた。
「おはよう、梅子ちゃん」
梅子ちゃんは仲のいいクラスメイトだ。
彼女も例に漏れずお嬢様で、大きな貿易会社の娘さんだ。
「あのね、早苗ちゃん」
「どうしたの?」
「さっきね、三年生の藤原先輩がこのクラスに来てね、早苗ちゃんに伝えてくれって頼まれたの」
藤原先輩もとい藤原愛子(ふじわら あいこ)さんは、誰もが憧れる学校きっての才媛だ。
確か大企業の令嬢だったはず。
「私に……?」
「昼休み、中庭の桜の木の下で待ってますって」
「行かなきゃだめよねぇ」
「藤原先輩の呼び出しを反故(ほご)にしたら、この学校で生きていけないわよ」
「そうよね」
一体私に何の用があるのだろう。
その日の午前の授業は、緊張のあまり身が入らなかった。
それからどうにか授業を終えて、指定された中庭へ急ぐ。
中庭に辿り着くと、すっかり葉桜になった木の下に、桜の精と見紛う可憐で美しい女子が佇んでいた。
彼女が藤原先輩だ。
「お待たせしてすみません」
藤原先輩は私の声に気付くと、ゆっくりと振り返り柔和な笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。私こそ急に呼び出してごめんなさいね」
「いえ」
藤原先輩は校内きっての令嬢だけれど、偉ぶることはなくとても謙虚な方だ。
「あの、お話というのは……」
私が尋ねると、藤原先輩はセーラー服のポケットから一通の封筒を取り出した。
「早苗さんにお願いがあるの――――」
あれから数日が過ぎ、待ち侘びた休日がやって来た。
真新しいのワンピースに身を包み、普段下ろしている胸まで伸びた黒髪を淡いピンクのリボンで結わえた。
しかし、折角のお兄さまとのお出掛けだと言うのに、私は上の空だった。
なぜなら、先日、藤原先輩がお兄さまへの恋文を私に託したからだ。
これを渡したら、お兄さまは藤原先輩を選んでしまうのかしら。
藤原先輩は断トツで美しくて器量も良いから。
反故してしまいたい、しかし、藤原先輩の信用を失うのも怖い。
私はここ数日その板挟みに心の中で苦しみあえいだ。
「早苗ちゃん、ぼんやりしてどうかしたのかい?」
車で移動中、お兄さまは私の顔を不安げに覗き込んだ。
だめ、心配させてはいけない。
「ううん、今日が楽しみで眠れなかっただけよ」
「それならいいけど、身体が辛くなったらすぐに僕に言うように」
にこりと微笑みながら頷くと、お兄さまはそれ以上追求してこなかった。
銀座の百貨店に到着すると、お兄さまは真っ先に婦人服のフロアへ連れて行ってくれた。
「このブラウスは、早苗ちゃんに似合いそうだよ」
男性がこのフロアにいるなんて恥ずかしいだろうに、私に似合いそうなお洋服を一生懸命探してくれた。
「ど、どう?」
「似合うよ。とても可愛いね」
ブラウスを受け取って合わせてみると、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔をいつか他の女性に向けると思うと、胸が痛い……。
ブラウスの他にスカートや靴、帽子を選んでくれたのだが、全てお兄さまが買ってくれた。
母から頂いたお金があるから自分で買えるのに、「僕が買ってやりたいんだ」と言って聞かなかった。
どんな気持ちで私に買ってくれたのだろう。
幼なじみとしての付き合いは長いけれど、お兄さまの考えていることはたまに分からなくなる。
「ねえ、私喉が乾いたわ」
私は想いをひた隠しにして、無邪気に笑ってお兄さまの腕に自分のものを絡ませた。
「そうだね。上に新しく出来た喫茶店があるからそこでお茶にしよう」
「はい」
私達は最上階にある飲食店のフロアにある喫茶店へ足を運んだ。
私はホットミルクティー、お兄さまはホットコーヒーを頼んだ。
飲み物を飲みながら、私は学校の話をお兄さまに話した。
お兄さまも大学の話を私にしてくれた。
こうしているとなんだがデートをしているみたい。
一度意識をしてしまうと、その考えが頭から離れなくて次第に頬が熱くなっていった。
「早苗ちゃん、赤いよ?」
本当のことを言える訳がありません。
「私に、お付き合いする方が出来たら、こうやってお出掛けすると思うと照れ臭くなったの」
ひとまず濁してみたけれど、何故かお兄さまから笑顔が消え去った。
「早苗ちゃんは気になる人でもいるの?」
「ええっ!?」
動揺を露わにしていまい、それは肯定しているようなものだった。