第六話 女狐の罠

「…え、私が?」

吉報を受けたのはその日の昼過ぎだった

学生時代、彩七のバイオリンの講師をしていた舞桜楽(まうら)氏が自分の主催するコンサートにぜひサプライズ出演してほしいとの事だった

「嬉しいことではあるんだけど…」

迷った末、彩七は舞桜楽に今の現状を話し、出演出来ないと電話を入れた

『なに、そんな事が…』

舞桜楽氏も驚きを隠せなかった

『…では、こうしよう

実はうちのメンバーにも今の君のような訳ありの子が一人居てね、その子も今回出演するんだが…仮装をして出るんだ』

「か、仮装…?」

『ハロウィンとかでよくあるだろう?

そうだなぁ…水の都・ベネチアは知っているかい?
あそこで行われる祭りの中に、ベネチアンマスクという美しい仮面をつけるものがあるんだ』

「聞いたことはありますけど…」

『実は今ベネチアに古い友人がいてね、彼に頼んで作ってもらおうと思ってね

どうだい、君もそれなら参加しやすくなるかな?』

舞桜楽氏は彩七がとても気に入っていた

自分の教え子の中でもダントツの実力者で、数々のコンサートを総なめにしてきたほどだったからだ

「そ、それなら何とか…」

…大丈夫、だよね?

『本当か!受けてくれるかね!

ではまた後日、折り返し電話をするよ』

そう言って一方的に切れた電話

「…相変わらずね、先生」

ふふっと小さく笑い、ベッドルームにしまい込んでいたバイオリンケースを取り出す

「…懐かしいわ」

黒いケースを開くと…

中から深紅に輝くバイオリンが姿を現した

「世界に一つだけの、私の宝物…」

ケースからバイオリンを取り出して、ギュッと抱きしめる彩七


どんなに寂しくて辛い時でも…

バイオリンを弾いている時だけは、心が安らいだ

母が大好きな薔薇の花

それをイメージした特注のバイオリン

これが幼い彩七と母を繋ぐ、唯一の架け橋だった


『彩七の音色は本当に素晴らしいわ!
亜門に劣らず、とてもいい腕をしているわ』

兄妹の中でバイオリンをしていたのは亜門と彩七だけ

たまに帰ってきた際、亜門と二人で母にその音色を聞いてもらうのが何よりも楽しみだった

しかしその回数は次第に減り、母の前でバイオリンを弾くことは無くなった


「…お母様は、もう私のバイオリンなんて興味ないだろうなぁ」

…だめだめ!暗い顔なんてしてたら!

彩七はぶんぶん首を横に振り、持っていたバイオリンをケースへと戻す

「…またあなたと演奏出来るなんて、夢みたい」

家を出てからは、もう二度と開くことはないと諦めていた彩七

恩師からのチャンスは、こんな境遇でも彩七にとっては十分過ぎるほどの喜びとなった


「…ねぇ、聞いてるの?」

自室で書類整理をしていた零

その左腕には、自分の両腕を絡ませた春奈がいた

「…お前、出禁にするぞ」

「まあ!!

…大事な幹部を出禁にする長なんて、聞いたことないわよ!」

「…黙れ」

数十分、今日はずっとこの調子

「…そういえば零くん、最近あの女と会ってないみたいじゃない」

ふと思い出したように春奈が切りだす

「あいつもあいつなりに忙しいんだろ」

書類整理が終わり、んーと背伸びする零

「あの子、仕事は何してるの?」

「…」

「…嘘。え、まさか知らないの?!」

「…あぁ」

予想外の言葉に目を丸くする春奈

「…私が調べてあげましょうか?」

妖艶な笑みで零にさらに近寄る春奈

「いらない

…話したくなければ話さない。それだけだ」

「もー!つまらない男!」

ぷんぷん怒る春奈を後に、零は部屋を出た

「…」

あいつと出会って早数ヶ月

俺は、あいつのことをほとんど何も知らない

「強いていえば甘い物とクラシックが好きってことくらい…か」

何度か食事にも行ったが…

それくらいしか、零は知らなかった

小さい頃からクラシックを聞いて育ったため、バイオリンも弾けるとか言ってなかったっけ…

「…どこかのお嬢様だったりして」

そんなわけないか、とふらっと家を出た


「…はぁ」

重い足取りで家路につく彩七

またバイオリンを弾けるのは嬉しいけど…

恩師とはいえ、少し申し訳なさもあった

「…仮装してまで演奏する意味あるのかなぁ」

スーパーの袋を両手に持ち、とぼとぼと歩く

「…あのぉ」

しばらくして、後ろから声がした

「ん?」

彩七が振り向くと、綺麗な黒髪を風になびかせた美女がいた

「えっと…私に用事、ですか?」

「は、はい!」

見かけによらず、可愛らしい声だった

「わ、私…春奈と言います!
えと…彩七さん、ですよね?」

「そう…ですけ、ど……」

そこまで口にして、ハッとする

この人もしかして、追手の人?!

身の危険を感じ、後ずさりする彩七

「?…どうかされましたか?」

心配そうに一歩前に近づく春奈

「…私に何の用ですか」

警戒心むき出しに、春奈に尋ねる

「あ、申し遅れました!
私、零くんの元で幹部をしております。榊春奈です」

零さんの…?

「あ…そう、だったんですか」

冷や汗が頬をつたったが…少しホッとした

「それで?零さんの幹部さんがどうされたんですか?」

「…実は私、彩七さんとお友達になりたくて!」

「…え?」

きらきらと目を輝かせて彩七の手をとる春奈

「零くんの家で初めてあなたを見た時、とても魅力を感じたの

…職業柄、あまり気は進まないかもしれないけど…あなたさえ良ければ、お友達にならない?」

縋るような目をされては彩七も断れない

「あ…は、はい。いいです…よ?」

引きつる笑顔を見せつつ春奈に言う彩七

「本当?!…ありがとう!彩七ちゃん!」

嬉しそうに彼女の手を握ると、スッと彩七の持っていた荷物を持つ

「え、あ…大丈夫ですよ!重くないですし…!」

「いいのいいの!こう見えて私、結構強いし力持ちなの♪」

春奈の言う通り、半袖の袖から見える細い腕には余計な筋肉はついておらず、とてもしっかりしていた

「えっと…あ、ありがとう」

「いいえ!どういたしまして」

ニコッと彩七に笑いかける春奈

帰るまでの家路は、とても楽しいものだった


「うわぁ…彩七ちゃん、いい所に住んでいるのね!」

「そ、そんな事ないよ」

タワーマンションの入口で荷物を受け取り、春奈に笑いかける

「本当にありがとう。助かっちゃった」

「このくらい平気よ!
今度はどこかランチでも行きましょうよ♪」

春奈が大きく手を振って去っていった後、彩七もマンションへと入っていった


rrr…

「…あ、もしもし?」

曲がり角を曲がったところで彼女は電話をかける

「…えぇ、予想通りの子だったわ」

くすくす笑いながら先程までのことを思い出す

「…少し、調べる必要がありそうなの

あの子のデータ、私が帰るまでにざっと洗い出しておいてくれる?」

一方的に告げて電話を切った

「彩七ちゃん…可愛い子♡」

先程までの会話を思い出し、そういえばとスマホを開く

「…どこかで聞いたことある名前よね、あの子」

一見どこにでも居そうな名前だが…

それに、誰かに似ている気がした。

喉まででかかってはいたが、この時の春奈はまだ思い出せなかった

「…でもきっと、大事な事だわ

一応、マスターに連絡しておく必要がありそうだし」

怪しい笑みを浮かべ、元来た道を春奈は戻った