水際には風呂敷包みを背負った女が、濡れた着物の裾の乱れを直していた。若い女が裾を両手で引き上げて水の中へ入っていった。 木切れが浮び、少しつづ北へ動いている。潮が満ちてくるのだ。だったら、ここは海面より低いのだ、と隆はあたりを見まわした。道路の両側には商店や食堂が並び、脇道の奥には工場やアパ-トが見える。
 ここが海面より低いとは、一昨日までは誰も考えなかっただろう。一昨日までは海岸堤防で守られた地面だったのだ。堤防が崩れれば、水底になる地面だったのだ。信じていたいたものが崩れれば、と隆は空をみあげた。皮肉な程に澄み切った秋空だった。

 大学に入って間もなく、あどけない丸顔の弘美が隆のこころを捉えた。なんと清らかな瞳だろう。
 同じ教室にいるだけで隆の胸は満ち足りた。弘美との逢瀬を思い描きつつも、声を掛けようとはしなかった。弘美は自分とは比べようにない温和な家庭に育った清純な女だと思った。
 大きな目でみつめられ、おはよう、と声を掛けられると、あらぬことを口走りそうになった。
 弘美に惹かれる学生は隆が知るだけで五人いた。だが弘美は誰にも平等に笑顔を振りまいた。弘美に言い寄る学生は手ひどい肘鉄をくらうらしく、ノイローゼになる者、身を持ち崩す者がいた。
 
 数か月前、取り留めのない空想に耽って歩いていると、誰かの視線を感じた。空想をおしのけて前方を見ると、弘美が隆の顔を覗きながら、近づいてきた。澄んだ瞳が輝いた。訝りながら、悦びを込めて見返した。と、弘美の瞳は光を失い、隆の後方を見ているかのようにぼやけ、大きく回転してから、素知らぬ顔をした。