運命の出会いとか
あの出会いは運命としか思えない
って言葉にして人は簡単に過去を肯定する
だけど
受け入れたからこその運命なのだって私は思う。
全ては自分で選択したことだけど
意思では逆らえないことにして自分を肯定する。
運命だから仕方ないの・・・と。
だけど
私は私の意思で彼を選んだ。
だから
こうなってしまったのは彼のせいでも誰のせいでもなくて
私の意思だと思いたい。
そうでないとあまりに不条理で
何も信じることが出来なくなってしまう。
神も仏も遺伝子も関係ない。
これは私が決めたこと。

・・・

「お母さん、行ってくるよ」
夫はそう言って忙しなく家を飛び出して行く。
平日の朝の決まり事だ。
私はエプロンで手を拭きながら玄関まで走り
「お父さん、気をつけて」と夫を見送る。
5歳の紗希(さき)も追いかけて来て私のお尻にしがみつく。
幾度も繰り返したいつもの光景だ。

夫はいつから私をお母さんと呼ぶようになったのだろう。
私には絵美と云う名前がある。
「絵美、行ってくるよ」
紗希がまだお腹に居た時、夫は玄関先で唇を尖らせた。
私はそっとキスをして
「早く帰ってね」
と夫を送り出すのが毎朝の光景だった。
今でも、その頃を懐かしむ自分が居て
「お母さん」と呼ばれることがほんの少し淋しいと思う私も居る。
だけど私も「お父さん」と呼ぶのだから我儘だとは理解している。
でも、夫が絵美と呼んでくれたなら、きっと私も淳一さんと呼ぶだろう。
そう呼び合っていた頃は、二人の間に恋があったように思う。
今でも夫は大切な人、それは間違いがない。
ただお金を運んでくれるからとか
紗希を可愛がってくれるからとか
肉体を悦ばせてくれるからとか
そういうことではなくて
私はこの家庭を愛している。
だから夫は大切な人、私を構成するに欠かせない人。
でもあの頃が懐かしい。

そんな私が資(たすく)と出会ったのは
今夜は私から淳一さんと呼んでみようかしら・・・
と思ってみた日だった。



その秋の日は何故か夫のことを多く思い出した。
紗希を幼稚園に送り届けた私は久しぶりに銀行勤めをしていた時の友人に会うために都心へ向かう私鉄快速に揺られた。
通勤時刻を過ぎた東急は座席に腰を下ろすことが出来た。
学生やサービス業に勤める女性客を眺めながら、私は夫とのことを振り返った。

紗希を出産するまで都銀の支店で窓口業務をしていた。
夫と知り合ったのも、その頃である。
大学を卒業して5年目のことだった。
夫は広告代理店を経営していた。
経営と言っても職員わずか数名、商社に勤めたことのある夫の顔の広さだけが取り柄の小さな会社だった。
夫は運転資金の融資を申し込もうと、私の勤める銀行に度々足を運んできた。
窓口に座る私にペコンと頭をさげて、曇りガラスのパーテーションに隠された相談ブースに消えていく背中は何処か哀愁が漂っていた。
後で聞けば、創業して三年目、経営の一番苦しい時期だったと言う。
苦しかったのは経営だけでなく、愛想をつかされ配偶者にも逃げられてしまうと云う人生のどん底だったらしい。

「でもな、将来を約束された一流商社勤務を辞めて棘の道を勝手に選んだのだから仕方ないよ」
と言って、夫は先妻を庇う。
すべては自分が決めたことだから・・・と。
私は、そんな夫を男らしいと思いながらも、夫の一番苦しい時期を支えたのは私なのだと腹立たしくも思った。
夫は私の心情を察したらしく
「今の俺がこうして居られるのも絵美のおかげさ」
と言って、私の心を慰めた。

資金繰りに追いかけられ、先妻に逃げられた夫を支えたのは私だった。
銀行に勤めながら、生活費の全てを私が賄った。
だから出産も遅くなったのだ。
紗希を産んだのは34で、夫はひと回り上の46、今はそれぞれ5つ年を加えている。
どうしてそんな男を選んだのか、それは後になってもよく分かっていない。
強いて言葉にするなら、憐みなのだろうか。
相談ブースに消える背中を見ているうちに、身体の内に愛の火が灯っていた。
同じ窓口業務の有紀は、「どうして、あんな人?」と不思議そうな顔で私を見た。
「苦労することが分かっているのに、絵美も貧乏性なのね」と言って呆れてみせた。
その友人と会うために、私は渋谷駅を降りて道玄坂を登った。
いずれにしろ、私にとって夫は欠かせない人になっている。



憐みでも同情でも
一度芽生えた愛の灯は業火となって私を焼いた。
血が沸騰し肉が爛れるほどに夫を愛した。
友人が何と言おうと
親が何と正そうと
私は夫と歩くことを決意し、夫を立ち直らせようと働き、全身全霊で夫につくした。
別に夫が初めての恋ではない。
元々自分には情熱的な一面があって恋をすると他の何もが目に映らなくなる。
学生の頃は、それで学業と友人を失くしたこともあった。
だが、この頃になると幾分大人になったようで、夫と私の恋のために全てがあると思えるようになっていた。
つまり、銀行で働くことも夫のためなのだと思い仕事をないがしろにすることはなかった。
幸い銀行は男女の間に差別はない。
もちろん出世とかは別だが、同じ立場であれば給与の格差はなかった。
だから、同じ年頃の同性と比べれば所得には恵まれていたはずだ。
夫も死に物狂いで働き、私に愛を注いでくれた。
夜遅くまで仕事をして、帰宅すると私を抱いた。
私の情愛が通じたのか、夫の象徴は固く熱く膨張した。
その熱の塊を受け入れた私の肉体は熱く燃え、部屋の温度を上げた。
喉が裂けるほど咆哮をあげ
自ら腰をぶつけ
夫の背中に深く爪を立てた。
そうすることで全ての批判を打ち消し、自分の選択を肯定しようとした。
この男性となら何所までも堕ちて行ける
何処へ辿りつこうと後悔しない
そう信じていた。
夫もそれに応えるように吹き出す汗を私に振りまき憎むべき相手のように私を攻撃した。
獣と化した二人は互いの想いを確信し、私は夫を赦し、夫は私の赦しに応えてくれた。
そうして我武者羅な熱い年月が過ぎ、夫の会社は躍進した。
経済的にゆとりが生まれ、ふたりは子供を持つことにした。
それでも妊娠するまでに1年を要し、私は銀行を退行した。
紗希を出産すると、夫と私の関係が微妙に変化した。
経済的ゆとりと共に、かつてのような我武者羅な愛は姿を消し、静かな暮らしが訪れた。
夫は私を「お母さん」と呼び
私は夫を「お父さん」と呼んだ。
穏やかな毎日は、私に幸せを実感させ、夫を選んで良かったと平穏な毎日を感謝しながら過ごした。
そうして紗希が5歳になる。
夫は紗希を愛している。
そして私のことも愛している。
あの頃のように激しいセックスではないが、緩やかな愛の行為で私を燃え上がらせる。
私は夫を受け入れながら、この毎日がいつまでも続いてくれるように祈るのだ。



道玄坂を円山町に向かった。
都会の喧騒が自由奔放に生きていた頃を思い出させてくれる。
その分だけ若返ることが出来た。
待ち合わせは隠れ家的なイタリア料理店。
有紀は三つ年上の同僚を選んで銀行員の妻を謳歌している。
子供は居ない。
6年ほど旦那の転勤について行き東京へ戻ったばかりだから顔を見るのも久しぶりだ。
約束の時間まで数分、少しだけ駆け足で待ち合わせ場所へ向かった。
夫のことを思っていたからか、遅刻してしまうと急いでいたからか、横断歩道の信号が変わったことに気づかなかった。
激しいブレーキ音の直後に大きなクラッシュ音がして、視線を向けると大型のバイクが転がっていた。
信号無視をした私を避けようとして転倒したことはすぐに分かった。
掛け寄ろうと思ったけど足が動かない。
バイクの影からのっそり立ち上がる黒いシルエットを息を呑んで見つめるだけだ。
視界から色が消えている。
白と黒の中間色しか意識出来ない。

色を思い出したのは「大丈夫ですか?」とシルエットが私に問い質した時だった。
ブルージーンズが破け、そこから赤い血が流れていた。
そこから目が放せなかった。
俯く私の目の前に何かが差し出されるまで、私は顔を上げることが出来なかった。
「壊しちゃいました」
差し出された物が何なのか、すぐには理解出来なかった。
数秒後にベルトの切れたハンドバックだと判る。
「腕、大丈夫でしたか?」
シルエットに手首を掴まれる。
腕の内側が赤く擦り?けていた。
バックのベルトが作った痕だった。
何かが喉に詰まったように声が出ない。
「・・・は、い」
ようやくそれでけ言えた。

ヘルメットを脱ぐと、シルエットが若い男性に変わった。
こげ茶色の瞳がまっすぐに私を射抜いている。
どうしてか、ドクドクと心臓が高鳴った。
「怪我、ないですか?」と、彼が問う。
私は、コクンと頷いた。
「これ、俺の名刺です。何かあったら連絡ください」
彼は小さな紙切れを私の手に握らせ背中を向けた。
足を引きずりながら倒れたバイクに向かって行った。




バイクを立て直した青年は、瞬く間に去って行った。
私はただ茫然として見ていることしか出来なかった。
どう考えても悪いのは自分なのに
どう見ても彼のほうが重傷なのに
青年は責めるどころか私を気遣ってくれた
何故?
どうして彼は私を気遣ったのだろう
どうして私は何も出来なかったのだろう
青年が消えた後、後に残されたのは後悔と自己嫌悪と一枚の名刺
そして、こげ茶色の瞳と赤い血が私の心に強く焼きつき、有紀との会話も秋の風もそれを忘れさせることはしなかった。

夜、彼のことを夫に話した。
夫は彼の名刺を私に返しながら「明日にでもお礼したら」と言った。
私は彼の名刺を見つめながら「そうよね」と呟いた。
洒落た名刺だ。
井沢資・・・彼の名前だ。
デザイナー・・・彼の職業だ。
後は住所と電話番号、それにメールアドレスが印刷されていた。
私の心の動きを夫は見ていない。
楽しそうに紗希の相手をしている。
私は自分の中に何かが芽生えていることを感じていた。
だから彼に再会することに躊躇を感じていた。
彼は私の何かを刺激した。

翌日、ワインを一本買って彼のオフィースに足を運んだ。
アポイントは取らない。
彼が留守ならば事務所の人に預けて帰ろうと思った。
かわりに短い手紙を添えた。
手紙には昨日のお詫びとお礼を書いた。
そして名前だけを記した。
居ない方がいいんだ
会わないほうがいい
自分の中の何かがそう言っている。
会ってしまえば、私の何かが変わる。
そんな気がしていた。

しかし、井沢資は居た。