「おはようございます」

秘書室のドアを開けて部屋に入った千堂 恵(けい)は、すでに自分のデスクでメールチェックを始めている秘書課チーフであり専務専属の香月 沙羅に挨拶をすると、パソコンから恵へと視線を上げた香月から微笑みを向けられた。

「おはようございます」

その微笑みは同性の私でもドキッとするくらい魅力的で、先週入社したばかりの恵には憧れの先輩である。

美人なのに優しくて、仕事までできちゃう。

こんな人が世の中本当にいるんだなってつくづく思う。

自分のデスクにバッグを置いてから給湯室に向かい、もう少し経ってから出社して来る役員の為にコーヒーメーカーをセットして、カップを準備しておく。

ここまでやっておけば後は専属秘書がそれぞれやってくれるので、恵はみんなに挨拶しながら自分のデスクへと戻って始業の準備を始めた。
恵はタチバナフーズに入社してまだ6日ということで簡単な業務を任され、後は香月さんから新人教育を受けている。

大まかな仕事内容を聞いた時、正直自分にその全てができるようになるのか不安になった。

そもそも未だに秘書室に配属になったことが自分では信じられなかった。

頭脳明晰ではないし、先輩秘書達を見渡しても同じようになれると思えない。

不安になって香月さんにその旨を伝えると、『大丈夫よ。誰だって最初は不安だし、失敗も多いものよ。それは秘書室みんなが承知している上で成長させていくよう指導するから、千堂さんも焦らずに頑張ってね』と極上のスマイルで返してくれた。

なんて優しい先輩だろう・・。

秘書室という特別な空間に気負いしかなかった私だけど、できる限りの努力をしていこう!と思い直すことができた。

私が配属された秘書室とは別に社長室秘書もいる。

社長室の秘書は現社長に長く付かれている方が3人いて、つい先日ご挨拶させて頂いた。

社長が若い頃から専属として付いていた方たちで、皆さんベテランの貫禄が凄まじかった。

私達の秘書室とは部屋も別なので、通常の連絡は私達の秘書室室長が全て取っているということらしい。

私もいつかバリバリと働ける秘書になれるのかな?なんて想像ばかりしてしまう。
それから3日後、恵は初めての残業をしていた。

簡単な資料整理なのに量が多かった為、終業時間までに終わらせることができなかったのだ。

やっと作業も完成し香月チーフに確認してもらい本日の業務を終わらせることができたので、帰り支度をしていると一人の男性が秘書室に入って来た。

するとチーフが立ち上がり「室長お帰りなさいませ」と声をかけた。

それに合わせて私も立ち上がり「おかえりなさいませ」とお辞儀をしながら挨拶をした。

「ただいま」

にこやかに笑顔を見せて自席へと向かうその姿をついボーッと見てしまう。

何ともイケメンさんだ。スリムなスーツで歩く姿に風が吹く。

ああ...この人が室長なんだ。

副社長専属秘書である室長とは今日が初対面。

副社長が海外視察の出張期間中に私が入社した為、副社長と室長にはお会いすることができていなかった。

噂だけ聞いていた人にやっと会えたということだ。

社食でよく聞いていたのは、『副社長派と秘書室室長派のため息混じりの恋バナ』である。

それぞれがいかに素敵か、そして格好いいか。

それはもうキャアキャアと、楽しそうに華やいでいた。

なるほど...目の前に見る室長は清潔感溢れていて、『モデルさんみたい~』と噂の室長派に、私の中でとりあえず軍配があがる。

そんなことを考えながら眺めていると、デスクにバッグを置いた室長が私に視線をよこした。

そして視線が合うと少し微笑んで見せた。

「新入社員の千堂さんですね」

「はっ、はい!千堂です。よろしくお願い致します」

そう挨拶してお辞儀すると、室長は私の側まで歩いて来てお辞儀を返しながら自己紹介をしてくれた。

「秘書室室長の向井です。お会いするのが遅れて申し訳ありませんでした。どうですか?仕事は少し慣れましたか?」

優しい眼差しで問われると、何ともくすぐったい気持ちになる。

いけない、いけない...しっかり答えないと!と気持ちを立て直して返事をする。

「まだ分からないことばかりですが、いろいろと教えて頂いています」

「そうですか。香月チーフがビシビシと厳しく指導してますか?」

そう愛嬌のある顔を見せて言うと、「ビシビシ厳しくは余計です」と香月チーフが片眉を上げながら異論を唱えた。

社会人として上下関係がある中でこんな風に言い合えるのっていいなって感じて、つい私も笑ってしまった。

「香月さんはしっかりと教育してくださる方ですからね、私も安心して任せて留守にできます」

そう言って微笑んで見せた。

いや...恐るべしスマイルだ。

ほら、怒っていた香月さんも頬が少し赤くなっている。

これはもてるよね。みんなが噂するのも分かる。

うんうんと納得して2人の会話を聞いていると、向井室長が私に視線を移してきた。

「そうそう、副社長に紹介がまだでしたね」

「え...はいっ」

副社長に紹介という単語を聞いて、急に緊張が走る。

副社長の父親である社長には、入社早々の研修期間にご挨拶させて頂くことができた。

とても優しい対応をして下さって、『頑張って下さいね』と笑みを見せてくれた。

威圧感など全くなくて、社長自ら自分の秘書を紹介してくれた。

その時だって自分の名前すらどもってしまう位緊張してしまったし..。

今度こそ大丈夫かな?




「千堂さん、大丈夫ですか?」

やや首を傾げて私の顔を見る向井室長に「はい、すいません。大丈夫です」と答えると、頷き返してくれた。

「では今なら自室にいますから、行きましょう」

「はっ、はい!」

スタスタと歩き出す向井室長の後を追いかけて、急ぎ足でついて行った。

廊下に出て副社長室に向かう途中、室長はふと足を止めて振り向いた。

そして私の顔を見て微笑んだ。。

「緊張してますか?」

「...はい、してます」

その返事すら硬い私をクスッと笑いながら、「大丈夫ですよ」とゆっくり優しいトーンで言ってくれた。

「副社長は気が強くて、頑固で、ワガママですけど..優しい気持ちをお持ちの方ですから」

そう副社長を表現した向井室長に驚いてしまう。

 ーん?あれ?聞き違えた?ー

今けっこう凄いことを言ったような気がするけど..。

向井室長の顔を見ながら頭の中で今聞こえたと思われる言葉を反芻していると、ニッコリと笑顔を見せてよこす。

そんな室長を見てふと感じてしまった。

 ー向井室長って...素敵だけど、なかなか曲者なのかもしれないなー