“ゆうけい”と滑らかに書かれたその板は、久しぶりに見てもとても存在感があって 立てつけの悪い引き戸とは正反対だと思った。
「あ、ちょっとまって蒼。」
ふらりと振り向いて、髪がなびく。
「ここの引き戸は昔から立てつけが悪くて……。」
「鍵穴の横らへんを叩くとなおるんですよね。」
知ってるんですか、と驚く私に 少し恥ずかしそうに笑う中肉中背のその人。
そういえば名前 聞いてなかったな。
「……あの、お名前は?」
私のこころを読んだかのように尋ねる蒼。
顎に手を当てる仕草が、“男性”という性別を強調しているようで、素直にかっこいいと思った。
近くなった距離に戸惑って、反射的に横を向くと、あの大きらいな蛙の置物と目が合う。
「林といいます。」
焦点が合っていない二つの目が、幼心にきもちわるいと思った。
まるでこの世に存在してはいけないもののような気がして。
“ジー”という音が際立って、心臓の裏が汗でべったりとしてくる。
奥で聞こえる林さんの声も、頭を通り過ぎていくばかりで内容が残らない。
早く中に入りたいという気持ちで、彼に目くばせした。
「……では入りましょうか。林さん、よろしくお願いします。」
「ええ。」
背中のうしろで手を繋いで、やさしくひかれる。
ごつごつした男性らしい手つきが いやらしくて ずるいと思った。
“いらっしゃい”
番台のおばちゃんが、耳に心地よい声でいつもの挨拶。
お風呂の熱気で、室内がほわほわと暖かかった。
銭湯独特の香りをゆっくりと鼻から吸い込んで、うっとりとする。
林さんと私は軽く会釈をして、下駄箱に靴を収める。
大きな木でできた下足札が懐かしい。
……蒼、お辞儀は90度じゃなくてもいいんだよ。
浴衣姿でのお辞儀は滑稽で、通り過ぎる人たちは少しぎょっとして去っていく。
おばちゃんは相も変わらず「あついねぇ」を繰り返して、扇子でぱたぱたと煽っていた。
使っているものは昔と変わっていないようだ。
「大人は460円ですよ。」
親切に林さんは料金を教えてくれ、Lはそのコストパフォーマンスの良さに心底驚いたようだった。
1回で5000円くらいだと思ったのかなぁ。
一般庶民のわたしには、いくら想像でもこれ以上の値上げは考えられなかった。
つぎはぎのがま口を パチンと開けて、私は920円を取り出す。
「……カードは使えないのですよね。」
「“フソクノジタイ”、かな?」
「はい。」
申し訳なさそうな面持ちで私を見る彼が可愛くて、くすくすと笑った。
「じゃあ私が払うから、あとで倍にしてちょうだいね?」
「……不徳の致すところデス。」
冗談なのに、と笑ってみせると彼は「100倍にして返します。利子は1分ごとに1000円で。」と付け足した。
それだと5万円超えちゃうよ。
もう大丈夫だからって、私は小銭を取り出し 林さんに続いてちゃりんとおばちゃんの手の中に収めた。
「ひい、ふう、みい……はい、確かに。」
目を凝らしてお金を確認したおばちゃんは、弾かれたように私を見た。
「……あれまぁ、もしかして いちごちゃん?」
「!……覚えててくれたんですか?」
当たり前だよ、とバンバン林さんの肩を叩きながら(なぜ林さんなんだろう)目尻にシワを増やして微笑みかけた。
「2人はお知り合いで?」
「ええ。この子がちっちゃい時からね。」
ほっといたら昔話でも始めそうだ、と思って愛想笑いで幕を閉じたく思う。
私の思いとは裏腹に、蒼はその話題にかなり興味があるらしい。
食い入って話を聞いている。
「……初耳です。いちごは蛙が嫌いなんですね。」
「げっ。」
あの蛙のこと!
おばちゃん覚えてたんだ……。
「そうよぅ。あなた、毎回その蛙を避けるようにして歩いててねぇ。
1度泣いちゃったこともあったわねぇ。」
か、顔から火が出る思いだ。
恥ずかしくて「うー」と苦虫を噛み潰したような口から出た嗚咽。
「確かに僕もあれは苦手でした。目の焦点が合っていないんですよね。」
「そんなに不気味なものなんですか……。」
蛙ばなしに花を咲かせる男陣を放っておいて、おばちゃんは私に手を出して、と言う。
「?……なんだろう。」
見ると、小さないちご飴だった。
薄ピンクの包み紙に包まれて、明朝体で“いちごみるく”と書かれてある。
「わぁ、懐かしい……ありがとうございます。」
子供のころ、手のひらくらいの大きさだった飴は、今は親指ほどしかない。
私はお返しに ぎゅっとおばちゃんの手を握って、
蒼、林さんと別れた。