「って、あの、ちょっと待ってくださいよ。」
腕を掴まれてわたしは立ち止まった。
一瞬心臓が止まるかと思った。……こういうの、好きじゃない。
これは変に振りほどいてもめんどくさいことになるだけだ。わたしは無言で腕を離してくれるのを待った。何も言わず、耐えるのみ。触れられた部分だけがヒリヒリする。
人と関わらない。だっていいことなんて一つもないから。
大体こうやって無言でいれば、みんなきみ悪がって接してこなくなる。
「あの、聞こえてんすよね?」
「…。」
「あの〜。」
「…。」
とうとうしびれを切らしたのか男の口調は乱暴になった。
「聞こえてんだろ。」
暗くて顔は見えない。それに見ようとも思わない。
その男はわたしの腕を掴んだまま前に回った。だけどわたしは彼を見ていない。
「あの。」
「…。」
「おいってば。」
「…。」
「なあ!」
「…。」
「すいませーん!」
…しつこい。すごく、すごく面倒くさい。
何度目かに声をかけられて、わたしはやっと顔を上げた。
その男は声を張り上げた、「怪我!」
わたしは眉をひそめた。
「あんた、自転車から落ちて、怪我してないんすか?」
男の瞳が揺れている。
「てか、してねーほうがおかしいけど。」
ぼそっとそんなことをつぶやいている。
怪我…?
ああ。さっき落ちたことか。
心配してくれてるのだろうか。
だけどきっとこういう心配もただの見せかけ。
心の中ではきっとめんどくさいとか思ってるのだろう。
人間はそんなものだ。期待する方がバカだ。
わたしは冷たくその男を軽蔑すると、ゆっくりとその腕を引き離した。わたしは無意識に彼に触れられた部分をさすった。
やっと心臓が落ち着いた。
ちなみにわたしは怪我をしていないだろう。こんな些細なことで怪我をするほどわたしは弱くない。
まあ、していたとしても、今は急いでいる。それにわたしは痛みを感じないから、血が流れていようが関係ない。
それに向こうが急に飛び出てきたからこんなことになっているわけだだから、心配する時間があるなら早く行かせて欲しい。
それを彼の謝罪として受け取ろうじゃないか。
なのになにさ。あーだこーだ言って、こっちはただでさえ急いでいるところなのに…
はあ…ほんと、めんどくさい。
「本当に大丈夫なんすか?」
「…。」
「あの、ほんとスンマセンした。」男は諦めたかのように言うと頭を下げた。
わたしは何も言わずにその場を去った。冷酷な女とでも思ってればいい。
だってわたしは実際、心なんてもん、とうの昔に捨てているから。
わたしはすやすやと眠っているあーたんの髪を優しくすいた。
小さな、小さなこの命が愛おしい。それでもわたしはまだどこか空っぽだ。
わたしは無意識に左腕をさすった。虚しい時にする癖だ。何が足りないのだろう。わたしはきっと人間として何か大切なものがかけている。
「あーたん、大好きだよ。」
わたしは窮屈なカプセルホテルの部屋で、そっとあーたんを抱き寄せた。
-----------
わたしは寝不足で疲れている体を引きずるように運んで高校へ向かった。
夜、家でできる簡単なバイトを見つけたから、夜中じゅうほとんど寝ずに作業をしていたのだ。
わたしは運動場のそばのベンチに腰を下ろすと、ぼうっと朝焼けの学校を見つめた。
本当は、わたしもここに通うはずだった…。
しばらく座っていると背後から声が聞こえたが、わたしは振り返りもしなかった。
「…の。」
…
「…えの。」
…
「この前のっ!」
やけにうるさい。あさだけはゆっくりさせてよ。
すると急に隣に誰か来た。
いきなりで驚いたが、別に顔はあげなかった。
わたしに用がある人なんていないから、一体何が目的なんだろう。
「あの、この前の人っすよね?」
わたしはため息をついた。チラッと横を見ると、一人の青年が自転車を横に立っている。
いかにも「青春してます!」というような、日に焼けた運動着姿の男子だ。
わたしは冷たくその青年を見返した。
「さっきからずっと声かけてんすけど。」少し不機嫌そうに眉根を寄せている。
誰?
しかもこの前ってなんの話…?
わたし人と関わるようなことしてないんだけど。
もしかしたらバイト先の新人さんとか?ありうる。
名前覚えない主義だから。
「えっ、もしかして覚えてないとか?」
その少年は明らかなリアクションをした。
苦手だ。
人間味溢れているような人がわたしは苦手だ。
わたしはすっと顔を背けると、また運動場を見つめに戻った。
「って、おい!人が話してんだけど!」
ほんと、誰?めんどい。
「自転車から落ちた件、ホントすいませんでした。」
ああ。あの時の…
「別に。気にしてないから。」そう言ってわたしは立ち上がった。
青年は顔を上げた。
「怪我とか…。」
「してないから。」
「はぁー、よかったあー。」
青年はしゃがみこんだ。ほんと、どこまでオーバーリアクションなの?
まあ、かすり傷はできていたけど。
わたしが背を向けて歩き出そうとすると、慌てて声をかけられた。
「俺、有馬康介(こうすけ)っていいます。」
いきなり自己紹介が始まった。いやいやいや、聞いてないから。
「いつも部活練習見てくれてますよね?」
驚いた。
気づいていた人もいたんだ。
わたしは振り返って彼を見た。
「大会のための敵チームの探りとかだったらやめてくださいよ。」
その有馬康介という人物はニヤッと笑った。
だけどわたしの睨みを見て慌てて苦笑いを作った、「…冗談っす。あの、大学生ですか?」
わたしはそれを聞いてすうっと 心がさめていくのを感じた。
どうせ、彼も私を軽蔑するのだろう。
シングルマザ—の中卒とか最悪じゃん。
それもまだ高校三年生。彼と同じ学年かもしれないのに。というか、多分同じ学年だろう、部活の様子を見ていると。
わたしは背を向けて今度はほんとうにあるきだした。
「さよーなら!」
そんな陽気な声が聞こえたような気がした。
あれから有馬康介は何かと関わってくるようになってきた。
そのためわたしの安堵の場もめんどくさい場へと変わっていったのだった。
彼がどうしてこんなに関わりたがるのかがわからない。どうせわたしは面白くないし、多分、いや、確実に失礼な人間だ。
人の目は見ないし平気で無視するし…って、自分の欠点を述べられるくらいわたしは自分の事をよくわかっているつもりだ。
まあ、とにかく、わたしみたいな最低な人間にずっと話しかけても何も彼の特にはならないだろう。
だったらとっとと部活に行けばいいのに。
ちなみに私はあれから1度も返事をしていない。
それでも気さくに話しかけてくる。
一体どういう精神をしているのだろう。