小さなお皿とスプーンとコップを用意して、キッチンに向かった。
キッチンには、シチューの残りが入っている鍋が置かれていて、それはまだ温かそうに湯気を立てていた。
わたしはお玉で少しだけ掬って、小さなお皿の中に注いだ。
それからコップに水を入れて、リビングのダイニングテーブルの上に並べた。
わたしは、いつもならおばあちゃんが座る椅子に、ピロを座らせた。
ピロは、目の前にあるビーフシチューを不思議そうに見つめている。
ピロの住む星のご飯ってどんなものなのかな。そもそも、食事をするっていう習慣はあるのかな。
「いただきます」
わからないことはたくさんあるけど、とにかくいただきますをした。
ピロは戸惑いながらも、両手を合わせて「いただきます」とわたしの真似をした。
そしてわたしは右手でスプーンを持った。
するとピロも真似してスプーンを持つ。
「あ、違う」
ピロは上からスプーンを掴むように持っていた。小さい子にありがちなやつだよね。
わたしは正しい持ち方に変えてあげて、覚えさせた。
ピロは何も知らないけど、頭がよくて覚えがいいため、なんでもすぐに身につけてしまう。
「……」
「あ、ごめん」
うっかりピロの頭のことに感心してしまい、ビーフシチューのことを忘れてしまっていた。
わたしは、中に浮かんでいるジャガイモを掬ってみせた。
するとピロも真似て、ジャガイモを上手に掬ってみせた。
そして口の中に運んでみせる。
ピロも真似する……
「ウァァアア!!」
ピロはいきなり大声を出して、その場に勢いよく立ち上がった。
「どうしたの」
なんだかその姿が面白くて笑ってしまった。
「ピロ、ヤダ!」
そう言って、ピロはまた椅子に座り直した。
ピロの口の中からは、湯気が出てきていて、とても熱かったんだなとわかった。
ジャガイモ、嫌いになっちゃったか……
そして次は、メインの牛肉を食べてみる。
これはピロも気に入るんじゃないかな。
「ン?」
「どう?」
牛肉を食べながら首を傾げるピロの表情は、だんだんすごいことになってきた。
「ヤーダ!」
なんと牛肉も気に入らなかったらしい。
わたしは今まで牛肉を嫌いと言う人になんて、出会ったことがない。
やっぱり住む星が違うと、文化も好みも違うんだろうな。
そして最後にニンジンを食べてみた。
ニンジンって子供の嫌いな食べ物の代表だよね。
そんなものを気に入るわけがない、と諦めながらもピロに真似させた。
「どう?」
「コレナニ?」
「ニンジン」
ピロは少し下を俯きながら、ニンジンを噛み締めていた。
すると表情が一変して、またその場に立ち上がった。
「ニンジン!!」
ピロはよくわからない動きをして、わたしに何かを訴えてきた。
手をうねらせたり、足をバタバタさせたり。
美味しかったのか、美味しくなかったのか。
もしかしたら、ピロの体に何か異常が起きてしまったのかもしれない!
「ピロ!大丈夫!?」
わたしが慌てて背中を擦ってあげると、ピロはわたしに視線を合わせて、ニッコリ笑った。
「ニンジン」
ピロはそう言って、指で丸をつくってみせた。
そうなの?ニンジン気に入ったの?
「ニンジン美味しかった?」
「ニンジンオイシカッタ?」
ピロはいつもみたいに首を傾げたと思えば、すぐに首を立てて大きく手を叩いた。
「ニンジンオイシカッタ!」
嬉しそうなその笑顔が、また子供らしく見える。
──ピロピロピロリン
その時、お風呂が湧いた音楽が鳴った。
そういえばお風呂はどうしようか……
まず水の中に入るということ自体、ピロの身体に悪影響を及ぼさないのか。でも、それを聞こうと思っても、まだ聞けない。
一応入れてみようかな。
そんな考え事をしている間に、ピロのお皿の中は、ジャガイモと牛肉だけになっていた。
「あれ」
コップの中には水がそのまま残っていた。
水飲むの忘れてたのかな?
とりあえず二人分のお皿を、流しに積み重ねた。
洗うのは明日でいいよね。
そして、大人しく椅子に座っていたピロを立たせて、お風呂まで誘導する。
「ゲポ」
何の音?と思い、後ろを振り返ってみると、ピロが恥ずかしそうに体を赤く染めた。
「宇宙人ってゲップするんだね」
わたしは一人でクスクス笑っていた。もちろんピロには理解できない言葉。だからわたしが独り言を言っているみたい。
ガラガラとお風呂場の引き戸を開けると、モワッとした空気が押し寄せてきた。
窓も曇っていて、壁にも水滴がたくさんついている。
わたしはチャポンと右手をお湯に浸からせ、温度を確かめてみる。
かなり温度が下がっていることから、長い間おばあちゃんを待たせてしまったことがわかった。
ピッと『おゆだき』のボタンを押して、しばらく浴槽を眺めていた。
──チャポン
その音はさっき聞いた音と同じ。ピロが手を浸からせていたのだ。
いけるかな?入れるかな?なんて少しドキドキしながら観察してみた。
すると、少しずつ指がふやけていって、グニョグニョと解け始めたのだ。
「ピロ、危ない!」
わたしは急いでその手を引っ張り、お湯から手を引っこ抜いた。
溶けていた指は元に戻り、いつも通りの指になっていた。
とにかく、ピロをお風呂には入れてはいけないということがわかった。
「フワァ」
ゲップの次はあくび。
意外と生理現象は人間と変わらなく、わたしたち人間とだいたい同じ臓器のつくりみたいだ。
今日は結構振り回しちゃったかな。きっと疲れているんだよね。
浴槽のお湯がちょうどいいくらいに湧いてきた頃、今にも眠りについてしまいそうなピロの目が、すでに閉じかけ始めていた。
部屋に連れていってあげようか。そんな勝手なこと許されるのかわからないけれど。
スッとおんぶしてみると、やっぱり体重は軽くて、すぐに持ち上がった。
しかし身長はわたしとあまり変わらないため、おんぶしても体がほとんどはみ出していた。
──ドクドクドクドク
この音はきっとピロの心臓の音。それは、わたしの背中の奥まで響いてくる。
ピロも生きているんだなって、その音から何度も確認する。
そしてなんだか耳元がくすぐったいなと思っていると、ピロが寝息を立て始めていたのがわかった。
おんぶしているため寝顔はよく見えなかったけど、絶対かわいいんだろうなと思いながら階段に足をかけた。
階段を上り終えると、左にある小さな部屋に入る。ここがわたしの部屋。
奥の方にベッドが置かれていて、手前の方にクローゼットやら収納家具が置かれている。
とりあえずピロをその場のベッドに寝かせるけど、さすがにシングルベッドに二人で寝るのは、いくら宇宙人だったとしても抵抗があった。
まぁまだ性別はわかっていないけど。
そうだ。こういう時に布団は用意されているんだ。
確か隣の部屋の押入れの中に、布団や枕などが入っていたような気がする。その隣の部屋は、誰の部屋でもなく、物置にされていた。
もしかしたらその部屋が、死んでしまったお父さんとお母さんの部屋だったのかもしれない。
ちょうどまだ誰も使っていない様子の布団と枕が出てきたため、それをピロに回すことにした。
わたしの部屋は綺麗に片付けられていて、床はすっからかんに空いていた。
自分で言うのはおかしいってわかってるけど、綺麗なのは事実だよ?
その床にブルーの布団を敷いて、端の方に水色の枕を置いた。
よし、と小さく呟いて、ベッドに転がっているピロを布団に寝かせた。
かわいい……
あまりにも寝顔がかわいすぎて、ずっと見つめてしまい、いつの間にか時間がどんどん過ぎていっていた。
まだお風呂に入っていなかったわたしは、ピロを起こさないようにゆっくり部屋を出て、階段を下った。
わたしのお父さんとお母さん。いったいどんな人だったのだろう。そういえばおばあちゃんからは、そういう話を一度も聞いたことがなかったな。
明日おばあちゃんに詳しく聞いてみようかな。
朝、めざまし時計で目覚めることはほとんどない。いつも起きたい時間に目が覚める。
もちろん遅刻だって習慣のひとつとなっている。
今日もいつもと変わらず気まぐれで起き上がる。
あくびをしながら大きく伸びをして、部屋の中を見渡した。
窓のそばのカーテンがなぜか風に揺られていて、そこからは朝日が差し込んでいた。
のそりとベッドから降りて、その揺れるカーテンを開けてみた。
「あっ」
ちょっと驚いたけど、そこまで大きな声は出なかった。
ピロが窓に座って朝陽を眺めていたのだ。
その朝陽は明るく眩しくて、昼の太陽とはまた違う明るさを感じさせる。
前に太陽の光を浴びないと、うつ病になるという話を聞いたことがある。
それから毎日光を浴びるよう心がけているけど、あまり太陽の光が好きではないわたしは、光を受けて気持ちがいいとは思わない。
だけど、静かに吹く夏の風はとても心地のよいものだと思う。
もし生まれ変わったら風になりたいなって思ったこともあったけど、最近は星になりたいという気持ちの方が強い。
どちらとも誰にも言えない秘密だけどね。
「え、今五時?」
こんな朝陽を見ることができるなんて、遅起きのわたしにはありえないことだった。
だからいつもより感動させられたのか。
でもなんでこんな時間に起きられたんだろう……
これもただの気まぐれなのかな。
後ろを振り向くと、この間買ったばかりの黒いシンプルな時計が、音をたてて時を刻んでいた。
秒針が一周すれば一分経ち、秒針が千四百四十周すれば一日が経つ。
時間は短いと思えば短く、長いと思えば長く感じるものだ。
そういえば菊池が、太陽の光は約八分で届くって言ってたっけ。
秒針が八周すれば八分経つ。初めて聞いた時は長く感じたけど、今考えるとものすごく短い。
「セイヤ?」
ピロの声でわたしは我に返った。やっぱり宇宙のことを深く考えすぎると頭が痛くなってくる。
特にすることもないので、部屋に置かれた小さなテレビをつけて天気予報をチェックした。
晴れマーク。
それだけ確認してテレビを消した。
あくびをしながら窓から離れて、制服に手をかけた。
「あ」
ピロがいる……着替えられないじゃん!
まだ性別ははっきりとしていないけれど、やっぱりどこか恥ずかしい。
「んぅーー……ここにいて!」
わたしはピロを窓の位置に定着させて、無理矢理クローゼットの中に入り込んだ。
中は整理整頓されていなくて、たくさんの服で溢れかえっていた。
こんなところで着替えられるかって、無理に決まってる!
だけどピロの目の前で着替えるよりかは、全然平気だった。
なんとか着替えを終えて、窮屈なクローゼットの中から飛び出した。
賢いピロはまだ窓のそばにいてくれて、わたしの方を振り返って微笑みかけてきた。
「行こっか」
そう言葉にしてみたはいいけど、いったいどこに行けばいいのかはわからない。
わたしが学校に行っている間はどうしたらいいんだろう……
いくら賢いからと言って、家にいさせるのはとても危険だ。
おばあちゃんにバレたらどうなることか。
裏山に行かせるのが一番なのかもしれないけど、星の出ない昼にいても何も面白くはないだろう。
そういえば昨日はどこにいたのかな……
「セイヤ」
ピロはわたしの手を握って、肌を透明にさせてみせた。
そうか。透明になっておけばどこに行っても大丈夫なんだ。
わたしは透明なピロを連れて、慎重に歩みながらリビングに入っていった。
「おはよう。今日はえらい早起きね」
おばあちゃんは驚いた顔をしてわたしを見つめた。
「でしょ。わたしもよくわからないんだけどね」
おばあちゃんに透明になったピロが見えるはずもなく、とりあえず難所を乗り越えることに成功した。
そしてリビングの椅子まで辿り着くと、おばあちゃんがお皿を持ってきた。
今日はシンプルな和食。
お味噌汁に白ご飯、ほうれん草の胡麻和えにカツオのたたきだった。
ピロの好きなニンジンはどこにも見当たらず、なぜかわたしがガッカリしてしまった。
「隣の佐々木さんいるでしょ?」
また佐々木さんの話だ。牛肉の次はなんだ?
「ついさっきね、佐々木さんのお母さんの妹の旦那さんのお姉さんからだって言って、ニンジンを二箱分分けてくださったのよ」
わたしは、頭の中で人間関係を整理するので精一杯だった。
佐々木さんのお母さんの妹の旦那さんのお姉さん?
なんかの呪文みたい。
とにかくどっかの誰かさんがニンジンを分けてくれたというのだけは理解できた。
「へぇー、太っ腹ね。おばあちゃんもいつかお返ししなきゃね」
わたしはもぐもぐと口を動かしながらそう言った。
そのニンジン、後で一本二本盗んでやろう。
悪気はないよ。だってピロのためだもの。
「明日からビーフシチュー祭りね、あはははは」
おばあちゃんは甲高い声で大笑いした。
何がそんなに面白いのかはよくわからない。けど、おばあちゃんの楽しそうな笑い方にはいつもつられてしまう。
家にいる時はこんなにも楽しいのに。なんで学校は楽しくないのだろう。
なんでみんな楽しそうに笑わないのだろう。
ずっとこのままでいいのに。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせてそう言ってから、キッチンにお皿を置きに行った。たぶんだけど、今ピロはわたしの隣に立っている。
「あー!」
流しを見て思い出した。そういえば昨日、お皿を洗わずにそのまま放置していたんだった。
どうしよう!おばあちゃんにバレてたらどうしよう!
絶対怪しまれるよね。
わたしは急いで重ねられた食器を洗って、何事もなかったように済ませた。
「ねぇ……そのお皿」
「あ、おばあちゃん!ちょっと聞きたいことあるんだー!」
不審そうにボソッと呟いたおばあちゃんを無視して、話を逸らすためにわたしはうるさいくらい大きな声で話しかけた。
もしおばあちゃんがピロのことを知ったら、悲鳴をあげて倒れちゃうよ。
「宇宙人がいるー!」ってね。
「わたしのお父さんとお母さんって、どんな人だったの?」
するとおばあちゃんは、なぜか目を大きく見開いてキッチンを飛び出してしまった。