『チシャ』


歯の隙間から、空気が抜けて
甘えたような発音になる。


『うん?』


『おばあちゃんねぇ、空っぽになっちゃったのよ』

そのときの朝ちゃんの目を忘れない。

まっすぐな目だった。力強い目だった。
それは呆けた老人の目ではなかった。

色々なことを忘れていく恐怖。
忘れたくないという意思。
もう自分にうんざりとしている悲愴。



『おばあちゃん』


わたしはその瞳を見つめ返した。


わたしの何倍も何十倍も
色々なものを見てきた瞳は
青く凛と淀んでいた。


『おばあちゃんが私たちのことを忘れてしまっても、私たちは忘れないから大丈夫だよ』

『忘れない…?』


彼女の瞳の縁には涙が浮かんでいた。



『おばあちゃんが、家族だってこと。』


朝ちゃんに握られた自分の手。

その上にポタリと温度が落ちて来た。


ポタリ、ポタリ、ポタリ

人の涙はこんなにもあたたかかったっけ、と
間抜けなことを思う。


こうして私たち家族と朝ちゃんの同居生活が始まった。