世田谷西署 応接室
似顔絵が公開されてから、数日後、渕上遥香(ふちがみはるか)は世田谷西署を訪ねた。
「渕上遥香と言います」
対応した赤井と三田村に、遥香は頭を下げた。
「それで、あの似顔絵の女性がお母さんだと?」
本当にこんな申し出が出るとは思っていなかった赤井は戸惑っていた。
「はい。間違いありません。確かに母です」
遥香はそう言うと、何枚かの写真を差し出した。
「失礼します」
赤井がその写真を受け取って見た。
「あ…」
その反応で遥香はかなり似てるのだと思った。
「それ、母が失踪する前の写真です。もう17年前ですけど」
「え?17年前?」
赤井が少し驚いていた。
彼等が見たのはついこの前だ。
「すると、この女の子は…」
空気を読まない三田村が、一緒に写る女の子を指差した。
「はい。私です」
「じゃあ、お母さんはそれ以来?」
「はい。行方知れずです」
「そっか…」
同情している三田村の横で、赤井は表情を隠していた。
「私、ほんとは、ずっと母を憎んでいたんです」
と、遥香は言った。
「私と父をいきなり捨てて、ふざけるな!って思っていました」
赤井はそういう感情もあるかと思ったが、
「いや、でも…」
三田村はやっぱり空気を読まない。
「でも、死んじゃったのなら、責められないですよね…」
そう言って遥香は急に気落ちした。
「そうですね…」
赤井が呟くように言った。
「あの、お母さんが亡くなったのは多分その頃ですから、君達を捨てたという訳じゃないと…」
「え?」
「三田村!」
赤井が声を少し荒げた。
三田村もしまったという顔をした。
だが、三田村を止めるのは遅すぎた。
「あの?今のどういうことですか?母はついこの間殺されたんですよね?…あ!」
そう。
今回の似顔絵が17年前のままということに、遥香も気が付いた。
「えっと、その…」
何かを言おうとしながらうまく言えそうにない三田村を赤井は制した。
「ここだけの話にしてください」
「あ、はい」
遥香は表情を真面目にして少し身を正した。
「確かに、あなたのお母さんは、その失踪の頃に亡くなっているんです。いや、失踪じゃなく、その時、殺されたから家に帰れなかったんでしょう」
「え?どういうことなんですか?」
「今回の殺人現場では首のない死体と、その死体とは別の古い頭蓋骨が見つかったんですよ。その頭蓋骨があなたのお母さんだということです」
「え…、そういうこと、だった…んですか」
言われたコトの意味がすぐには分からず、少し理解しながらという様に遥香は言った。
赤井はCGによる複顔という技術によって頭蓋骨の元の顔を似顔絵にしたと説明した。
「だから、お母さんを責めないで欲しい」
赤井はあえてそう言った。
「え?あ、そ、そうですね…、母は、殺されたから帰って来られなかったんだ…。そっか…私と父を捨てた訳じゃなかったんだ…。確かに、あんな土砂降りの雨の日にわざわざ出て行きませんよね…」
そこまで言うと、遥香はその事実にあらためて気が付いて、母のことを勘違いしていたことの後ろめたさ、そして母の無念さ、哀しさ全てが一気に心に流れ込んできた。
遥香は抑えきれずに大きな声で泣いた。
捜査の秘密を話したのはまずかったが、とりあえず、赤井は救われた気もしていた。
しばらく泣き続けて落ち着いてきた頃に、赤井に言われて三田村が新しいお茶を遥香の前に置いた。
「まあ、飲んでください」
赤井が優しく言った。
「…はい」
そして、何とか落ち着いた頃に、赤井にいろいろ聞かれたが、元々いきなりの行方知れずで、答えられることはほとんどなかった。
「最後にちょっと、今さら少し言いにくいんですが…」
赤井が遥香を見た。
「はい?」
「一応、お母さんのDNA鑑定をさせてもらっていいですか?間違いはないとは思いますが、確認はしておかないといけなくて」
「はい、もちろんです。当然のことだと思います」
「ありがとうございます」
遥香の素直な対応に赤井が頭を下げた。
遥香は、世田谷西署を出ると、一度振り返ってその建物を見た。
こんなところが自分に関係することになるとは思っていなかった。
軽くため息をつくと、陽が暮れかかった街へ歩き出したのだった。
赤井は、この写真が17年前のものなら、ついこの前見たあの顔とは違うことにがっかりしていた。
世の中、似ている顔は多い。
きっと、本件とは関係がない。
この時点であの頭蓋骨が遥香の母だとは思っていなかった。
ただ、それとは別に、そうであってくれとも思っていた。
今更、本当は失踪だった…では、彼女がかわいそうだった。
赤井は真田にこの事を報告した。
DNA鑑定の結果は、赤井の刑事としての勘を裏切って、遥香の母親渕上小百合であることを裏付けた。
それは、あの現場で見たのが、本当に17年前の渕上小百合だったということだった。
三田村はともかく、赤井にはかなりの衝撃だった。
だとすれば、この事件は、本当に警察が調べて分かるモノではないと思った。
DNA鑑定の結果を受け、17年前の失踪も殺人事件の可能性が浮上し洗い直すことになったが、今更何かの証拠が見つかる可能性はなかった。
渕上遥香とその父は、その失踪の頃から今も狛江市に住んでいた。
殺人現場と近いことは近いが、普通に埋葬されたのではない以上、あの頭蓋骨が一体どこにあったのかが問題だった。
そのことは、身元が判明しても、事件解決へ何の進展をも生まないということでもあった。
「とりあえず、この仏さんの旦那にも当時の事を聞いてこい」
真田は、赤井達に指示した。
「おい、三田村。その旦那の勤め先は分かるか?」
「あ、はい。遥香ちゃんに聞きましたので」
「遥香ちゃん?」
三田村のその言い方に赤井は少し睨んだ。
「あ、すみません」
三田村は悪びれる風でもなく、照れ笑いをしながら言った。
確かに、身長も女性として高くもなく低くもなく、肩まで掛かる少し茶色掛かった黒髪で、中々可愛い娘さんではあった。
三田村の趣味という事だろう。
「で!どこだよ!」
三田村がまだニヤけてるので、少し怒ったように赤井が言った。
「はい、えっと東都新聞ですね」
「東都新聞?」
「はい。どうかしました?」
「東都新聞で渕上?…まさか」
「え?知ってるんですか?」
「知ってる奴じゃなきゃいいけどな」
赤井はそう言いながら、照り付ける太陽が待ち受ける窓の外を見つめた。
そして、ふと思った。
もしかして、そういうことか…と。
東都新聞本社 応接室
「お久しぶりです」
赤井は目の前に座る渕上祐志(ふちがみゆうじ)に、微かに浮かぶ感情を出さないように言った。
その感情とは、ある意味、恨みではあった。
10数年前、社会部にいた渕上が、とある殺人事件に関わる警察の証拠隠滅をスクープ報道した。
警察が証拠隠滅したのは、犯人として逮捕した男性が無実である証拠だった。
このスクープの後、その男性は釈放され、再捜査によって真犯人が特定されたが、その時には海外へ逃亡したあとだった。
その時の証拠隠滅は、上からの指示だったが、その責任を直上の先輩が取らされた。
いつもペアで行動していた息の合った先輩だった。
その先輩が一人でやったことにされた。
赤井自身も直下でありながら、それを止められなかった責任を取らされて、捜査一課から所轄へ飛ばされたのだ。
その時は、証拠隠滅したのが組織ぐるみと分かっていながら、なぜもっと上を追求しなかったのかと渕上を恨んだ。
だが結局は、彼も彼自身の上からの指示でそれ以上は追求できなかったのだろうとも思っていた。
新聞社とはいえ、完全に警察と喧嘩をする訳にはいかない。
中途半端なことをしやがって…
それが赤井の思いだった。
でも、彼がそれ以上追求しなかったのは別の理由かもしれないと、今は思っていた。
「お久しぶりです」
渕上が応えて頭を下げた。
目が鋭く意思が強そうな顔だが、その表情には、当時の精悍さがなかった。
「あれから、何やら資料整理の部署に移ったと聞きましたが」
「ええ。今でもずっと、同じ仕事です」
「あの事件のせいですか?」
赤井は表情を変えずに聞いた。
渕上は、その質問に、少し視線を落として、
「いえ」
と、自嘲の笑みを浮かべながら軽く首を振った。
「じゃあ、やっぱり、奥さんの失踪が原因ですか」
渕上は、その赤井の言い切るような言い方にハッとして顔を上げた。
赤井は、渕上の反応に少し戸惑った。
「あれ?…娘さんから聞いたんじゃないんですか?」
それまで、赤井と渕上の雰囲気に何も口を出さなかった三田村が言った。
「いえ、何も聞いていませんが?」
三田村が赤井と顔を見合わせた。
「あの…何かあったんですか?」
渕上も三田村を見て、もう一度赤井を見た。
その雰囲気から、本当に何も聞いていないようだった。
赤井は、今度の事件について、遥香に話したよりは情報を減らして説明した。
「小百合は…殺されていたんですか…あの頃に既に…」
渕上は、感情を押し殺して、そう言った。
が、すぐにぼろぼろと大粒の涙を流して、嗚咽し始めた。
赤井と三田村はそれを黙って見つめていた。
赤井もあらためて調べて気が付いたのだが、渕上小百合の捜索願が出された日付けが、先輩の辞職の時期とほぼ同じだったのだ。
だから、それが渕上がその後追求をしなかったことと、社会部から出た理由だと思ったのだが、渕上が落ち着いた後に話し始めた内容は、そのとおりだった。
彼にとって小百合は良くできた妻であり、何よりも掛け替えのない存在だったらしい。
渕上は、彼女が傍にいるからこそ仕事人間になれていたのだ。
ところが、その妻が何の前触れもなく失踪し、その時の狼狽振りは酷かったらしい。
大スクープの後でも、もうそんなことを考える余裕はなかったみたいだった。
彼は妻を捜すために、自分から休みの取れる部署への異動を申し出たのだった。
「それで、娘さんとは何か確執が?」
赤井は、理由が想像できたが、一応聞いた。
「そうですね。あの時、妻が失踪したのは私のせいだと遥香は思っていました。私が家に帰らず仕事ばかりしていたからだと。それで今でも嫌われています」
赤井はふと気が付いた。
そういえば、よく考えたら、遥香が連絡先に書いた住所は、同じ狛江市だが、赤井が知っている自宅の住所とは違っていた。
「娘さんは、今、独り暮らしなんですか?」
「いえ、妻の父のとこで暮らしています」
「ああ、そういうことですか…」
赤井は三田村と顔を見合わせて頷いた。
その後、当時の状況を再確認したが、やはり、特に分かった事はなかった。
渕上は妻に合わせて欲しいと言ったので、そのまま一緒に署に戻ったのだった。
狛江市渕上家
数日後、喪服姿の遥香は、久しぶりに実家の前に立った。
左側が少し坂道になっている角で、敷地は一段高くなっていて玄関まで数段の階段を上る。
濃い緑の生け垣に囲まれ、鉄製の門扉は開けるとキイッと音を立てる。
特に個性もない住宅街の一角の二階建てだったが、庭と縁側があるのは好きだった。
ここは就職の際に出て、それからは祖父の家に住まわせてもらっていた。
遥香は、母の失踪から家を出るまでの13年間、ほとんど話さないまま、父と暮らすのを我慢していた。
その13年の間も、父の帰りは遅かったので、あまり顔を合わせることもなく、まだ我慢ができていた。
でも、赤井から、母が殺されたという事と、父の帰りが遅かったのはその後ずっと母を捜していたからだという事を聞いて、今はそんな気持ちはなかった。
遥香は、ドアのノブにそっと手を掛けると、ボタンを親指で押しながら手前に引いた。
もちろん鍵は掛かっていなかった。
遥香はまっすぐ行った突き当たりの居間のドアを開けた。
ソファに喪服姿の父が座っていた。
「ただいま」
「…お帰り」
祐志は、ぎこちなく微笑んだ。
遥香は祐志の真向かいに座った。
「あ、お坊さんはもうすぐ来るから。お茶でも飲むか?」
祐志は立ち上がろうとした。
「お父さん」
祐志はまっすぐ自分を見る娘に、戸惑いながら、また座った。
「何だ?畏まって」
祐志は気を取り直して微笑んだ。
「今まで、…ごめんなさい」
遥香は頭を下げた。
「な、何だよ?別にお前が謝ることないだろう」
祐志は大袈裟に手を振った。
「ううん。私、ずっと一人で勘違いして、お父さんに嫌な思いさせたもの」
「いや、悪いのは俺で、お前が悪くなんて…、いや、そんな…」
祐志はそこで、嗚咽を漏らして大声で泣き始めた。
「お父さん…」
遥香は祐志の横に行って、泣いている父を抱きしめた。
「ごめん、お父さん…」
そして、遥香も泣き始めた。
しばらく親子で泣き続けたが、玄関のチャイムが鳴った。
「はい!はーい!」
祐志は、涙を拭きながら、遥香の肩を軽くぽんぽんと押さえると出て行った。
その後は、家族二人だけでの葬式をしたのだった。
8月 世田谷西署
渕上遥香は、その後の捜査の進展が気になったのと、赤井に父の事のお礼を言いたくて世田谷西署を訪ねた。
「あ、渕上さん!」
自販機コーナーに行こうとした三田村が、ちょうど署内に入ってきた遥香に気が付いて、なぜか嬉しそうに駆け寄ってきた。
「こんにちは」
遥香は戸惑いながらも軽く頭を下げた。
「えっと、どうかしたんですか?」
三田村はやっぱり満面の笑顔で聞いてきた。
「あ、ああ…、えっと、その後の進展が何かあったかな?と思って、ちょっと聞きに来ました」
遥香は少し後ろに下がり気味に答えた。
「ああ、そういうことですか。すみません。まだ何も…」
「そっか。そうなんですね。わかりました。お邪魔しちゃ悪いので帰りますね」
遥香はこの雰囲気から逃げようと、軽く頭を下げて帰ろうとした。
「あ、ちょ、ちょっと待って…」
「はい?」
遥香は呼び止められて仕方なく振り向いた。
「あ、えっと…」
三田村は少し困った様に目を泳がせていた。
「三田村さん?」
遥香が少し覗き込むような仕草をした。
「あ!そ、そうだ。実は…」
三田村は軽く手をポンと叩くと、周りを気にしながら、「ちょっとこっちへ」と小声で遥香を手招きして、すぐ横にある応接室に入った。
「どうしたんですか?」
遥香は三田村の向かいに座ると、彼の雰囲気に合わせて小声で聞いた。
「うん、まあ…、どうしようかなぁ」
話そうとしたのはいいが、やっぱりマズイかぁという感じで三田村が頭を掻いた。
「言ってください。私、誰にも言いません」
遥香は、話すのを促そうと真面目な顔をした。
「いや、やっぱまずいか…」
言い掛けておいて、三田村は本当に躊躇している風でもあった。
遥香は、実際、警察が何か隠しているとは思っていたので気になった。
遥香は、思い切って、三田村の手を両手で握った。
そして、
「言ってください」
と、さらに真面目な顔で言った。
「あ、う、うん!言うね!」
三田村は手を握られた瞬間真っ赤な顔になって、もうタガが外れた。