職員室に、ノートを届けた帰り、
屋上へと続く階段の踊り場付近から
愛美の声が聞こえた。
お相手は、もちろんあの人
彼氏と彼女、二人だけの、秘密の会話
私はつい、足を止めて、耳をそばだてる。
「あのさ、今度、映画見に行こうって言ってたの
大丈夫そうかな」
愛美の声は、遠慮がちだった。
「あー、いつだったっけ?」
「明日」
「何の映画が見たいの?」
「んと、『荒野のバタフライ』」
大希くんからの返事はない。
それは今、話題の映画だ。SFで、アクションもの。
「あー、俺さぁ、映画って、あんまり興味ないんだよね」
「でも、前に野球見に行くっていってた時も……」
「基本、人混みは嫌いなんだよ」
こっそりと、階段の手すりの先から、上を見上げる。
あの人は、横を向いていて、
愛美は、下を向いている。
「じゃあ、今度の日曜日は、どこへ行くの?」
「どこも行かない」
「なんで?」
「毎日、学校で会ってるだろ?」
愛美は、さらにうつむいた。
「俺さ、ラインでも、夜までずっと相手してるし
休みの日は、他にも、したいことがあるから」
「私のこと、好き?」
「好きじゃなきゃ、ここにいない」
あぁ、聞いてはいけない会話だった
もう行こう
これ以上、ここにいても、
いいことなんて、なにひとつ、ない
自虐行為は、趣味じゃない。
私が足を踏み出すのと、
愛美があの人の元に、手を伸ばしたのは
多分同時だった。
あの人は、それを避けるように
後ろに一歩下がって、
それで愛美が一歩前に踏み出して、
私の姿が、丸見えになった。
「みなみ……」
愛美の声に、あの人と私は
同時に顔を動かす。
「ん? あれ、そんなとこにいたの?」
こういう時の、私の演技力は
この世で誰にも負けない。
「あ、ごめ~ん、お邪魔しました~」
完璧かつさわやかな、そよ風スマイルをかまして
そそくさと立ち去る。
我ながら実にすばらしい出来映え。
「あ、待って」
そこへ、あの人が立ちはだかった。
「俺ももう、帰る」
軽快な足取りで、階段をおりたこの人は、
私の腰に手を回した。
「一緒に行こう」
もちろん、その手が私の体に直接触れることはないけど
エスコートされるがままに、歩き出す。
私の鼓動は、勝手に早まるって、
こんなことをされては、歩き出さざるをえない、
愛美を残したままでも。
「ちょっと待って」
愛美が降りてくる。
今、喧嘩中? だったんだよね
愛美は、そんな状況でも、何食わぬ顔で降りてきて
やっぱり完璧な笑顔で私の隣に並ぶ。
「廊下って、あっつーい」
「エアコンきいてる、教室の方が
絶対いいよなー」
私たち3人は並んで、
無害な会話を必死で紡ぎ出す。
「じゃ、またな」
教室に入ったとたん、
あの人は、笑顔で行ってしまった。
『じゃ、またな』って、どういう意味?
愛美はその瞬間から、何事もなかったかのように
私を完全に無視して
酒井地蔵の横で寝転がっている、きららの元へ駆け寄る。
恒例の、お経をあげにいくらしい。
私は、自分の席に戻って、
さっきの状況に、まだ興奮してる心臓をなだめながら
教科書を鞄にしまう。
愛美は、あの人の彼女という座をつかんだのに
一体、なにをそんなに焦っているのだろう。
喧嘩の原因は、なんなの?
あの人が最後に見せた、『またな』の笑顔は、
私と愛美と、どっちに向けたものだったんだろう。
あの人は、教室で別の男子とたわむれている。
愛美は、なんの助けにもならない相手に向かって
1人でしゃべり続けている。
そんな風景を見ながら
私は教室を出た。
廊下を歩くと、涙がでた。