停電したあの日だけ、私と亘理さんは一瞬距離が縮まったけれど、それからはまた一定の距離を保った店長と従業員の枠を超えない関係が続いていた。
もしかしたら、あの夜の出来事は夢だったのかな?なんて思ったりもした。
だけど、あの時しっかりと手を握ってくれて、抱きしめてくれた記憶は鮮明に残っていて、夢じゃないよねって思うのだ。
私が郁さんと会うことは、もう二度とないと思っていた。
この前に会った時も、彼女は亘理さんに用があってコマチへ来たのであって、私に会いに来たわけではなかった。
それが、どうしてこうなったのかは私にも分からない。
今、私の目の前に郁さんがいる─────
彼女は淹れたてのブレンドコーヒーに口をつけて、少し色が濃いめのリップがカップについたのを見つけて指で拭っていた。
その様子をぼんやりと見つめていると、ふいに彼女が切り出した。
「お呼びだてしてごめんなさい」
「……あっ、いえ」
なんとかそれらしい返事をして、自分の手元に置いてあるカフェモカに視線を落とす。
ブラマの偽装表示の話を亘理さんと交わしてから数日が経ち、ざわめく私の心とは裏腹に穏やかにコマチは営業を続けていた。
ポカポカした陽気で雪解けも進みそうな今日、亘理さんは用足しに本社へ出向いていて店舗にはいなくて、見計らったように郁さんが現れたのだった。
しかも「白石瑠璃さんはいらっしゃいますか?」と、彼ではなく私を名指ししたというのだから驚いた。
郁さんの希望でコマチではなく別な場所で話そうということになり、全国チェーンのカフェへやってきた。
そして今に至る。
「まず、数日前に靖人から連絡をもらいました。うちの会社の、偽装表示の問題について」
「……はあ」
なぜそんな大事な話を私にするのかいまいち理解できないまま、おもむろに話し出した郁さんの言葉に相槌をうつ。無意識に口にしてしまうのは、曖昧な相槌だが。
相変わらず綺麗な人という印象を植え付ける丁寧なメイクと、整った顔立ちに見とれそうになっていると、その目が私に向けられて背筋を伸ばした。
「まさか、そんなことを裏でやってるなんて思ってもみなくて…………正直、言葉を失いました」
「知らなかったんですね、やっぱり……」
「知ってたら止めてましたよ」