「タクシー呼びますか?」
酔いも吹き飛ぶような冷気にも、加賀美君は動じない。
私は首筋から入り込む風に身を固くして、どさくさ紛れに抱きついたけれど、それにも反応はない。
「ここからだとワンメーターにも満たないから歩く」
いつもなら店からタクシーまでの数m歩くのも面倒臭いのに、本当は徒歩で三十分以上かかる距離を、加賀美君にくっついたまま歩き始めた。
歩けるってバレているはずなのに、ぎゅっと支える腕を離さずいてくれるから、少しでも長くこのままでいたくて。
空がきれいに見えるのは、空気が澄んでいるせいだけじゃない。
「平雪さんは、国松さんが好きなんじゃなかったんですか?」
単純な疑問なのか、もっと別の感情が含まれているのか、淡々とした声からは読みとれない。
落ちそうで落ちてくれない。
届きそうで届かない。
私の赤い果実。
だけど「あの実は酸っぱい」なんて諦められない。
絶対に甘いって知ってるから。
「なかなか進展しないから、強力なライバルでも現れたら落ちてくれないかなーって思ってね」
引力が足りないなら、自分で引っ張っちゃおうかなって。
アサハカな企みは一応届いていたらしい。
「落ちるっていうより、思いっ切り毒矢で射られた気分です」
「そのまま全身骨の髄まで毒されろ」
白く吐き出されたその溜息に恋心は含まれているのか。
その硬質な目に私だけが映ってるのか。
知りたくて背伸びして手を伸ばすのも、もうそろそろ限界。
「ねえ、私のこと好き?」
「…………」
「『好きだ』って言え!」
「言いません。今は酔ってるから」
「なにそれ? こういうことは酔いに任せた方が言いやすいよ?」
「だからですよ」
この人だって多少は酔ってるはずなのに、普段以上に真剣な目が、車のライトを反射するメガネ越しに見える。
「あとで『あれは酔った勢いだった』なんて言われたくないですから」
言わないのに。
酔った勢いだろうが一夜の過ちだろうが、結果的に君が手に入るなら、私は何でもいいのに。
「加賀美君は毒でも盛られない限り、『君の瞳に吸い込まれそうだ』とか『世界で一番きれいだよ』とか、言ってくれそうもないね」
「そんなこと言う男なんて国松さんくらいでしょう」
どこまでも真面目で慎重で、確実に私の心を射抜いて、私の目にはもう君しか映らない。
三十分は、溜息に溶けるようにあっけなく消えた。
自宅玄関前でコートの袖を握って離さない私に、加賀美君は、
「帰りたいんですけど」
とつれなく言う。
「帰らないでよ」
「困ります」
「困ってないで襲っちゃえばいいじゃない」
朝起きたら全部夢で、隣に国松さんが寝てたらどうしよう。
あのキスも、国松さんのものだったらどうしよう。
このままじゃ怖くて眠れない。
「だから酒の勢いは嫌なんです」
こんなに膳を据えているのに!
なぜ王子・国松が狼で、地味なお前が紳士なのだ!
「もう入ってください。ほら、おやすみなさい」
かなり強引に押し込められるから、さすがに諦めてドアに手をかけた。
「ありがとう。おやすみなさい」
性懲りもなくノロノロとドアを閉める。
10cm、5cmと狭まっていくドアの隙間から、怨みを込めてヤツを睨む。
これで終わり。
あと少しで終わり。
君はやっぱり落ちてはくれない。
ところが、ドアが完全に閉まる直前、加賀美君の手がそれを止めた。
「夢じゃない」と安心させるようでいて、同時に「忘れさせない」と強烈に叩き込むような猛毒が、口移しで流し込まれる。
「……なによ、これ」
「俺もやっぱり酔ってますから」
「じゃあ」と、今度こそ帰ろうとするコートの裾を、再びギュッと握って引き留める。
「これで終わり!?」
加賀美君の指が私の髪の毛をスルリと撫で、隠れていた耳をピッと引っ張った。
その冷たさで、自分の体温の高さがわかる。
「明日、聞き間違えないくらいはっきりと俺の気持ちは聞かせますから」
「期待していいの?」
「平雪さんこそ酔っ払いの戯れ言じゃなくて、真剣に応えてくださいね」
呪いのように強い言葉と指の感触が、耳を通って身体の芯を熱くする。
溶け落ちるように手の力が抜けて、その隙に本体は名残惜しさも見せずに帰ってしまった。
もう、もう死んじゃう……。
いや、まだ生きる!
少なくとも明日までは!
玄関先で崩れ落ちたまま動けない。
明日が早く来てほしいのに、やっぱり今夜は眠れる気がしない。
「あのヤロー……」
このまま永遠に、君に墜ちていたい。
『俺の視界は曇ってるから、もうずっとあなただけがかわいく見えてる』
end
君はわかってない
私の想いがどんなに深くて激しいか
息なんてできないくらいに溺れてしまえ
H29.7.10
━━━━━プルルルルル、
コール三回以内に電話を取るのは社会人の基本。
なのに、私は躊躇った。
だって……ねぇ。
━━━━━プルル、
二回目のコールが鳴った瞬間、隣から伸びた手が受話器を持ち上げる。
「━━━━━鳴海でございますか?」
中根君がちらりと横目で私を見たけれど、すぐに視線を外して付箋に手を伸ばす。
「申し訳ございません。鳴海は体調不良でお休みをいただいておりまして。お急ぎでなければ本人から折り返させますが━━━━━」
『スコール事務 神永様 折り返し連絡』
無言で私のデスクにペタリと張り付けられ、
「本当に申し訳ございません。━━━━━はい、ありがとうございます。失礼いたします」
同時に電話も終了した。
受話器を戻した彼と目が合った瞬間、軽く手を合わせる。
(ごめん。ありがと)
「いや、いいけど。明日は声出るの?」
なんだか喉の調子がおかしいと思ったのは昨日の夜。
うがい薬でうがいして、風邪薬も飲んで寝たのに、起きたら全身が痺れたように痛かった。
(なんとかする!)
本当になんとかできるものなら、昨日のうちになんとかしていたけれど。
決意を新たにレモンのど飴をふたつ口に入れてみせた。
「無理しないで帰って、病院行った方がいいよ。インフルエンザも流行ってるしさ」
(わかってる。これ終わったら帰るから)
コクコク頷いただけで頭がぐわんぐわんする。
本当に、早く帰ろう。
少しボーッとした頭で、急ぎの設計書をチェックしていたのだけど、違和感を覚えて電卓を取り出した。
一から計算し直してみると、やっぱり合わない。
……もしかして、ここのプール、測量し直したの忘れてない?
無理して出勤した頑張りが水の泡となり、風邪のせいではない痛みに頭を抱えていると、視界の端に紙コップがコトリと置かれた。
「鳴海さん、あんまり根詰めたらダメだよ」
さわやかな笑顔と共にコンビニのカフェラテプレミアムリッチを差し入れてくれたのは、女子社員支持率ナンバーワンの国松さん。
(あー、ありがとうございますぅぅぅ)
不満顔をしたのに、ペコリと頭を下げたせいで見えなかったらしく、国松さんのさわやか笑顔には傷ひとつない。
根詰めてるのはいったい誰のせいなのか。
素敵な笑顔とコンビニコーヒーで忘れる私ではない。
「リラックス、リラックス」
恨みを込めた笑顔は当然伝わらず、国松さんは断りもなく私の肩に触れて去っていく。
(あ、行っちゃった……)
白い歯が撒き散らした輝きに呆然としていたら、隣から伸びた手がカフェラテをさらった。
「カフェインはやめておいた方がいいよ」
ティッシュを一枚差し出すと、中根君は口元についたミルクの泡をぬぐう。
「国松さんの設計書でしょ? 何したの? あの人」
中根君のクリアだけどのんびりした声に、藁をも掴む勢いですがる。
(そう!そうなの!)
泣きそうな顔でバンバン叩いた書類をチラ見して、中根君も天を仰いだ。
「あー、それは作り直しだな。今日中には無理じゃない?」
(……行ってくる)
レモン臭いため息を吐いて、のっそりと立ち上がったら、イスが悲しげにギシッと音を立てた。
廊下の先をキリリと隙のない背中が行く。
追いかける私の身体は今朝よりさらに重くなっていた。
「く▼*$#@!」
呼びかけた声はカッスカスにかすれて届かない。
思った以上のひどい声に自分でも動揺した。
こんなのでよく仕事してたな、と思い返すと、今日は中根君としか話をしていなかったことに気づいた。
(ここのデータに抜けがあって……)
指さしただけでうんうん、と頷く。
「わかった。確認して差し替えておく。前のデータもくれる?」
(えーっと、ホチキス、ホチキス)
書類を留めようとしてカスカスと間抜けな音をさせただけで、隣の席から替え針の箱がスーッと滑ってくる。
中根君はそんな感じだった。
今日だけじゃない。
これまで、いつも、ずっと。
「く▼*$#ーー@!」
私の声は空気に溶けてはじけるばかり。
無理に張り上げたら喉がヒリついて、ゲッホゲッホと咳が出た。
仕方なく走って、国松さんの「もしかしてオーダー?」っていうスーツの袖に皺を作る勢いで握る。
ちょっと嫌な顔をした国松さんは、私を見るとさわやかな笑顔を作り、それでもやんわり手をふりほどいた。
「鳴海さん、どうしたの?」
空気を求めて荒い呼吸を繰り返すばかりの私を見て、国松さんは朗らかに勘違いする。
「ああ、いいんだよ、お礼なんて。大したものじゃないから」
(いえ! 違うんです! 設計書の数字が!)
必死に首を振ると、国松さんはまたしても許可なく、私の頭にポンポンッと手をやった。
「ははは。顔、真っ赤! あ、もしかしてランチ?」
(いやいや、違います! 今はこれを!)
と差し出した設計書にも目をくれず、国松さんは申し訳なさそうな表情を作る。
「でもごめんね。俺、婚約したからそういうの無理なんだ」
知ってます。専務のお嬢様でしたっけ。
そんなことはどうでもよくて!
(違うんです! これをーーーっ!!)
「本当にごめんね。じゃあ、また」
私の必死の叫びも、国松さんのさわやか極まる笑顔に跳ね返されて空しく廊下に消えた。
(いやー! 待ってー! 行かないでー!!)
心はまだ必死に追いかけているのに、身体の方はそんな元気はない。
紙にでも書いてもう一度届けるしかない、とガックリ肩を落とした私の手から、設計書がスルリと引き抜かれた。
「国松さん、すみません」
やわらかく響くクリアな声は中根君のもの。
国松さんの磨き抜かれた革靴も、その声ですぐに動きを止めた。
「手違いで設計書の情報が古かったみたいで、作り直していただけないでしょうか。ここのプール、測量し直したはずなんですよね」
中根君を見下ろす国松さんは笑顔だけど、視線はとても険しい。
それでも中根君は、やわらかな態度を変えず頭を下げた。
「作り直し?」
「すみませんがよろしくお願いします」
そもそもミスしたのは国松さんで、確認不足も作業が遅かったのも私の責任。
中根君は全然関係ないのに、ひたすら丁重に頭を下げている。
「謝るのは簡単だけどね。こっちは忙しいんだから困るな」
何が女子社員支持率ナンバーワンなのか。
誰が調べたか知らないけれど、鳴海調べでは元々低かった支持率が、たった今深海の底まで落ちましたっ!
「もっと早く言ってくれ。明日中には仕上げておく」
「それ、急ぎなのでできたら今日中にお願いします」
「無理言うな。早くて明日の午前中」
「わかりました」
今私が持っているこのボールペンが短剣だったなら、迷わず国松さんの心の臓をひと突きにして、遺体は支持率と同じ位置まで沈めてやったのに!!
書類をもぎとるように奪った国松さんは、ドスドスと足音をさせて去っていく。
私は悔しさで口の中に残っていたレモンのど飴をガリガリ噛み砕いたのに、中根君は小さな溜息ひとつでそれを見送った。
「仕事なくなったし、帰ったら? 熱上がってるでしょ。顔赤いよ」
理不尽に責められたのに、不機嫌さの欠片もない。
中根君はいつも変わらない。
あまり感情の浮き沈みがなくてゆったりしている。
仕事をしていれば色々ミスやトラブルはあるわけで、私なんてその度に「ギャー!」とか「ワー!」とか騒いでるんだけど、中根君は「あー、困ったね」って穏やかなまま。
そんな彼を見ているとこっちも気持ちが落ち着いて、何とかなるような気がするのだ。
「業者さんには俺から連絡しておく。多分、半日くらいなら待ってくれるでしょ」
私の代わりにこれからまた謝罪するっていうのに、のんきに「うーーーん」と伸びをしながら廊下を戻っていく。
こんな風に中根君はあっさり解決してくれることも多くて、私が半泣きでチマチマ電卓を叩いて直していたデータを、「はい、これ」って、飴一個渡す感覚で仕上げてくれたりもした。
「インフルエンザって三十八度以上熱出るんだっけ? 今年の流行ってどんなのだったかなあ?」
鳴海調べの支持率を根こそぎ持って行ったきり、手放さない人。
熱はますます上がっていく。
「紅茶を一日一杯飲むとインフルエンザ予防になるらしいよ。でもミルク入れるとダメなんだって。本当かな」
私から溢れ出た大波が中根君を飲み込めばいいのに。
私の想いはきれいな泡になって消えたりしない。
赤いろうそく……なんて持ってないから、ありったけの赤ペンでも並べて呪いに呪って、中根君を溺れさせてやりたい。
それで二度と地上に戻れなくして、鯛やヒラメや中根君と舞い踊って、末永く暮らしたいなー。
(好き)
声の限りに叫びたくても元々出ないので、空気を揺らす吐息だけで言った。
そのはずだった。
「うん、わかってるから」
返事があって驚いた。
立ち止まった私を置いて、そのまま歩き去ろうとするから、「ショッピングモールで買ったよね」というスーツの袖をムギュウッと掴んで引き留める。
じーっと見上げてみた表情は、いつもと変わらない凪いだ顔。
わかってない。
君は全然わかってないよ、中根君。
熱でボーッとした頭は制御機能が働かず、ここが会社であることとか、仕事中であることとか、二人同時に体調崩したら仕事回らないってこととか、そういう大人としての常識がぶっ飛んだ。
(ちょっと顔貸してよ)
ネイビーブルーのネクタイを軽く引っ張ると、思いのほか素直にかがんでくれる。
体調悪いのにつま先立ちなんかしたものだから、すぐにバランスを崩したけど、いつの間にかしっかり中根君の腕に支えられていた。
どこがプレミアムリッチなのかはわからないけれど、中根君の唇は確かにカフェラテの味がした。
カフェインはやめておけと言われても、やめるつもりなんてない。
コーヒーの苦味とレモンの酸味の相性の悪ささえ、しっかり味わった。
少し離れてうっとり見上げる私に、中根君は揺らがない声で言う。
「やっぱりもう帰った方がいいよ。口の中、すごく熱い」
(わかってるよ!)
この大波をサラーッと流すなんて、一体どんなサーフィン上級者?
いや、もういっそワカメだ。
ワカメって糖分ほとんどないもんね。
むしろ塩漬けにされるもんね。
帰って韓国風激辛ワカメスープでも飲んで、ふて寝してやる!
不満を隠さず身を翻すと、中根君も同じペースで隣をゆったり歩く。
「仕事終わったら行くから」
返事の代わりに片手を上げて応じた。
(はいはい、了解)
「早く風邪治して、さっきのやつ音声付きでもう一回言って」
(はいはい、了解)
「来週バレンタインだけどさ、ビターとかお酒入りはやめてね。普通に甘いのがいい」
(はいはい、了解)
「……あとでちゃんと薬飲むから、やっぱりもう一回」
(はいはいいいいっ!?)
上げた手を掴まれた。
鼻風邪ではないのに、一瞬軽く唇が触れただけで、息なんてできなくなった。
中根君、ここが会社であることとか、仕事中であることとか、二人同時に体調崩したら仕事回らないってこととか、そういう大人としての常識、わかってる?
熱はどんどん上がっていくし、頭はさらにボーッとしていく。
体の力も抜けて、心拍数上がり過ぎて心臓も止まりそう。
ワカメって心筋梗塞を防ぐって、この前テレビで言ってたのにーーっ!!
間近で見上げる中根君の唇には、私のリップがしっかりとついている。
ポケットからティッシュを取り出して一枚差し出すと、中根君はチラッと見ただけでそれは受け取らず、ペロリと唇を舐めてしまった。
「続きはさすがに風邪が治ってからね」
(……はいはい、了解)
……もう仕方ない。
溺れているのは、私の方なんだから。
『君は全然わかってない。君がいるだけで、俺の気持ちがどれほど波立つか。乾燥した毎日がどれほど潤うか。おかげで毎日呼吸が苦しくて困ってる』
end
囚われているわけじゃない
ただ毎日
あなたを想っているだけ
あなたは今どこで泣いてるの?
H29.7.31
◇関連作品◇
『gift』
『ぜんぶカシスソーダのせい』