「晶人さん、本題に入ろう」

今まで黙っていた東城が、静かにそう言った。

僕が勇気を出して少し横目で見たら、本人は涼しい顔でオレンジジュースを飲んでいる。赤いオレンジジュースだ。

東城は美人だ。だからかもしれない。制服姿でも片手に赤いグラスを持てば、僕は少しドキッとする。


「うーん。美香ちゃんがそう言うならそうしようか。君もそれでいいかな?」

「………」


この男のせいで、それも台無しだけど。


「ん、ダメ?」

「…いいんじゃない?こっちだって早く帰れるなら帰りたいね」


僕は男の言葉を鼻で笑って見せる。
ただし、それはただの強がりだ。

本当は東城のために今日はずっと空けてあった。
だけど、きっと東城は今日のこれからをこの男のために使うのだろう。



邪魔者の僕はさっさと帰るってわけ。



そう考えると、なんだか惨めだ。

惨め、なんて今まで考えたこともなかったような言葉だけど、今の僕にはお似合いの言葉なんだろう。

そしてまた思うんだ。




僕は今日、何を期待していたのかと。







「実は僕は塾の講師をやってるんだ」

どうでもいい。

「それで、勧誘なんかもよくやってるんだけど、なかなかこれが難しくてね」

これだから日本人は嫌なんだ。
早く結論を言ってくれ。

「美香ちゃんにもよく勧誘を手伝ってもらっていて、今回はイケメンを探してもらってたんだ。よく漫画で見るんだけど、イケメンのいる塾には人が集まるとか、そんな幼稚な発想なんだけどね」

よくしゃべる口だ。
噛んだら最高だったのに。

「つまり、君にはうちの塾の夏期講座に出てもらいたいんだ。もちろん無料だよ」

「………」

「美香ちゃんも来てくれるんだ」



「………東城も?」



僕の口から咄嗟に出たそれは、期待なんて何も含まれていない、言った僕も驚く冷たく低い声だった。

 
だからだろう。

今日初めて男の視線が僕を捕らえたような、そんな気がしたのは。


「うん?」



「なんで?なんで、東城もなの?僕と同じように東城が美人だから、とか?」



普段ならこんなこと言わない。東城が美人とか、そんな認めるようなこと言わない。


でも、今の僕は僕らしくないくらいに感情的だ。


こんなカッコ悪い正義感、僕は好きじゃないっていうのに。


「あはは。そうじゃないよ。美香ちゃんも受験生だし、__君も美香ちゃんがいた方がいいでしょ?」

僕はその質問に頷かなかった。



いや、頷けなかった。



よりによって、こんな得体の知れない東城の彼氏に、僕が東城に対して何か感情を持っていることを知られるなんて。


どこで間違った?


いや、ここに来た時点で終わっていたのかもしれない。

東城のお願いを聞いてしまった時点で、それは好意だ。
そう思うとゾッとした。

東城がこれまで勧誘してきた誰かは、ここで僕と同じようにこの男と対面させられて、試されて。




この男が敵と見なしたら、こんな風に笑顔の裏の、鋭い眼光で見られたのか?




その時、突拍子もないことが頭を過る。







だから、笹本達也は選ばれなかったのか___?









「晶人さん」

それは唐突だった。

「んー?」
「これ、美味しい」

何の脈絡もなくそう言った東城に、男の視線は僕から離れる。

その瞬間、僕はまるで息を止めていたかのように、小さく深呼吸をした。


「ホントだ。美味しいね」


「うん」
「今度もまた出してもらおうか」
「そんなこと出来るの?」


「出来るよ。美香ちゃんのためならね」


そう言われた東城の横顔は少しだけ赤く見えた。

分からない。二人の関係性が僕にはまるで分からない。


“達也が一番じゃないなんて誰が言った?”


その言葉が僕を掴んで放さない。


「話は終わり?」
「えっ、うん」


僕は男の返事を聞き届けて席を立った。


二人の会話を聞いていたくなかった。

僕の知らない東城は見たくない。



東城美香は、僕がやっと見つけた唯一絶対の正義だ。



それを今さら違うなんて、僕は許さない。




「じゃあ、夏期講座に僕を呼びたくなったら、東城美香に一週間前に僕に連絡させて」


僕は最後までせせら笑いを崩さなかった。


「分かった」


明らかに男に向けた言葉だったのに、東城がなぜか答える。

なんだろう。全てが腹立たしい。

僕はそのままその場を後にした。東城が今どんな顔をしているのかは、少し気になる。




だけど、それ以上に男のピエロみたいな笑顔に出会いたくはなかったから、本当に振り返りはしなかった。










「で、何があったんです?」

「別に。エセ塾講師に勧誘されただけ」
「その勧誘に乗ったんですか?」

「たぶんね」

僕の知らない曲が流れる車の中で、僕は目を閉じて、猫みたいな犬の質問に丁寧に答えてやっていた。



「機嫌が悪いのは、彼女に振られたからですか?」



「は?」

僕は思わず目を開けると、ミラー越しに守木と目が合ってしまった。


「…そうですか」


一瞬、僕じゃないと気づかないくらいの間があって、守木が先に視線を外した。

冗談じゃない。


「___僕はそんなこと一言も言ってない」


東城はただ特別なだけで、そんなピンクじみたものじゃない。


「そうですね」
「そうだよ」

「蒼様」

「なに?」


「少女漫画でもお貸ししましょうか?」


僕は前の座席を蹴った。

僕がこんな奴の言葉に労力を使うだけでも腹立たしいのに、僕の意志に反する言葉が繰り出されるのはもっと腹立たしい。


でも、こいつが僕について何かを決めつけるのが、一番嫌だった。





「バカにすんな」

「してませんよ。喜ばしいことです」
「何がだよ」

僕はとぼけ続ける。

守木に決定的なその一言を言われたら、それを否定することは出来ないからだ。


僕とこの守木の間には明確な線引きがある。
僕たちの関係を名付ける線引きだ。


一つは、僕が上で守木が下であること。
そして、互いに嘘はつかないこと。



だから、僕が隠し事をするのは勝手だけど、僕が嘘をつくのは僕たちの関係に違反する。



とはいえ、守木がそんなふざけた質問をする可能性は極めて低かった。


僕との関係を壊す可能性が一ミリでもあるなら、守木はそれを好まない。


「ですか、東城美香でしたね」


彼女のフルネームを揺るぎなく言う守木は、今日という休日を僕とは違ってよほど効率的に使ったんだろう。

僕は東城と今日会ったけど、東城のことは分からなくなるばかりだった。

だから、守木が外側から東城のことを調べていたなら、それは僕よりよほど効率的なことなんだと思う。




「彼女はオススメしません」



そして、たぶんその守木がそう言うなら、それは事実なのだ。







「どうして?」



「言って、蒼様の気持ちは変わりますか?」



守木のその言葉に僕は思いっきり前の座席を蹴った。

僕らは互いに嘘はつかないと約束して、互いの隠し事は許している。

でも、守木が僕に隠し事をするのは腹立たしいんだから、仕方がない。

「それ、本気で言ってるの?僕がお前ごときの言葉で変わるって」

「失礼しました」


酷い暴言だった。
けど、僕にはお似合いだから、これでいいんだと思う。



「蒼様はどこまで東城美香のことをご存じで?」



「………何も?クラスメートだってことしか知らない」

嘘じゃない。

本当は東城のことをただのクラスメートでしかないなんて、そんな言葉では表したくなかったけど、ここ最近東城を知る度に僕はそう思うようになっていた。

「ご自分でお調べにならなかったのですか?」

「うん」



「なぜ?」

守木は正しい。

東城美香について知りたければ、組織の力を利用したり、僕が“見る”方がよっぽど効率的だ。

笹本達也とはいつからあんな関係にこじれたのか、なぜ親戚が彼氏になったのか、同じ美術部員に殺意を向けられているのか。

そんなのただのクラスメートでしかない僕には、教えてくれないに決まってる。

だけど、それでも僕は東城自身から聞けるまで、知りたいと思わなかった。





「僕は見たから」


たったそれだけのために、僕は東城を心底信じている。




東城だけが、僕の欲しい答えをはじき出せるのだ、と。




「………そうですか。では、私が言うのはこれだけにしておきましょう」

もったいぶった言い方だ。

もしかしたら、東城の親戚で彼氏だと言う男と気が合うかもしれない。

そう思ったけど、やっぱり違うと打ち消した。

あの男も、守木も仮面を被ってはいるけれど、その中身は全く違うし、仮面の形だって違う。

そう考えて僕は満足した。


もうピエロのことは忘れたい。



「東城美香の後ろには、紫がいます」



そう考えた矢先のこの言葉に、僕の鼓動がドクンと跳ねた。


紫。


その称号を聞いて僕はいつも六年前の夏を思い出してしまうけど、今日は違ったのだ。





今日この時に限って思い出したのは、東城の親戚で彼氏だというピエロみたいな男だった。








その次の日、僕は学校を休んだ。

たぶん誰も気にかけていないだろうけど、僕はよく学校を休む。

でも、学校を休むことを引け目に感じたことや、不安に思ったことは今まで一度だってなかった。

むしろ、僕は学校を休んでいる間、高校生らしからぬ正義ごっこで忙しい。

僕は正義ごっこが良いとも悪いとも、まだ判断がついてないけど、東城を見つけたからには、その答えはいつか必ず見つかるはずだった。


ただ、それではもう遅いかもしれない。


正義ごっこはあの人が始めた本当に冗談みたいな計画から始まっている。

だけど、紫という人物によって、それは現実を帯び始めてきたようだ。


僕はそれを喜んでいいのか分からない。


少なくとも、紫と東城が何らかの関係あると聞いてからは、僕は正義ごっこを感情的に否定的だ。

でも、とにかく今日の僕は気だるげに授業を受けている高校生の自分よりも、正義ごっこをしている僕を優先した。

昨日の一日分の仕事を取り返さなければいけないのがまず一つ理由だ。

あと、昨日僕が東城のために時間を使ったことで、あの人にまで東城のことを調べられては困る。

東城の存在を紫が知っているなら、昨日のことをあの人がもう知っていてもおかしくない。


東城は僕にとって正義ごっこを止める理由になりうる人物だ。


東城のことを知っても、ほぼそんなことあの人は思いもしないだろうけど、ゼロではない可能性は、潰しておくべきだ。

それくらい、あの人には僕が正義ごっこに疑問を持ってることを、知られてはならない。

だから、今日僕が学校を休むことは正当だった。


でも、今日だけはそんな自分を不安に思う。


僕からわざとではないため息がこぼれた。




でも、そんな僕は嫌いだから、わざとということにする。






「こんな日に野郎と二人でプールとか、なにやってるんだろ?」

「涼しいことに意味があるんです。この暑い日にプールに入るのに、誰となんて関係ありませんよ」

「いや、あるね」

「少なくとも、蒼様にはありません」



「___僕が東城と入りたかったって言ったら?」



気まぐれにもそう言ったのは、やはり今日学校に行かなかったことを少しだけ後悔しているからかもしれない。


「それは………お気の毒です」

聞いたのがバカだった。

残念ながら、前の座席というものがないので、僕は少しだけ僕より背の高い守木の頭を掴んで、プールに沈める。

三十秒後くらいに僕の腕力を上回った力で、守木の頭が水から出た。

少しだけ顔を歪めただけの守木の顔を見て、また沈めようと頭を掴もうとする。


「あんまりやると目立ちますよ」


そう守木が僕に正論を叩きつけるので、僕は仕方ないとでも言うように、わざとらしく肩をすくめる。


「じゃあ、僕の機嫌を損ねないことだね」


「善処します」
「少し向こうまで泳いでくる」


「はい。お気をつけて」


その言葉は、僕が溺れることを想定して言っているわけではなかった。だが、僕はそれに素直に頷く。


わかってるよ、という意味をこめて。