答えたくない質問だった。
言葉は力を持っている。
言葉にしてしまえば、それが事実になるのだ。
だけど、だからこそ私は言わなければならないのだろう。
「___それを今日決意したの」
私は偽善を止める。
そのために断ち切るべき最初は達也だった。私のなり損ないの正義は達也がために生まれたものだったから。
だから最初で最後のデートをしよう。
場所はこの作品を飾るはずの美術展。
続きが描けなくなった未完成の作品とその正義にサヨナラを告げる最高の舞台だった。
それから三日、イケメン探しは難航していた。
いや、もうすでに私は彼に話しかけることを決めていたのかもしれない。
達也のことが吹っ切れた今、私に出来ないことはなかった。
「霧蒼」
放課後の廊下、帰ろうとしていた彼の道を阻んだ私は、この三日の内に用意していたものを淡々と述べる。
「手伝ってもらいたいものがある」
霧蒼は三十秒ほどこちらを見たが、その後は何も言わずに私の脇をすり抜けていく。
私はその後ろ姿をただ追った。
霧蒼は黒髪のどちらかと言えば華奢な男の子だ。目は冷たいし、何を考えているのか読めない。
それに笑うのかどうかすら、怪しい。
この人生がつまらなさそうな人の見本のような男の子の一体何が、あのニュースに繋がるのか。私にはまるで分からなかった。
「で?」
彼は誰もいない物理教室に入るなり、私を見ようともせずそう言う。
私は促されたのが何なのか分からなかった。
「………なに、しゃべれないの?」
「違うわよ」
「じゃあ、さっさと言ってよ。何を手伝えっていうの?」
それは手伝うことを決めてもらってからじゃないと言えない。しかも、今回の場合は晶人さんに合格をもらわないことには始まらない。
この場で言えることはなかった。
「………ある人に会ってもらいたい」
「誰?」
間髪を入れずに答える霧蒼。言わない限りはきっと手伝うなんて論外だろう。
「私、今イケメンを探してるんだけど、あなたの他に頼める人がいなさそうで困ってる。迷惑だと思うんだけど、手伝って欲しい。内容はまだ言えないんだけど、決して怪しい仕事ではないから」
言える範囲を模索しながら言っていくうちに、私の願いと反して顔を険しくする霧蒼。私の声は段々と小さくなり消えてしまう。
そんな私に霧蒼はため息をついた。今までは考えたこともなかったけど、人にため息をつかれるとなんだか自信を喪失する。
私までため息をつきたくなってしまう。
でもそうする前にさらに霧蒼は私に背を向けたのだ。
「じゃあ、それをしなくちゃいけない理由は?僕に何のメリットがあるわけ?」
「………」
「ないの?」
「………」
「じゃ、僕はそれを手伝えない。今後僕の帰りを東城が阻んでも無視するつもりだから、よろしく」
それだけ言って、拳を握りしめた私を置いていく。
物理教室のドアが無情にも閉まった。
「………とりつく島もない、か」
理想を一枚剥がせば、黒一色に染まった私の世界があった。でも、今は黒さえ存在しない世界に取り残されている気分だ。
どうせ失う色ならば、最初から存在しなければいいのに。
そう思った時、ドアの音がして顔を上げた。
「きり、そ…う?」
真っ直ぐこちらを見る霧蒼がいる。
驚き、期待、不安が私を支配した。
でも、そんな感情など忘れてしまうような台詞を、霧蒼は何の躊躇もなく裁判官のように淡々と告げるのだ。
「___東城には失望した」
今度こそ戻ってこないだろう彼によって再び閉められたドアの音は、一度目よりもこの私しかいない部屋に、大きく響いて聞こえた。
それから私は何をどう過ごしたのかあまり覚えていない。
我に返ったときには、彼と出会ったあの繁華街にいて、知らない酔っぱらいのおじさん二人組が私に話しかけてきていた。
何も悲しいことなどないのに涙が出てくる。
なにやってるんだろ。
急に泣き出した私におじさんがまた話しかけてきてる気がしたけど、一体何を言っているんだろう。
でも、この人達に用はない。
私が探しているのはここに来る前の私だ。
いや、六年前の夏以前の私かもしれない。
お願い、誰か___
「___達也。助けて」
居るわけない。居るわけないのに。心が叫んだ。
絶対的正義の名。
だけど、私が呼び寄せてしまったのはそれより質が悪かった。
「邪魔」
「霧蒼っ!?」
そう言った私をチラリと見た霧蒼は舌打ちする。
「その店入りたいんだけど、おっさんどいて」
「はっ。お前みたいなガキが来るところじゃねえーよ、この店はー」
おじさんがしゃべると、酒臭い臭いが鼻をかすめる。
思わず私は顔をしかめた。
「じゃ、おっさん奢ってよ?」
「あ?なんだこのガキが」
おじさんが霧蒼に殴りかかる。私はその光景を見てるしかなくて、気がついたら霧蒼の頬は赤くなっていた。
だが、霧蒼は涼しげな顔をしているのに気が付いて、背筋がゾクッとする。
おじさんも同じだったのか一瞬動きが止まった。しかし、すぐに元々真っ赤だった顔がさらに赤くなる。完全に怒った。
「あ?なめてんのか、このガキが」
「語彙力のない人だ」
霧蒼がぼそりとそう呟いた。その瞬間、再び拳が霧蒼の顔面を狙って飛んでくる。
が、___それは霧蒼の手にしっかりと阻まれた。
「ここから先は正当防衛になりますから、そのつもりで」
おじさんが繰り出した手が、易々と霧蒼に捻られて、あり得ない方向に曲がる。
「っ~~~」
声にならない悲鳴をあげるおじさんに、霧蒼は初めて微笑んだ。
「もう一本、やっとく?」
その壮絶な笑みに臆したおじさんは半身狂乱で駆けていく。フラフラとしていて危なっかしいように思ったけど、姿はほどなくして見えなくなった。
だが、私はそれを見送る余裕もなく、霧蒼を見つめた。
「………」
その視線に気づいたのか、霧蒼はチラリとこちらを見た。
「なに?」
「………」
なんと答えればいいか分からなかったから返事をせずに、その代わり目だけ真っ直ぐに霧蒼を捕らえて離さなかった。
「何の用もないなら、見ないでくれる?」
話しかけるな、の次はこれか。
不意に笑い出したくなった。私は滑稽だけど、霧蒼はもっと滑稽だ。
「なんで笑うわけ?」
眉間に皺を寄せた霧蒼は、腹立たしげにこちらを睨む。
それさえ、今はなんだか面白かった。
「………いや、ありがとう」
「は?僕はここを通りたかっただけ。東城、あんたがいないがいようが関係なかった」
「ん、だから」
「は?」
「___わざわざ助けたんじゃないって否定する人に初めて会ったから」
達也が今この場に居たなら、私のためにおじさんを追い払うだろう。
それは偽善者の私の絶対的正義。
だけど、それとは対照的に霧蒼は偽悪的だった。
私を助けたんじゃないとか、話しかけるなとか、見るなとか。でも、達也と同じで私を結果助けたのは事実で。
私はこの時、達也以外の正義を初めて信じることができた。
だから、ありがとうと一言伝えたくて。泣きたくて、笑いたくて。
だから、頭がおかしくなっちゃった。
「ねぇ、本当に手伝ってくれないの?」
こんなバカな質問をするほど。生産性のない会話は嫌いなのに。
「………イケメン、探してるんでしょ」
「うん」
「なんで、…彼氏に頼まないわけ?」
彼氏。
頭の中で復唱したそれは私には無関係の代物。
いや、晶人さんはそうなのかもしれない。
意識したことがなくて、私はそう思い当たるのに数秒かかった。
「………その彼氏がイケメン探してこいって言ってるんだけど」
「は?あんな東城にベタ惚れの奴が?」
初めて見た霧蒼の驚きの顔だが、私はさらに戸惑った。
「誰こと言ってる………?」
晶人さんのことなんて、霧蒼が知っているはずないのに。
「は?笹本達也に決まってる」
私は一瞬の驚きの後納得した。まあ、普通そう見えるだろう。達也は私がデートに誘ってから上機嫌だ。
私は表情筋を上げて笑って見せた。
「達也?達也は彼氏じゃないよ」
「………どういうこと?」
「どうもこうも、そのまんまだよ」
私はひきつる顔にさらに口の端を上げて見せた。たぶん、相当ヒドイ顔だ。
「また失望した?」
霧蒼の顔は酷く歪んだ。納得いかないことがあるような、気に入らないことがあるような、そんな感じに。
でも、結局はため息のように自分を偽って言うのだ。
「したね」
私はその言葉を待っていた。
彼は本物の偽悪的な人。
それはなんとなく達也と近いが、決定的に違う。
達也が真っ直ぐな人なら、霧蒼は私の言葉にまんまと嵌まってしまった、真っ直ぐに曲がってる人。
そんな彼に私は罠の種明かしをした。
「___じゃあ、私に何を期待してたの?」
「期待なんてしてるわけないでじゃん。何言ってんの」
「何も期待しなきゃ、失望なんてしない」
虚を突かれたような顔をした霧蒼は、次いで唇を噛んだ。
「…期待じゃない」
「じゃあ、なに?」
「イメージだよ」
「変わらないよ。それは同意語」
「………東城、あんたはもっと___いや、僕はもうあんたが分からない」
「奇遇ね。私も霧蒼のことが分からない」
私たちは見つめあった。
決してロマンチックなものじゃない。探り合うようなそんな瞳をお互いがしていた。
しばらくそのまま見つめ合っていたけど、私の方はまるで何も分からなかった。きっと、偽善者の私には霧蒼も達也と同じで、その性を理解することは一生出来ないのだろう。
ふと霧蒼の方が先に視線を外した。
「………まあ、あんたのことなんてどーでもいいけど」
どこまでも偽悪的な彼に私は、素で笑った。
「そう?私は今日の一件で霧蒼に興味が湧いた」
だって、もしかしたら私の中の達也という絶対的正義を翻せる存在かもしれない。
「霧蒼、もう一度聞くけど、手伝う気はない?」
「………それって、あんたの彼氏に会えってこと?」
「うん」
この時、私の世界の色は変わり始めていたのかもしれない。
しかし、今はただ達也との離別のことばかり考えていたんだと思う。
いや、それはおこがましい。偽善者の私にも、悪役の私にも似合わない言葉だ。
強いて言うならば、私は私のことだけを考えていた。
達也のことを考えていると言いながら。
「気が向いたら、行ってあげてもいい」
この霧蒼の言葉に私が素直に頷いたのも、たぶんそれだけの理由だった。だから霧蒼が何を思って、今さらいいと言ったのかとか、考えもしなかった。
「じゃあ、気が向いたら言って」
霧蒼は何者なのか、そんなことはもう重要でもなんでもなかった。