「………名乗る筋合いはない」
確かな沈黙のあと、男の子は答えた。

「あっそう。でも、東城は私の名前でしょ。なぜ知っているの?」



「………さっきの変態オヤジに見つかる。こっち」

私の質問をまるで無視して、路地裏の奥へと勝手に手を取って歩いていく。

私はその腕を振りほどこうとして、男の子の方はまるで見てなかった。

やがて、男の子は止まってカメラの男を見た。カメラの男が頷く。

私の腕は解放された。
私は人目を気にせずため息をつく。

今日は本当に色んな人に不本意に掴まれる。
ため息くらいは許されるはずだ。


「で、なんで私のことを知ってるの?」

質問を繰り返したのは、お前のことを呼んだんじゃない、カメラを持った男のことを呼んだんだと、そうどうしても言って欲しかったからだ。

私と同じ東城さんに会いたくないのは、ほんのちょっとの願望だ。それが叶わなくても私の名前が大切なのは変わらない。

でも、知らない人が私の名前を知っているのは怖い。

「___さあ」
明らかにあった間は、私の求める答えではなかった。

「長居は無用です。行きましょう」
「あぁ。そうしよう」
カメラの男の呼びかけに応じた男の子は、路地裏へと消えようと私に背を向けた。




そしてその瞬間、もっと言えば男の子の背を見た瞬間、私は教室にいた。


「もしかして__」


私が無意識に呟いたそれに男の子の足が止まる。




「邪魔な、あの窓際の人?」
いつもの教室の窓を眺めているときに、常に目に入るその人は、確かに目の前の男の子のような後ろ姿だったように思う。



「私のクラスメート?」



二度目に私を振り返った彼は、なんとも言えない顔をしてこちらを見た。


私に知られていて、良かったのか悪かったのか微妙といった顔だ。




「やっぱり、そうなんだ」






「………だったら、何?」
「え?」

「東城は僕たちのことを見た。正体も知ってる」

「うん?」


「だから___黙っててくれるには、どうしたらいいのかな?」


少しイライラしたような口調は、早く言えと急かしている。

どうやら私はクラスメートの見てはいけない場面に遭遇してしまったようだ。

私が二人について知っていることといえば、今ここにいて私が絡まれている写真をとっていたことと、二人のうちの一人が同じクラスの人だったというだけだ。それは正体を知っていると言えるほどのことでもない。


でも、それが交換条件を生むなら大歓迎だ。





「えっと…私のこと今撮ったよね?」
「うん。まあ、君の顔はちゃんと映らないようにしてあるけど」

「じゃあ、それは私だってバレない?」

「うん。東城と僕たちが言わなければ」

私はそっとため息をつく。良かった、バレない。
バレちゃまずい相手が誰かは言わないけれど、良かった。

「じゃあ、私はクラスメートくんのことは黙ってるから、クラスメートくんとそのカメラさんは私のこと黙ってて」

「………分かった。本当に秘密にしてくれるんだな?」
「あっ、うん」

どっかの議員の酔っぱらい写真をクラスメートがとっていたところで、私には何も関係ない。

まあ、どうしてそんなことをしているのか、少しだけ好奇心は湧くけど。

「じゃあ、それだけちゃんと守ってよ。………一人で帰れるわけ?」

ふと思い出したようにそう聞く彼。その言葉に、私はようやくもう一つの目の前の現実に気づいた。

「あー、今何時?」
「午前零時三十分です」

カメラ男が口をはさむ。
残念ながら終電はもうない気がする。私のマンションまでのタクシー代はもうない。でも、この二人にどうにかしてもらうのも癪だった。

「終電はもうないよ。良かったら送ってあげるけど」

私の考えを呼んだようにそう言うクラスメートくんは、なんだか偉そうで嫌な感じだ。

そういえばカメラの男の方が年上に見えるのに、男の子の部下のような感じがする。

どこかのお坊ちゃんかとも思ったけど、こんな時間にカメラ片手にウロチョロしていると思うと、なんだか私の金持ちのイメージとは違う。



この人たちは一体何なんだろう?



気になる。
でも、交換条件には、暗に二人のことを探らないという条件も絶対含んでいるのだろう。


私は今日この日を忘れなければ。




「いいえ。一人で帰れます」







最終兵器は晶人さんだ。

晶人さんに少し迷惑かけるし、こんなところに来させて心配させるかもしれないけど、仕方がないこと。


「………あっそう。じゃあ、本当に約束だけは守って」

「分かってる。じゃあね」
お互い背を向けた。

この二人はどちらも間違いなく今日一番のイケメンだった。もう出会えないだろうと思えるくらいのレベルで。

本当はこんなイケメン探しもうやめたかったから、彼らにもう一つの条件として晶人さんを手伝ってもらうのも良かった。



でも、それには謎が多すぎる。


もったいない気もするけど、私の手に負えるような相手ではない。

それでも、どうしても見つかんなかったとき、クラスメートくんには声をかけてしまうと思う。




だって、もうこんなところ、晶人さんのためでも来たくなんてないから。






「それで、どうしてこんなところに?」

晶人さんは車を出てくるなり、私を抱きしめた。そしてこのセリフはそれからしばらくして二人車に乗り込んだ時に晶人さんが今日始めて発したもの。

だが、私は晶人さんが現れた時から、私はなぜか違和感を覚えている。

それは言葉にできない、ほんの少しの違和感。気のせいだと片付けられるほどに本当に少しだけ。

「…イケメンを探して」
晶人さんの詰問に答えようがなくて、私は仕方なくそう半分だけ誠実に答えた。今夜のことは晶人さんでもこれ以上語れない。

「ここがどんなに危険な場所か分かってて来たの?」

晶人さんの説教は嫌いだ。正しくて虚しくて。でも一番は晶人さんに父親づらされるのが嫌だ。

早く終わって___。



「………分かってたつもりだけど、分かってなかった」


「だよね。もう二度と行かないって約束して」
「約束する」

約束は嫌いだ。なんでこんなこと言ってるんだろう。そう言えば、さっきもあの男の子と約束してしまった。それこそ何の躊躇いもなく。



私は私の言葉の無責任さを良しとしてしまったのだろうか?



そう考えた途端、怖くなった。

「美香ちゃん?」
「晶人さん………私っ」

私は一体どうしたんだろう。

この世のすべてが色あせて見える。たくさんの色でグチャグチャになっていた色が、この手から溢れ落ちていく。


「私はっ___」
その先は言葉には出来なかった。


私はとんでもない偽善者で、自分には似合わないような日常を身の程知らずにも愛し、その日常を守ってくれる人に甘えて、しかもそれを良しとしていた。

でも、ちゃんとそんなのはおかしいと思ってたはずなのだ。それがどんなに心地よくても、きっと結局はダメになるから、人は傷つけ傷つくことをやめられないから、このままではいけないのだと。



なのに、今さらになって何も思わなくなった。
自分の甘えを容認するようになっていた。







罪悪感が自分の欲にかき消されるになったら、もうそれは化け物でしかないのに___。








私は今化け物を抱えて日常にすがりついている。

晶人さんがいれば、諦められるはずだった日常に、すがりついている。



そして、いずれ大切だと思ったすべてを壊す。



そんなの嫌だ。決めてたはずなのに、頑張るって決めたのに、諦めるってちゃんと___覚悟してたのに。

なんでっ、こんな今さらっ。



「美香ちゃん」
今すぐに言ってはいけないことを叫びそうになった、その時だ。



「美香ちゃん、今日はさ僕たちの家に帰らない?」



片手でハンドルを握りながら私の唇に人指し指をあてた晶人さんが目に入った。

その瞬間苦しかったのどの奥がすっと力を抜いて、今度は泣きたいような笑いたいようなそんな感情に呑まれる。

晶人さんは私がどれだけ壊れて人間じゃなくなってすべてを壊す化け物になっても、必ず二人だけの世界に連れていってくれる。



私はこの優しい手を離さなければいいだけ。そのために他はすべて切り捨てる。
簡単だ。





「うん。晶人さんとの家に帰る」






唯一私の我儘が許される居場所だから。


………だから、晶人さんが現れた時の違和感は気にしない。
晶人さんが車で迎えに来た時、ずっとすぐそこに車を置いていたんじゃないかと思うほど急に聞こえた車の音は気にしない。

普通は徐々に近づくはずの車の音が、曲がり角から急に聞こえて、私の目の前で止まったなんて、まるであり得ない。




晶人さんが今日の私をずっと見ていたんじゃないかなんて、そんなの冗談キツ過ぎる。




今日はもう本当に何も考えたくなんかない。

仮に晶人さんが私をずっと見てて助けてくれなかったのだとしても、今の私は晶人さんが二人だけの世界に連れていってくれるなら、見てみぬフリをする。



私にはそんなことしか出来ない。







「ねぇ、楓」
「なに?あっ、あれ!呼んでみただけってやつ?」


「違う。あの人、なんていう名前なの?」


ナンパに失敗してから、ちょうど一週間が経った。

未だにイケメンは見つからない。見つける努力をしなかったと言った方が正しいが。

それもこれも、きっとあの二人組を見てしまったからだろう。あれ以上なんてそうそう見つけられるはずもない。こうなったら、もう一度会ってダメもとでやってくれるか訊いてみるべきか。

そんなことを思えるほど得体の知れなさは時間と共に薄れて、代わりに楽な考えかだけが頭を支配していく。

でも、あの日以来今日まで彼は学校に来なかった。その間、世間で話題のニュースとして私に絡んできた議員の男の汚職が発覚が連日報道された。

そのニュースを見たときは、背筋がゾクッとしたのを覚えてる。

議員を追い詰めるなんて、普通の高校生がやるようなことじゃない。

しかし、私が知っている教室の彼といえば、窓際にいつも居る邪魔な存在であり、今観察している限り昼休みを友達としゃべることもせず、パン片手に何かのプリントを見ている。


物静かな男の子と思えば、別に普通の高校生だ。


だから、ますます謎だった。
いや、うるさい目立つクラスメートだったとしても、それはそれで意外なんだけど。

私にしては珍しいほどの好奇心。それがどこから湧いてくるのか私はまだ知らない。

でも、探りを入れるのは無しでも、クラスメートとして名前くらいは聞いてもいいはずだ。

本人には名乗る筋合いはないって、はっきり言われてはいるけれど、多分いいはずだ。



「あー、あの人?美香がいっつも見てる」
「え?」



楓が意外でも何でも無さそうに、しかもどちらかと言えば、面白くなさそうにそう言ったから、私は首をかしげた。






確かに彼を見てたと誤解されるくらいには彼の向こうにある窓とそこに広がる景色を見てはいた。

楓は授業中チラシか私しか見てないから、私の視線の先を知っていても何ら不思議じゃない。


だから、楓にはあの人で通じると思ったんだし。


でも、楓にそんな反応されるとは予想だにしていなかった。


「楓、あの人苦手だったっけ?」
楓が苦手とする人種とは彼はかけ離れているように私は思う。

「うーん……自分と似てるから、苦手かも」
「似てる?」
「うん。だから、美香は気になってるんでしょ?」


楓の言っていることがやっと理解できて、私は笑った。


「私は楓だから友達になったの。独りみたいだからとかそんな理由じゃない」


それはまるっきり嘘だった。

楓が独りではなかったとしたら、友達になる必要など生まれなかっただろう。

でも、私はまだこの日常を捨てる勇気はない。だから、嘘をついてでも偽善者気取るのだ。

「うん。ありがと」
楓も私の言い分に笑ったけど、その陰りのある楓らしくない笑顔は、きっと私の答えを信じてはいない。




バカな楓の扱いは慣れてきたつもりでいたけど、こういう時の鋭い楓は私には扱いにくくて仕方がない。





「で、あの人の名前」

楓がきっと忘れてると思ったので、繰返し聞いてみると、案の定今思い出したように私を見た。


「キリソウ」


「は?なにを切るって?」
「何も切らないよー。だからー、キリソウって名前なの」
「へー、どんな字」
「どっどんな字って言われても説明できないよ……えっと___」


「霧がかかるの霧に、草冠の方の蒼い」


頭上から降ってきた答え。またか、とそう思いながら、振り返りもしなかった。

「達也くんっ」
楓がそう言うだろうと思ったから。

「突然話に入ってこないで」
「…大した話じゃねぇじゃん」
「私たち世紀末の謎について話あってるから、大したことあるけど」
「大嘘つきだな。そんなの楓が付いて行けるわけがない」

そう私の前にしゃがみこんでデコピンを食らわす達也は、また不機嫌そう。

「私のとっておきの冗談だったんだけど」
「もっと、面白いやつあるだろ」

私はそれを笑って流すか迷った。まだこのぬるま湯みたいな心地よい日常に浸っていたくて。



でも、もう駄目だと思うんだ。



「うん。まあ、あるよ。もっと面白い話」

だから、全てが終わってしまうはずだった夏を六年経った今終わらせよう。




「達也、デートしよう」

この時の私には、教室のざわめきなんてまるでどうでも良かったし、窓際の彼のことなんかすっかり忘れていた。 




ただまた笑っちゃうくらいに目頭が熱かった。