私はロビーのいつもの場所に腰かけたその男の方に向かって、それだけ言った。他は目に入らなかった。


私はその男だけを見ていた。


そんな私に男はにこりと微笑む。その心からの笑顔は一種の熱を帯びていて、私は微笑み返すのも恥ずかしい。
私がうつむいていると晶人さんは立ち上がって、私を覗き込む。

「美香ちゃん、行こうか」
その言葉に私はきっとはにかみながら頷いた。



晶人さんの笑みがさらに濃くなったのを見たから、それは間違っていないだろう。

大体、この人は人との距離感を間違っている。顔と顔がくっつきそうな距離で喋らないで欲しい。

………顔が熱い。
ペットボトルの中は空っぽになってしまったのに、なんていうことだ。


「今日はあついね」
タイミングよく晶人さんはそう言った。

ここ数年のうちで何度も思ったことだが、晶人さんには私の全てがバレている気がしてならない。

それがなんか私は気に入らない。

だからと言ってはなんだが、さっきまでペットボトルの水をがぶ飲みしていたくせに私は言った。

「__ここは屋内だから涼しい」

だが、その私のちょっとした反抗を含んだ返事に晶人さんはなぜか嬉しそうに頷いて、私の手をとる。


「じゃあ、美香ちゃんと手を繋いでもいいね」


「………」
「睨まないの。あー、でもやっぱり今日はあついね」

そう言いつつ強く握られた手はきっと放されることはない。

「一週間ぶりのあつさだよ」
「そうなの?」


「そうだよ。だって美香ちゃんに会ったの一週間ぶりだもん」
「………」

それはきっと暑さではなく、熱さで。

「美香ちゃんのそのはにかんだ笑い、好きだよ」

「………うるさい」
「うんうん。少し意地悪だったね」

そう言って繋いだ手をぎゅっとしてくれるあたりが確信犯だろう。

確信犯。
それは正しいと信じて犯罪を犯す人のこと。罪悪感など抱くわけがない。

「ねぇ、美香ちゃん」
「なに?」
「呼んでみただけ」

この端からみればうざったいようなやり取りも、私は赤面せずにはいられない。

「晶人さん」
「ん?」
「行かないの?」


「うん、行こっか」





だが、私たちは別にこのホテルの最上階にある高級レストランで食事をとるわけではない。


もちろん、ホテルの一室に入っていくわけでもない。


「お待ちしておりました」
地下にある会員制のお食事屋でご飯を食べるのである。


「今日もお二人ですね」
「うん」

晶人さんが頷く。しかも見せびらかすように繋いだ手を上にあげて。

だが、店の人も馴れたようなもので、営業スタイルを崩さない。

「では、食事はご用意してあるので何かあればお呼びください。部屋はいつもの一番奥です」
「うん。ありがとう」

なぜ、予め食事が用意してあるのかと一度晶人さんに聞いたことがある。


“美香ちゃんと話しているときは誰にも邪魔されたくないからね”


そう答えた晶人さんはイタズラっぽく片目を瞑って見せた。


真相はよく分からない。


「あっ今日はお肉料理だって」
奥まで歩く途中、思い出したように晶人さんは言った。

「ほんと?」
「ほんと。嬉しい?」
「………子供扱い」

晶人さんは笑った。最初はそれに私はむくれていたけど、やっぱり晶人さんの笑い声は心地よかった。私の口の端からほころぶのはやむを得ない。

今日はなんとなくいい日だ。

部屋に入った私たちは、間にごちそうをはさんで座った。

いつでもここは何を食べても美味しいのだけれど、今日は特別美味しそうだ。

そう嬉々として私がフォークを手に、肉を口に放り込もうとした時だった。


「最近、学校はどう?」

私の手は一瞬止まったが、やはり肉は口へと入っていく。私は口に何もなくなるまで口を開かない。

でも、その間晶人さんから目を一度もそらしはしなかった。

でも、晶人さんもそれは分かっているようで、答えを待つように自分も料理を口にしていた。



「………何もないよ」


やっと私がそう答えたときも、晶人さんはワイングラスを取っていた。



「ん、そっか」


「晶人さんは?仕事どうなの?」
「うーん、ちょっとね」

そう言って少し困った顔で私に笑いかける晶人さんの望む言葉を私はちゃんと知っている。



「今度はどんな人がいいの?」



「今すぐ使える人がいい。あと出来たらイケメン。でも一番は親が無関心そうなのがいいな」

晶人さんは待ってましたと言わんばかりに条件を述べていく。


だが、普段と少し違うことがあった。


「イケメン?」
「うん」
悪びれもなく晶人さんは私に頷く。

「イケメンって?」
「イケてるメンズ?」

私はため息をついた。


晶人さんが何を考えているのかたまに分からない。


「………分かった」
そう答えた時の声が低くてビックリした。だけど、晶人さんは意地悪だからそんなのは見て見ぬふりをする。


「美香ちゃん、お肉美味しい?」
私は答える。


「___知らない」


晶人さんは嬉しそうに頷いた。
「うん。知らないままでいいよ」


謎だ。
晶人さんのことで私の知らないことはたくさんある。
晶人さんは私のことなら何でも知っているというのに。




でも、___私にはこの人しかいない。
それだけは私にも分かっていた。




「でね、この期間限定の二つあってどっちも食べたいんだけど、さっきお金使っちゃってね」


休日の校門前は遠くで部活の人達が一生懸命頑張っている声が聞こえる他は、本当に静かなものだ。

逆に私たちのしゃべる声が大きく感じる。

「だから、どうしようかなって___」
「じゃあ、私こっち」

うるさい楓の持っているチラシの一点に指を指す。


「あっうん………って無視しないでよ、美香っ」
「してないし」
「してるじゃーんっ」
楓の手が私の手を揺さぶる。


「いや、楓。聞いてないのはお前だ」
「えっ?」


心底不思議そうな顔。これを天然でやってるのだから怖い。



「二つとも食べたいけど食べられないってお前が言うから、美香が片方の方頼んでやるって言ってんだろ」



「えっ!嘘っ、本当?」
「___別に、特に好きなものもないしね」
「やったー」
だから、私の腕をむやみに引っ張らないで欲しいんだけど。


「あっ、でも美香、好きなものないの………?」
急に大人しくなった楓に私は首をかしげる。

「だったら何?」
「いや、そしたら美香のお金無駄遣いじゃない?」
そう言ったときの楓はとても不安そうな顔をしていた。

とても愛しい顔だ。
でもそれを見ると、私は何度も泣きたくなる。笑っちゃうくらい似合わない感情だ。




どうしてこの子には私しかいないのだろう。




全く、この世の中は馬鹿げている。




そう思ったとき、不意にあの黒髪が脳裏をかすめた。


「美香………?」
ボーッとしてたのだろう。楓がこちらを覗きこんでいる。

「金の無駄なんかじゃない。私は何でもいいから、涼しいところに行きたいの」
「そっか!じゃあ、早く行こっ」

はしゃぐ楓は、私はもちろん他人の言葉をそのままにしか受け取らない。私がどれほど皮肉を言っても、意地悪をしても、全く気づかないのだ。いや、そういう振りをしているのかも。

一度だけ、ただからかってみたのだと親切にも説明してあげたことがある。その時楓は笑って、ただそうだったのかとそれだけ言って首をかしげてみせた。

なんで、この子は多くの人に理解されないのだろう。

いや、理解したくないのだろう。自分と同じでありながら自分よりずっと綺麗なものを人は拒絶する。

そういうのが、また自分を堕落させるもの心の内では分かっていながら。


ああ、人間とはなんて愚かで愛しい生き物なのか。
そういう芝居がかった台詞が浮かんだ。


「ちょっとー、早く入りたいでしょー。早くー」

少し先を歩いてく二人がいつまでも足を進めない私に気づいて振り返った。

私は手の甲を見せて追い払う仕草をして見せる。二人は顔を見合わせると肩をすくめあって、再び前を向いて歩き出した。

別に二人と並んで歩くのに抵抗がある訳じゃないし、このくそ暑い日に散歩がしたくなった訳でもない。

ただ、最近楓が達也とくっつけばいいと私が勝手に思っている。達也は相手に困ることは一生ないんだろうけど、楓は違うから。

いや、私がそんなことを思ってると知ったら、達也は泣きそうな顔で怒って私のことを力一杯抱きしめてくるだろう。
そして、そんな達也と私を前にまた楓が独りになっていくかもしれない。最悪のシナリオだ。

達也は私の恋人に、楓は私の親友になりたいのだというのはなんとなく知ってる。

そして、きっと二人ともこの先に進めないのなら、いっそ一生ずっとこのままでいいと思ってるだろうことも。


でも、私はこのまま一生二人と付き合っていくことはたぶん出来ない。


こんな時にいつも思うのは、なぜ二人と出会ってしまったか、ということに尽きる。

でも、どう考えたところで、どっちも私の気まぐれでこういう事になっているとしか言い様がない。

思わずため息が出た。
私にはこの退屈な、でもとても平和な日常を壊す勇気はまだない。


でも、それももう少しだと思う。
そんな予感がする。


ぼーっとしてると、二人はだいぶ遠くなっていた。二人の楽しそうな後ろ姿に相反する気持ちが芽生える。





このまま何も言わずに帰ってしまおうか、そんな気分になった。





「みかー」

楓の元気のいい声が不意にこちらまで聞こえてくる。なんてタイミングのいい奴だ。

私はそう思いつつ手を振り上げてそれに答えた。

そうすると一段と張り上げた声で、楓はとんでもないことを言った。


「一番最後に店に着いた奴が、おごりだからねー」


楓にしてはよく考えられていた言葉だったから、きっと言い出したのは達也だろう。


さっきまでの楽しそうな二人は、私のことを考えていたのだ。



そう思うと、駄目だった。
二人から開いた距離を駆け出す。


私のこの退屈な、でも平和な日常はまだ続くらしい。
それはどうしようもないことだった。




こんな日常を私は愛しく感じてしまうんだから、本当にどうしようもなかったのだ。






「美香ちゃん」

私はスマホから目を上げた。晶人さんと目があう。

「あーうん、ごめん。返信に迷ってて」
「どうして?」
「うん。ちょっとね」

別に隠してる訳じゃない。晶人さんに話すにはくだらなすぎるだけ。

再び視線を落とした。楓からの長文は何の脈絡もなかったけど、要は昨日のアイスの件でのお礼とまた行こうというお誘いだろう。

私は心を決めて一言打った。



「“達也と行って”?」



「あっ晶人さん⁉」
いつの間にかこちらに回りこんだ晶人さんは微笑んだ。

「達也って、前に美香ちゃんが言ってた幼馴染みだよね?」
「そう。よく覚えてたね」


「美香ちゃんの言ったことなら全部覚えてる」


一見ただただ甘いだけの言葉なのだが、晶人さんにとってだけは、それは紛れのない事実だった。

そう私が分かってるからといって赤面しないことなんてないけど。

「で、達也くんは誰と何をしに行くの?」
なぜか目を輝かせる晶人さんを見て、私はそれから逃げるようにスマホを再び見る。

「………この文面が実現される確率は極めて低い」
「なんで?」
「私はこの文を送信しないから」
私は削除ボタンを長押しした。

ボタンってやっぱり人を駄目にする。一度言葉にしたことをなかったことにするなんてズルい。

でも、本当は分かってる。それを利用する私が、もとい人間がズルいのだと。

ボタンに罪はない。ボタンを生み出したのは人間の弱さだ。合理性を求めたなんて嘘。


この世は人間が弱いから創られたもので溢れている。
そして私もその恩恵を授かっている。


「秋限定、これが本当に送る文面」

「えっ、たった三文字でいいの?意味が分からないんだけど」
「うん。楓は分かんないだろうけど、達也は分かるから」


「………なにそれ?」
晶人さんが少し顔をしかめた。


「ふふっ」
「なっ、美香ちゃん?」
「うん。ちょっと晶人さんをからかってみた」

「えっ?」
「大丈夫だよ。私の言ったこと全部覚えてる晶人さんが、私のこと一番分かってるんだから」
私は堪えきれずにまた笑った。


そう。晶人さんは大人だし、余裕もある。その顔を壊したかった。



「___じゃあ、なんで秋限定が彼にだけ分かるの?」






「それが狙いだから。楓は分からなければ達也に聞く」
「あー、それって美香ちゃん恋のキューピッド?」


「私はそんないい人じゃないけどね」


恋のキューピッドは好きな人同士をくっつけるのであって、自分の都合で男女をくっつけたりしないと思う。


運命の女神様はそういうのが好きそうだけど。




私は今度こそ送信ボタンを押した。

「終わった?」
「うん」
「じゃあ一旦これ没収ね」
晶人さんが私のスマホをひったくる。

それを見た私は、ふと高校に合格した時のことを思い出した。

「………美香ちゃん、なにニヤニヤしてるの?」

ばつの悪そうな顔をしてそう聞いてくる。それがあまりにも可愛かったので、私は正直に答えてあげた。

「晶人さんがスマホ買ってくれた日のことを思い出してたの」
「あー」

それ以上は追及してこなかったのは、きっと私の考えていることが分かったからだろう。

でも、晶人さんをからかう材料を私はみすみす逃したりしない。

「私がスマホ欲しいって言ったら剣幕な顔してたよねー」
「それは___」

「スマホは美香ちゃんを駄目にするから買わない、だっけ?」

「そっ、そうだよ」
「でもさ、私が晶人さんとすぐにどこでも連絡できるから欲しいって言ったらさ、次の日の朝枕元に最新のスマホあるんだから、慌てん坊のサンタクロースもビックリだよね」

「美香ちゃん」
もう止めてと言わんばかりに私の名を呼ぶので、私はご飯をしている口に運んだ。今日のところはたくさんからかえたのでこれで満足だ。

いつもからかわれっぱなしではこちらも敵わない。これくらいの仕返しがちょうどいい。

「あっ!」
「ん、どうしたの美香ちゃん?」



「………例の件、まだやってなかった」





今度の展示会の作品とか楓とか達也とかのこと考えていたら、すっかり晶人さんのお願い忘れてた。

「あー」
晶人さんが困ったように笑う。

「美香ちゃんに頼むようなことじゃないし、大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない。急ぎなんでしょ?」
「えっと………まあ」
「ごめん。一週間以内に見つけるから」

そう言いきった私に晶人さんは複雑そうに頷く。 

「食べよう。ご飯冷めちゃうよ?」
「うん」

いつもの高級ホテルの地下、完全会員制レストランの小部屋で私たちは、二人っきりで夕食を美味しくいただいた。

「そういえばさ」
「うん?」
「イケメンってどのくらいのレベル?」
またからかってるのかと思われそうだけど、これは真剣な質問だった。

だってイケメンと騒がれている人も、所詮小綺麗に着飾っているだけで、顔は実はそんなにイケてない人だって結構いる。後ろ姿だけイケメンとか。

逆に言えば、目立たないがよく見ればイケメンっていう人だっているのだ。


「美香ちゃんが思うイケメンでいいよ?」


「………それって、晶人さんと似てる人連れてこいってこと?」
「あははー、やだなー美香ちゃん。そんな人連れてきたら泣いちゃうよ?」

「は?」


「美香ちゃんのオンリーワンでナンバーワンがいいからね」


出た。何を考えてるのか分からないほどの甘い言葉攻撃。

「晶人さんに聞いたのがバカだった」
「うん。そうかもね」
私のぼやきをふんわりと微笑むことでかわす晶人さん。

「ねぇ」


「うん?」
「そろそろ、本当の誕生日と何歳なのか教えてよ」


そんなことを聞くのは、この男のことを私は三年一緒に寝起きしていたのに、本当はほとんど何も知らないから。


でも、決して私が知ろうとしなかった訳ではなくて、

「えー。………やだ」

「やだって、なんで?」
「なんか」

知られることを異常なまでに晶人さんが嫌うからだ。
しかも、その理由さえ教えてくれない。

だから何度も不安になる。
五年前突然現れた晶人さんが、なぜ私を好きになったのか、好きでいてくれるのか、何の根拠もないから。好きと言うけど私の全てが好きってなんだろう?



私は全てを愛され、許されるほど綺麗ではない。