「じゃあさ、浮気はやめたってこと?」
突然、霧蒼がそう言った。私は首をかしげる。
「浮気?」
「笹本達也、そいつとデートの予定じゃん」
私は霧蒼がそう言ったことに驚いて、ハンバーガーをモシャモシャしながら目を見開くはめになった。
「なんで知って………?」
「クラスで堂々宣言しといて、なんでって。わざとじゃなかったの?」
そう言われて、あの時の状況を思い出した。
そう言えば、躍起になっていて、周りは全然気にしていなかったような気がする。いつだったか達也が私の彼氏なのではと霧蒼は疑っていたし。
「…その場の思いつき?」
「思いつきで浮気するの?」
珍しくよく食いついてくる霧蒼に、私は苦々しく誰にも言ってないことを、口にする。
「___どっちかって言うと、浮気を止めるため?」
「なにそれ?」
軽く返してくる霧蒼。これ以上は答えられない。
「なんだろうね」
どこまでも曖昧な私に、霧蒼はわざとらしく肩をすくめて見せる。
「あっそう。………今日もあのマンションに帰るの?」
「あの?」
私はその質問に首を傾げる。
あのって、私のマンションに何かあったっけ?
「なんでもない。…きっと、ね」
「私、マンションって言ったっけ?」
「言ってなかったとしても、僕に隠し事はできないよ」
「まあ、そっか」
議員を追い落とす高校生に、私の住所くらい十秒もあれば分かってしまうのかもしれない。
「今日は晶人さんとの家に帰るけど」
その日の夜、私は晶人さんに久し振りに家へ呼ばれていたのだ。
今日の霧蒼のことも知りたいとか。
霧蒼は楽しそうに授業を受けていたわけでもなかったけど、今さら辞めるとかも言わなさそうだから、今日の霧蒼と言われても何を言えばいいのかはよく分からなかった。
塾が終わって霧蒼と別れた後、晶人さんの車で家に来た。
開けると、最後に来たときより少し散らかった家。
私はまず、たまっていた食器類を洗った。それを晶人さんが満足そうに見ながら、お酒を飲んでいる。
来てみると、霧蒼の話をしたいというのはついでだったことが分かった。
考えてみればそうだ。
晶人さんとは一緒にいる理由がある。
「そう言えば、霧くんとどうして知り合ったの?」
出し抜けに晶人さんが聞く。
「忘れた」
嘘だった。
あんなの忘れるはずがない。
あの夜、晶人さんがすぐ迎えに来てくれた。
不意にあの時覚えた違和感を思い出したけど、それがどうしてかだったかなんて、もう分からない。
「えー、イケメンとの出会いは忘れないものだよ」
「そう?」
そんなことを言い出した晶人さんは少し酔ってるのかもしれない。
でも、それが嫉妬なら、私を試しているなら、私は嬉しい。
ただし、それは罪悪感を伴う。
「そうだよ。あっ、美香ちゃん。もしかして僕との出会いも忘れちゃった?」
「どうだろ」
「曖昧だなー。まあ、僕は美香ちゃんに嫌われてたし」
「……嫌ってはいなかった」
「えっ、そうなの?」
「たぶんね」
ただ、あの頃は少し余裕がなかった。
今も、それほどあるわけではないけど。
「じゃあ、いつから好きになってくれてたの?」
その質問に私は狼狽える。
最近の晶人さんがなぜか甘えたモードなのは知っていた。
でもなんで、よりによってこんな時期に限ってそんな意地悪な質問するんだろう。
晶人さんが好きな私は、ズルい私でしかないのに。
「酔ってる?」
なんて誤魔化して、私はふと晶人さんに目を向けた。
そして、後悔する。
「酔ってるように見える?」
鋭い瞳の晶人さんに目があったから。
「………見えない」
「だね」
沈黙が場を支配した。
晶人さんと私の間に、こんな心地の悪い沈黙が落ちたのはこれが初めてだ。
「ねえ、僕が好き?」
「なに言ってるの……?」
「好きって言って?」
「__好き」
嘘じゃない。
でも、本当でもない。
所詮、私はそんなものしか持っていないのだ。
神様が私にふさわしいと言ってくれたのかもしれない。
全く、神様は皮肉屋だなぁ。
こんなのお似合いすぎて、否定できないじゃないか。
だから、私は神様のお望み通り、この手に確実にある唯一のものを愛そう。
「晶人さんが、私は好きだよ」
明明後日の夜、霧蒼が現れなかったら。
「大好きだよ」
「うん。僕も」
「待った?」
「待ってねえよ」
お決まりの台詞にお決まりの文句で返した達也は、私との待ち合わせ場所にポケットに手を突っ込んで立っていた。
「で、どこ行くんだよ」
そう言いながら、達也は自然と私に手を差しのべたつもりなんだろう。
でも、私は達也が約束の三十分前にはここに立っていて、右往左往していたのを知っている。
だから、今達也の心臓がバクンバクンと暴れているのが、私には見えるようだった。心なしかその差し出された手も赤いような気もする。
私はまた喜びと罪悪感に支配される。
これから、私は最初で最後のデートをするというのに、その手が愛しくて仕方がないのだ。
私は手を掴んでしまった。
こんな罪悪感は何度も感じてきたのだから、今さらだとそう自分に言い聞かせて。
「じゃあ、まずはね___」
明るかった外は、少しずつ暗くなっていった。
私は本日最後にして、目的の場所に向かうことにする。
「ねぇ、最期に美術展行きたい」
「は?んなもん、一人で行けよ」
「私の作品が飾られている。達也に見てもらいたい」
おかしなテンションに突入しかけていた私は、達也の腕にもたれてみる。
罪悪感なんて、今日の午前のうちに上限を越えて、ここまで来るとバカらしくなっていた。
「仕方ねえな」
達也はそう言うけど、なんだか嬉しそう。
でも、それは当たり前だ。
達也は私とずっとこういう時間を過ごしてみたかったはずから。
このぬるま湯のような日々が続けばいいのに。
なんて、一生言えないことだった。
「達也?」
「ん?」
「楓は好き?」
「まあな。いい奴だろ?お前もそう思ったから友達になったんだろ?」
「うん。そうだね」
「なんだよ。嫉妬か?」
「どうかな」
「なっ、否定しろよ。照れるだろっ」
終わりが近づいてくる。
怖い。嫌だ。やめたい。まだ、引き返せる。
笹本達也。
私を最初に拾ってくれた人。
それなのに、私は達也を諦めなければいけない。
怖い。嫌だ。やめたい。
まだ、引き返せ___ないや。
「着いちゃった。ここだよ」
美術展が開かれているビル。
「着いちゃったって、そんなに今日が惜しいのか?部活引退した身だから結構ヒマだし、またいつでも来れんだろ」
「それは、___達也しだい?」
「なんだよ、ムカつくな。美香こそ、俺に愛想つかされないように、な」
「………」
私は不覚にも黙ってしまった。
そうだねって返せば良かった。なのに、言葉が出てこなかった。
こんなやり取りは、今日一日中やってきたこと。
今さらだ。今さら過ぎる。
でも、この瞬間言葉よりも先に、思ってしまった。
愛想つかされるなんて、冗談キツい。
達也の言う“また”なんて、きっともうないのに。
それが、私が好きになった絶対的正義の達也だから、仕方がないんだけど。
ないんだけど。
「美香?」
「入ろ」
口早にそう達也の腕を引っ張る。
まだ、あの絵の前に立つ前までは、言えない。
「花」
受付に座っていた花に私は声をかけた。この美術展では作品応募生徒が運営をしている。
「チケット二枚」
「はい。一人三百円ね」
さすが、高校生が描いた絵だけに、値段はリーズナブルである。
「ありがとう」
「うん。___二人はデート?」
「うん」
そう答えた時、一瞬だけ花の目がこちらを睨んでいるように見えた。
「そっか」
そう花が頷くまでのほんのちょっと。
でも、気のせいではないと思う。
背筋が少しゾクッとしたから。
全く知らなかったけど、花も達也のファンなのかもしれない。
「ほら、行くぞ」
達也が言う。
花がもし本当に達也のファンだとしたら、申し訳ない。
だが、これだけは譲れない。
今日は、今日だけは、達也は私だけのものだ。
私は達也の腕をなんの躊躇いもなく掴んだ。
「俺に感想求めんなよ。絵のことなんて分かんねえからな」
絵を見る前に先手を打とうとする達也に私は笑う。
「意味ない」
「んなこと、言われたって」
「じゃあさ、代わりに質問に答えてよ。イエス、ノーでいい質問だから」
「意地悪な質問すんじゃねえぞ」
「うん」
私は頷いた。
とっても意地悪な質問を、私はこれからするんだと思う。
「ほら、これ」
目の前の作品を私は指差した。
「窓?」
「正解だよ」
「なんで窓なんだよ?」
「なんとなく?」
「ふーん。まあ、どうでもいいけど。なんか窓の外は妙に綺麗だな。なんつーか、カラフルで」
「達也、分かるんだ………」
「なっ、なんとなくだけどな」
「いや、窓の外の景色はさ、私の絶対的正義がモデルなの」
「絶対的正義?」
「うん」
私は終わりを告げた。
「今日は、その絶対的正義の話をしようかと思って」
「俺、寝てていい?」
「ダメ」
「道徳とか苦手なんだよ」
「道徳じゃない。私の中の達也の話」
「へ?」
「絶対的正義、達也くんについて私は語りたいの」
「なんだよ、急に」
「でね、これを達也が聞いた後、一つ、イエスノークエスチョンがある」
「は?」
私は息を吸う。
本当は叶わないことなんて言いたくないけど、仕方がない。
「その質問に達也が答えるなら、私は達也と付き合いたい」
こんな叶わない願望、汚れた願望、私は言いたくなんてなかったよ。
ほら、何も知らない達也は笑ってるんだ。
いつもそう。
この関係に終わりがあるなんて、多分微塵も思ったことがないんだね。
「なんだよ。めんどくさいな。………あーもう、聞いてやるよ。道徳とかじゃないんだったらな」
「ありがとう」
私も笑おう。
私に涙はいらない。