日常ほど愚かしいものはない。
それと等しく、日常ほど愛しいものもない。



___ 第一章 日常の色(side東城美香)






昨日も今日も、そして明日も、窓際に座る彼の日常は変わらないんだと思う。


そんな退屈なだけの日常は飽きた、変化が欲しいと多くの人は望むけれど、そうもいかないのがこの世の中というものだ。

変わりたいと望む人こそ、その日常に反抗することなく生きている。

それが私の十七年間の結論だ。

そんな臆病なだけの人間はつまらないだろうか。つまらない人間は世界の立役者にはなれないのだろうか。

そんなの知ったことじゃない。
けど、どちらにせよ、彼もきっとそんなつまらない人間の一人。

私がそう決めつけた。

だって、大抵の人間がそういうつまらない人間だから。決めつけてしまっても仕方のないことでしかないでしょう?

それに私は知ってる。
私もそういうつまらない人間だって、分かってる。
自分だけは違うなんて思ってない。

だから、彼がつまらない人間だからって優越感に浸ることもない。

でも、窓側の席に座るその彼が邪魔ではあった。よく知りもしない相手にこんなことを思っているのは、どうなのかと自分でも思う。

しかし、思っているだけは無料な訳だ。

私だってバカじゃない。
だから、担任の先生に席替えをすることを提案したりはしない。

窓が見えづらいから席替えをしたい、なんて言ったら、変人に思われるに決まってる。


そうしたら、変わることのないはずの日常が変わってしまうかもしれないから。


だからそんな馬鹿な真似はしない。


そう考えると、きっと私も無口な窓際の邪魔なだけの彼と何も変わらないでしょう?



授業中、ついそんなことを考えてしまった。
そんなんだから私はつまらない人間なのだろう。


ここで一つ、いきなり大声で君が代を歌って見せれば、あるいは先生のハゲ頭にタッチして見せれば、世界は変わるというのに。




でも、私が私である限り、私のつまらなさは埋まらないのかもしれない。


どうすれば私のつまらなさは変わるのだろう?


この答えだけは、十七年間探し求めてもまだ見つけられずにいる。




静かな教室に七時間目終了のチャイムだけが響いた。




「美香っ、今日あいてるー?」


視線を前に戻さなくても、満面の笑みを浮かべた楓がこちらを期待の目で見ているのは分かっている。

私もそれに答えるべく、楓と視線を一瞬合わせた。

「うん。あいてない」

平淡なその声には少しの罪悪感も含まれていないようにも感じるが、すぐに外してしまった視線が私の少ししかない後ろめたさを楓に感じさせたのだろう。

「じゃあ、明日は?」

私の机に手を置いて、勢い余ったのかこちらに乗り出してそう聞いてくる。

全く、諦めの悪い。

「あいてない」
「明後日っ」
「あいてない」

そのあまりのしつこさに私の後ろめたさは消えていく。残るのは面倒くささ。

「そんなに美術部って忙しいのー?」
「んなわけねーじゃん」

楓のしつこい質問に答えたのは、私ではない。

「達也くん」

楓には見えていて、私の後ろに立っているであろう達也だ。

「聞いてよ。美香が遊んでくれない」
「いつものことだろ」
「そうだけど」

言葉を切って頬を膨らませてみせる楓。私は何気なくそんな二人に向けて提案する。


「じゃあ、達也と行ってくれば?その新しく出た夏限定のアイスクリームを食べに」


「は?何言ってんだよ。週一しかない美術部と違って、バスケ部は年中無休なんだよ」
「えっ………週一?」

目を見開いた楓。私はため息をつくのを我慢して、その代わりのように達也を睨み付けた。

「なんだよ、事実だろ?」
「裏切り者、世の中言って良いことと悪いことがある」
「…美香。お前、その台詞は自分のために使うもんじゃねーよ」

私の答えに達也はそう笑いながら、お手上げとでも言うように両手を上げて見せる。

私は達也にもう一言返そうとした。

「__ねえ美香、ホントなの?週一って」

私は顔を伏せている楓が珍しく静かな口調なので、楓が本気で怒ってるのだと思った。

「………だったら?」
私が曖昧にそう返す。



「じゃあさ、じゃあさ一緒に行こうよー」

ばっと顔を上げてそう言った楓に私は軽く引いた。


それはそれは、とても嬉しそうに。


てっきり騙していたことで、怒られるか気まずくなるかのどっちかだと思っていたから、この反応には拍子抜け。

本当に楓は甘いというか、なんというか。
とにかく今日は完敗だ。



そう、私が楓に負けるのは大抵こんな時だ。

怒るという感情も行動もどこかに置いてきたような、そんなところが楓にはあって、それに毒気を抜かれた時、全てがどうでもよくなる。



「ね、駄目?」
「………土曜の一時半、学校集合で」



渋々といった風に、でも少しだけ勝手に上がる口の端は隠しきれずに日時を決める私。
でもそうできるのは、楓が断らないことを知っているかに過ぎない。



可哀想なことに楓に私より優先したいことなどないのだ。


そしてなんだかんだ言っても、そんなバカな楓を私は相当気に入ってるんだと思う。

私はご都合主義だから。

「良かったな、楓」

そう言って達也は部活バックを肩にかけた。部活に向かうのだろう。
だが、私は敢えてその足をとめる。

「いや、達也もだから」

達也がこちらを返り見た。顰めっ面をしているつもりなんだと思うけど、ニヤついた口許は隠せない。私の表情筋も更に緩む。

「だと思った。なんで土曜が部活午前だって知ってんだよ?」

達也が一生懸命怪訝そうな声を出しているのが分かる。だが、残念なことに隠しきれない嬉しさが溢れ出ていた。



“なんで知ってんだよ”は裏を返せば“そんなに俺が好きか”と聞いているのだ。



「さあ?」

私の答えは答えでもないような差し障りのないものだったけど、達也はそれで満足した。機嫌良さげに仲間と部活に向かってく。そんな背中が可愛い。自分の頬が緩む。


ときどき達也や楓を見ていると、実は彼らの方が私なんかよりもずっと自分のご都合主義なんじゃないかと思う。

なんでもかんでも、自分のいいようにしか物事を解釈しようとしないから。


「あー、楽しみだな」
「じゃあ」
「うん、また明日ね」


楓の満面の笑みに私はただ手を振ってみせた。



楓が気づいているかは知らないが、私がまた明日という言葉に返事をしたことはない。明日、私達が変わらない毎日を一緒に過ごしているとは限らないから。

だから、私はこの手の約束はあまりしたくない。




あまり、というだけで例外はあるけれど。


教室から真っ直ぐ私が向かうのは美術室だ。


別に今日がたまたま週一回の部活の日だということでもない。けど、達也が言ったことが間違っているわけでもない。


「おはよう」

美術室のドアを開けると黄昏をバックに筆をキャンパスにあてていた少女が一人、こちらを向かずにそう言った。


「おはよう、花」

普通の時間を考えれば、随分とずれたような挨拶だけど、私たちはこんにちわとかこんばんわを使わない。なんとなくおはようございますみたいな、他人行儀な堅いものを含んでいるからだ。



私たちの挨拶はおはよう。
そこには私たちの空間がある。



でも、それはあくまで個々の空間であり、時々交わるだけのこと。

それはさっきのおはようみたいな、ほんの一瞬のこと。




「美香はほとんど出来たんじゃなかったっけ?」


おはようから二十分くらい経った時、突然思い立ったように花が言った。実際、突然思ったことなのだろう。


「窓が見えづらくて」
私は正直に答えた。別に隠すほどのことではない。

「窓の外?」
「いや、窓が」
「なんで?」
「邪魔なの、彼が」
「彼?」
「名前は知らないから、彼」

クラスメートの名前を覚えていないことを明かすのも、花だったら苦にならない。

だいたいクラスも違うから、知られても大した害にはならないのだ。



そうやって、私の変わることのない毎日は今日も守られている。



「そっか」

花はそう言ったきりまた自分の空間に戻った。ほんの束の間の共有空間があっけなく崩れる。


だが、窓が見えづらいという言葉をすぐに理解してくれた花は、やはりさすがだと言わざるを得ない。