本心からそれを望んでいるとは思いたくないが、全く望んでないなら手紙なんてものも残さないだろう。
生きていくことを楽しめと言ってるのか。
辛さだけを背負って生きるなと言いたいのか。
「だけど、千恵、俺は怖いんだよ……」
また誰かを失うんじゃないかと思うと怖い。
絶望感に襲われて、今度こそ立てなくなるんじゃないかと思うと恐ろしい。
もうあんな思いはしたくない。
好きだと思う女を助けられなかった、そんな自分を思い知るのが嫌だ。
そんなことになるくらいなら、最初から恋なんてしない。
例えどんなに好きな人が現れても、一人で生きていく方が気楽だ。
幸いにも俺には真央がいる。
あの子がいれば、俺は十分幸せな気分でいられる。
あの子のことだけを見て考えるだけでいいんだ。
それ以外はどうでもいいんだから。
涙に暮れながら手紙に目線を落とした。
揺らめく視界の中に千恵の書いた文字が映っている。
『未来は貴方の為に使って下さい。……………さよなら、私の恋人。』
「……さよならなんて言うなよ…まだ三年しか経ってないのに……っ!」
ドン!!と拳でテーブルを殴った。
千恵への八つ当たりでも、不甲斐ない自分への後悔でもない。
ただただ、時間が経っていくのが悔しくて。
何もしなくても、周りが変わっていくことが寂しくて。
誰にも頼らず、誰のことも当てにせず生きようとしてるのに、周りからは色々と手を貸されることが切なくて。
その度に自分一人では生きていけないのだと教えられて。
認めたくないけど、甘えたくなる自分がそこに居る。
父親なんだからもっとしっかりしなくてはいけない。
親は俺だけなんだから真央のことをずっと見ておかなくてはいけない。
そう思えば思うほどウンザリする気持ちも何処かにあって、それに支配される日が来るのではないかと慄くことだってある。
素直に助けられることも出来ずに、ぶつけられる気持ちからも逃げ出そうとする。
俺では誰も幸せにすることなんて出来ないから。
たった一人、愛した女性でさえも守れなかったのだから……と。
「……っうう……」
漏れ出た嗚咽に慌てて口を塞いだ。
こんなに涙が溢れた日など、千恵の葬式以降なかったのに。
激しく流れ出てくる涙に、ガクッと身体中の力が抜け落ちる。
これ程までに俺を泣かせるなんて、千恵……お前しかいないよ。
「どうして俺を独りにしたんだよ……千恵……」
呪っても恨んでも過去は戻って来ない。
二度と会えないからこそ、鳴らなくてもいいけどピアノを側に置いておきたかった。
「だけどお前はそれさえも売り捌けと言うのか。俺の気持ちなんて、どうでもいいと思うのか……」
恨み言を呟いて夜は更けた。
朝まで散々泣いて、泣き疲れたまま眠りについた……。
「何かありましたか?」
頭の上から降ってくる声に虚ろな目を向けた。
耳にストレートヘアを引っ掛けた横山が、心配そうな眼差しで見つめてる。
「……いや、何も…」
目を逸らせて答えると、デスクの前に立つ彼女は怪訝そうに首を捻った。
けれど、何も言わずに俺に確認書類を手渡した。
ボンヤリと手渡された書類に目を通す。
字面は見えているが、頭の中は思考してない。
取り敢えず誤字や脱字はないな…と判断し、書類の束をデスクに放った。
(……はぁ…)
声を漏らさずに胸の中で息を吐く。
土曜日に散々泣いて眠った翌日から頭がぼぅっとして働かない。
今朝もベッドから蹴落とされたというのに、どこも痛いとは感じなかった。
まるで五感を何処かに置き忘れてきた様な感じだ。
痛みだけでなく全ての感覚が鈍い。
その証拠にいつの間にか昼休みになった。
食べたくもないが弁当箱と水筒を持ち、席を立つ。
母には悪いが、今日はこのまま食べずにいよう。
庶務課を出てエレベーターの前を通り過ぎて屋上へ向かう。
日差しを浴びたい。
浴びればもう少しシャキとするかもしれない。
コツ、コツ…とゆっくり階段を上りつめ、外へ出るドアノブに手をかけた。
「課長…」
ビクッと声に反応する。
ちらっと振り向けば、やっぱり彼女だ。
「どうした?」
腑抜けた声を発する俺に近寄り、言い出しにくそうに口籠もった後、やっぱり言おうと決めたのか、唇を開いた。
「あの……どうかしたんですか?」
朝と同じく心配そうな顔つきだ。
俺の様子がおかしいと、ずっと様子を見てたのだろうか。
「何もないよ。横山さんの考え過ぎ」
ドアを押し開くと眩しい光と熱を感じる。
その光の中に飛び出し、熱によって溶けてしまいたいとさえ思う。
「…待って下さい!」
ガシッと腕を握って止められた。
驚いて振り向けば、間近に横山の顔があった。
目を見開いて必死な表情をしている。
彼女の方こそ何かあったのではないかと思うような顔つきだ。
「…横山さん?」
声をかけるとハッとして、どうやら我に戻ったらしい。
ぎゅっと握られてたワイシャツの袖を離しそうになり、それでもやっぱり離さずにいた。
「課長……此処でお昼ですか?」
今日は特別暑いですよ、と言われ、ああ、そうだな…とドアの隙間を見つめる。
揺らめくセメントの上には陽炎が立ち、軽く四十度以上はありそうな気配だ。
「今日は社食に行かれては?熱射病にでもなりそうですよ」
五感を失ってる俺を気遣うように問われ、答えずに目を外に向けた。
「課長…?」
再び横山の声が耳に入り、その声に振り向いてみた。
ホッとする顔が可愛かった。
大人なんだが、幼いようにも見える。
俺よりも十歳近く年下だった。
そう言えばそうだった…と思い出した。
「横山さんはどうして此処へ?」
言わずと知れたことだ。多分、俺を追って来たのだろう。
「私は杏梨ちゃん達と社食へ行こうとしてたんです。だけど、課長がぼうっとしたまま屋上へ向かうのが見えたから」
「それで?…追って来た?」
「はい。気になって」
真っ直ぐと目を見てそう言った。
掻き毟られるような感情が胸の奥から湧き出し、ドンと肩を押していた。
よろめいた彼女の体が九十度回転し、ドア側の壁に背中がくっ付きそうになる。
その両肩を握りしめ、壁に押え付けるようにして止めた。
ビクッと彼女の肩が竦み、眼差しが俺のことを直視する。
「……か、課長…?」
声が少し震えてる。
それが堪らなく色っぽい響きに聞こえる。
「…どうしてそんなに俺のことを追ってくるんだ。君はまだ若くて誰でもいい男が出来るだろうに」
そう言いながら髪の毛を掬い上げ、くるくると指先に巻きつける。
「好んで俺みたいな寡を選ばなくてもいいんだよ。もっと優しくて君を満足させてくれる相手を選べよ」
そう言いながらも顔を近づけ、彼女の頬を触った。
千恵が亡くなってから初めて他の女性に手を触れた。
「…温かいな。若くて、本当に綺麗だ…」
ドクン、ドクン…と胸の音が加速する。
心の何処かで止めろと叫んでる声がするが、気のせいだろう。
「俺で良ければ一晩くらいなら相手をしてやってもいいよ。横山さんは俺のことが好きなんだろうから」
どんな顔でそれを言ったのかは謎だ。
けれど、横山葉月は不快に満ちた目で見ていた。
「なんだ、その顔つきは。もしかして嫌なのか?」
そんなことないだろう…と笑えば目を背ける。
そんな態度を取られると余計でもおかしな気分に陥るーー。
頬に当てていた指先を動かし、顎を掴んで振り向かせた。
ビクッと震える彼女の顔を眺め、支配したい気分に襲われた。
「……君の願いなら……叶えてやるよ…」
そう言うと唇を奪った。
彼女は咄嗟に口を閉じて抵抗を試みたが、それを舌でこじ開けた。
抑え込んでる肩にも力が入り、首を左右に振り回そうとする。
「……んっ…う…っ…」
止めて、と言いたそうに声を漏らすが、それが返って俺を煽った。
何度も角度を変えて吸い付き、三年以上ぶりに味わう唇の柔らかさと口腔内の甘さに完全に酔い痴れていた。
最早、相手が誰だったかなんて、そんなもの何処かにぶっ飛んでいたーーー。
「や……めっ……て……」
やっと声を出せた横山は、ドン!と両手で突き飛ばした。
後ずさった俺との距離は彼女の腕の長さに匹敵している。
頬を上気させ、荒く息を弾ませたままで俺を見定める。泣き出すことも出来ずにその場所に突っ立っていた。
こっちはその顔を眺め、何が起きた…?と振り返った。
目を見開いて震える彼女を見て、初めて自分が犯した行為を思い出した。
とんでも無いことをしたんだと気づき、声も出せずに立ち尽くす。
俺のことを見つめたまま黙ってた横山は一粒涙を零し、それを機に一気に溢れ返った。
睨み付けてくる彼女の表情が歪み、何も言わずに走り去った。
それを追うことも出来ず、俺はその場所に崩れ落ちた。
(……どうしたんだ。……何故あんなキスを彼女に……)
唇を手で覆って愕然となった。
間違ってもしてはならないことを、俺はやってしまったのだ。
座り込んだ床の下から彼女の走り去る足音が聞こえてくる。
誰もいなくなったその場所で、俺はまた独りになった…と確信したーーー。