「あ、あの時とは状況も立場も違うわ。タクシーで帰ります。」

明らかに動揺してるな、私。

ようやく、ショウヘイの眼差しから逃れる。

「そうだよな。泊まったってオーストリアの時のように何もないって思ってるけど、あの時とは明らかに俺達の関係性も変わってきてる。俺も自制がきかないかもしれないもんな。」

自制がきかない?

いやだ、何言ってんの、この人!

心臓がバクバクしていた。

バクバクする胸を必死に押さえながら、食べ終えたお皿と缶ビールを持ってお茶室のごみ箱に捨てにいく。

その時、

「すみませーん!どなたかまだ残っておられますかぁ-?」

フロアの入り口の方で声がした。

守衛さんが最後の見回りに来たようだった。

「はい!今出ます!」

私は慌てて座席に鞄を取りに行きながら叫んだ。

「電気消すぞ。」

「はい。」

彼は人事部フロアの電気のスイッチを押した。

一気にフロアが真っ暗になる。

非常灯の緑の光だけがぽつんぽつんとフロアに点在していた。

ショウヘイの顔がうっすらとしか見えない。

「こっちだ。」

暗闇で足取りが重くなっていた私の手首を彼がぎゅっとつかんだ。

あの時と同じ。

見た目よりも厚くてがっしりした指。

そしてそのまま強引に引き寄せられる。

彼の体温が自分の目の前にあるのを暗がりの中で感じていた。

ん?なに?

不意に唇にやわらかくて温かいものが触れた。

それが何なのか一瞬わからなくなる。

わからないと言えば嘘だ。

何となくわかってた。

ぎゅっと手首をつかまれたその時から、こうなるだろうって。

ショウヘイの唇が私の唇を優しく塞いでいた。

抗おうと思えばいくらだって抗えたのに。

できなかった。

そのまま、私は彼の背中に手を回していた。

「まだですかー?」

守衛さんの声が私達二人の頭上を通り過ぎていく。

息苦しいほどの長いキスだった。

ゆっくりと彼の体が離れていく。

まだ離れたくないって思いながら、私も彼の背中に回していた腕をほどいた。

「・・・行こうか。」

彼の表情まではわからなかった。

ゆっくりと歩く彼の後姿を見つめながら、暗闇に紛れてしまわないように着いて行く。

どうして、彼が急にそんなことしたのかもわからない。

オーストリアで、あれだけ二人で夜を過ごして一度だってキスもしなかったのに、どうして今日だったのか。

だけど、そんなことはもうどうだってよかった。

始まっちゃいけない何かが始まってしまった。

彼の気持ちはわからないけど、少なくとも私の気持ちは動き出してしまった。


会社のビルを出ると、彼は何も言わずタクシーを拾って、一万円を私に握らせてくれた。

「おやすみ。」

それだけ言うと、振り返りもせず駅に向かって行った。

やっぱり私、振り回されてる?

愛しい彼の背中を見送りながら、熱く火照った唇をそっと押さえた。

「また借りが一つ増えちゃったじゃん。」