「お兄ちゃん!ママがご飯作ったって!」
ボーッと立っていた俺の手を引っ張る杏。
いつもの夕食は俺が買い物をして作ることが多い。朝食は母さんが夜遅くに買って帰ってきたり、作ったりしてくれている。
だから、母さんの作った夕食を食べるのは久しぶり。
少し浮かれながら手を洗って席に着く。
俺と杏のふたりだけではかなり広い食卓。こんな生活が当たり前になったのはいつからだっただろう。
俺だっていつも忙しい母さんのことが心配だし、少しは寂しい気持ちもある。
それでも耐えられるのはそれが仕方ないことだと知っているから。
でも少しだけワガママを言ってもいいのなら、俺は家族で新しい思い出をつくることを望むよ。
久しぶりに食べた母さんの夕食は、なんだかあたたかかった。
「あのっ……デ、デート行きませんかっ」
そう提案してきたのは小谷さん。
去年よりも短く感じた夏休みはあっという間に終わり、新学期が始まった。
今はそれから1ヶ月が経ち、少し肌寒くなってくる10月。制服の上から薄手のコートを羽織る小谷さんと下校中。
俺が渚と一緒に帰ろうとしていると。
『広瀬くん、一緒に帰りませんか?』
彼女が後ろからそう言って追いかけてきた。
渚は空気を読んで先に帰ってくれたみたいで、俺達はこうして一緒に下校している。
確かにいつもとは違う緊張感が漂っているとは思っていた。でもまさか、女子からデートに誘われるなんて思ってもいなかった。
彼女は今も俯いて俺の返事を待っている。
「うん、いいよ」
いつもは大胆とは言い難い彼女が俺のために言ってくれたんだ。
こんなに想ってもらえるなんて幸せだな。だから俺も好きになる努力をするんだ。
自分を、そして彼女を傷つけないためにも。
「えっ、本当ですか……?」
顔を上げた彼女は信じられなさそうに瞬きをしている。きっと俺が断ると思っていたんだろう。
「本当だよ。今週の土曜日でいい?」
俺は笑顔でそう返した。彼女を不安にさせたくはない。
落ち着きがあって、それでいて一途な人になんて、なかなか出会えないよね。
そんな子が俺のことを好きになってくれたんだ。今は無理でも、いつかはその気持ちに応えたい。
「はいっ、ありがとうございます」
久しぶりに見た満面の笑み。それをもっと見ていたいと思った。
そう、また星那の顔と重なって、ずっと笑っていてほしいと思ったんだ。
「あれ?」
ふと驚いたような声をあげる。気になってその視線が向く方向を見てみると、そこには矢代さんがいた。
しかもその動きは不審で、何かから隠れるようにコソコソと歩いている。
「えっと、矢代さん?」
「へっ!?」
後ろから近づいて声をかけると、彼女はまるでカエルのように飛び跳ねた。
そんなに驚かせてしまうなんて。少し反省しながらも小谷さんと揃って矢代さんを見つめる。
「なんだ、千佳と広瀬くんかぁ」
驚かさないでよ、と彼女はおどけて笑う。つられて俺も笑ったけど気になるのはそこじゃない。
どうしてあんなに怪しい行動をしていたのか。その答えは彼女の少し前を歩くふたりにあった。
「これ、見てよ。悠大くんが笑っているお宝写真!」
すごいでしょ、と彼女は腰に手を当てて見せびらかす。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……。
「星那と江崎くん、か……」
彼女の持つ写真には、笑顔の江崎くんとすました顔で笑う星那が写っていた。
大丈夫、大丈夫。ふたりが一緒にいるところを見たってもう怖くない。
それよりも頭に浮かんだのは、やっぱりふたりはヨリを戻したんだ、ということ。
江崎くんが女遊びをやめた理由もきっと星那にあるんだろう。
星那もずっと江崎くんのことが好きだったわけだし、ふたりがまた付き合うのは当たり前のことだよね。
それなのにどうしてこんなに胸が痛むんだろう。今の俺には関係ないのに、どうして……。
結局ふたりには話しかけずに、小谷さんを家へ送り届けてから帰った。
その間も悲しげに隣を歩く彼女のことは見えないフリをしていた。
◇◆◇
「小谷さん、待たせてごめん!」
今日は約束の土曜日。そう、小谷さんとのデートの日。
宿泊学習のときに付き合い始めたから、もう付き合ってから3ヶ月くらい経っている。
でも、俺達は1度もデートをしたことがなかった。
夏休み中に会ったりすることもあったけど決まってそれは4人でのときだけ。
俺と彼女のふたりだけで会ったことはまだあまりない気がする。
「いいえ、大丈夫ですよ」
約束は1時。俺も少し着くように出たはずなのに彼女はその前に来ていた。
何分前からいたんだろう。かなり待たせてしまったのかな。そう思いながらもふたりで並んで歩きだす。
離れたり触れたりする肩の距離。落ち着かないと思いながらも、彼女に合わせて少しゆっくり歩く。
「あの、広瀬くんっ……」
緊張しているのか少し上ずった声で呼び止められる。赤く染まった顔はなんだか可愛く見えた。
「手繋いだらダメですか?」
絞り出された言葉に少し驚いた。デートをして手を繋ぐ。それはきっと普通のことなんだろう。
それに俺達は付き合っている。別に繋いでいたって不思議ではない。
「ダメなわけないよ」
彼女の手を引き寄せてぎゅっと握る。秋風に触れていた手は少し冷たかった。
繋いだ手の指をそっと絡める。そう、いわゆる恋人繋ぎをする。
「その代わり俺からもお願いがあるんだけど」
そう言うと、彼女はなんですか?と言いたげな顔で俺を見つめる。
不思議な感覚がする。星那以外の人と手を繋ぐ日がくるなんて。
「敬語はやめてよ。他人じゃないんだし」
ずっと思っていた。矢代さんにだけはタメ口だけど俺や渚の前では敬語なんだな、って。
そんなところが彼女のいいところだとは思っているけど、少し寂しいのも事実。
友達としてもなんだか信頼されていないみたいで嫌だ。特に関わりがない他人のように思ってしまうから。
「そ、それは無理ですっ」
彼女はかたくなに拒否をする。きっと男子とタメ口で話したことはないんだろう。
教室でも俺や渚以外の男子と話しているところはあまり見かけない。
「じゃあこの手離すよ?」
少し意地悪にそう言うと、彼女は肩をすくめて曖昧に笑った。
「そ、それは……。わかった、もう敬語はやめ、る、ます」
知らない間に敬語が癖になってしまっていたのか、なんだか言葉がおかしいけど。
必死にタメ口で話そうとする彼女は微笑ましかったからこれで良しとしよう。
それからも小谷さんは慣れない話し方に苦戦しながら会話を繋いでくれた。
あっという間に目的地に着いた。
「わぁっ、綺麗……」
ここは植物園。この空間は温室で寒さに弱い植物も関係なく生えている。
前に1度『植物が好き』だと話したことがある。そのときは確か彼女も『花を見るのが好き』と答えてくれた。
その会話を覚えていたのだろう。提案された行き先は植物園だった。
あたたかいところに立つ高い木。ある決まった条件のところにしか生えない花。それらを彩る草。
全てのものが美しく浄化されているように見える。