「今のって……」
江崎くんが去っていった後、ふたりきりになった俺達に訪れた沈黙。
別に気にすることなんてないのになんだか気まずい。それは彼が星那の元カレだからかな。
「あぁ、うん。ごめんね、気にしないで」
少しそっけなく言ってしまったかな。口に出してから後悔してしまったけど、他のことは考えられなかった。
どうして俺に話しかけてきたんだろう。
宿泊学習の夜のことがあったから?小谷さんと付き合ったから?考えを巡らせるけど答えは見つからない。
少しぎこちないまま彼女を家まで送り届けて家路を辿る。
「ただいま」
心は晴れないけど息を吸って家へ入る。
誰もいないだろう。そう思って玄関のドアを開けたけど、今日に限って部屋の電気がついていた。
「迅、遅かったわね」
リビングのドアから顔を覗かせると母さんの姿があった。杏は静かだからきっと勉強でもしているんだろう。
「母さん、帰っていたの?」
いつもは仕事ばかりで、帰ってくるのも遅くて会えないことが多い。だから杏はいつもひとりで俺の帰りを待っている。
「違うわ、忘れ物を取りに帰ってきただけ。またすぐに戻るわ」
「そっか……」
なんだ。きっと仕事関係のことだとは思っていたけど、俺達のために休みをとって帰ってきたわけではないんだ。
その言葉通りじんわりと汗を浮かばせながらも何かを探している。
「杏、入るよ」
小学生になってからできた杏のひとり部屋。ノックをしてから入るとやっぱり机へ向かっていた。
「お兄ちゃん!」
そして、俺が入ってきたことに気づくとパッと顔を上げて近寄ってきた。
その顔は、勘違いなんかじゃない。とても嬉しそうな顔をしている。
「ママ、帰ってきたよ!」
あぁ、杏のこんなに弾けた笑顔を見たのはいつぶりだろう。
俺達にとっての休日だって母さんに休みなんてなくて、いつもふたりで過ごしていた。
俺は夜遅く寝たときや朝早く起きたときに母さんに会うことはあったけど、杏は違うんだ。
母さんの顔を久しぶりに見て、喜ぶのも無理はない。
それからリビングへ戻ると、ちょうど母さんが家から出ていくところだった。
「あのさ、母さん」
返事はなかった。でも、ピタリと止まった体はきっと俺の話を聞こうとしてくれている。
「今度3人で出かけられないかな」
無理なお願いだってそんなことはわかっている。それでも杏と約束したんだ。
もう泣いている姿は見たくない。小学2年生離れしているけどまだ子供だし、俺の妹という事実に変わりはないから。
「……考えておくわ。でも期待しないで」
それだけ言うと母さんはリビングから出ていった。俺達を残して玄関のドアに鍵をかける音が聞こえる。
「……ありがとう」
行ってらっしゃいの代わりにありがとうとふたりだけのリビングで呟いた。
俺は知っている。母さんが俺達のために身を粉にして働いてくれていること。
そして、俺達のことを大切に思ってくれていることも。
だから一緒にいられる時間が少ないのも仕方ないと思っている。それはきっと杏だって同じ。
「お兄ちゃん!ママがご飯作ったって!」
ボーッと立っていた俺の手を引っ張る杏。
いつもの夕食は俺が買い物をして作ることが多い。朝食は母さんが夜遅くに買って帰ってきたり、作ったりしてくれている。
だから、母さんの作った夕食を食べるのは久しぶり。
少し浮かれながら手を洗って席に着く。
俺と杏のふたりだけではかなり広い食卓。こんな生活が当たり前になったのはいつからだっただろう。
俺だっていつも忙しい母さんのことが心配だし、少しは寂しい気持ちもある。
それでも耐えられるのはそれが仕方ないことだと知っているから。
でも少しだけワガママを言ってもいいのなら、俺は家族で新しい思い出をつくることを望むよ。
久しぶりに食べた母さんの夕食は、なんだかあたたかかった。
「あのっ……デ、デート行きませんかっ」
そう提案してきたのは小谷さん。
去年よりも短く感じた夏休みはあっという間に終わり、新学期が始まった。
今はそれから1ヶ月が経ち、少し肌寒くなってくる10月。制服の上から薄手のコートを羽織る小谷さんと下校中。
俺が渚と一緒に帰ろうとしていると。
『広瀬くん、一緒に帰りませんか?』
彼女が後ろからそう言って追いかけてきた。
渚は空気を読んで先に帰ってくれたみたいで、俺達はこうして一緒に下校している。
確かにいつもとは違う緊張感が漂っているとは思っていた。でもまさか、女子からデートに誘われるなんて思ってもいなかった。
彼女は今も俯いて俺の返事を待っている。
「うん、いいよ」
いつもは大胆とは言い難い彼女が俺のために言ってくれたんだ。
こんなに想ってもらえるなんて幸せだな。だから俺も好きになる努力をするんだ。
自分を、そして彼女を傷つけないためにも。
「えっ、本当ですか……?」
顔を上げた彼女は信じられなさそうに瞬きをしている。きっと俺が断ると思っていたんだろう。
「本当だよ。今週の土曜日でいい?」
俺は笑顔でそう返した。彼女を不安にさせたくはない。
落ち着きがあって、それでいて一途な人になんて、なかなか出会えないよね。
そんな子が俺のことを好きになってくれたんだ。今は無理でも、いつかはその気持ちに応えたい。
「はいっ、ありがとうございます」
久しぶりに見た満面の笑み。それをもっと見ていたいと思った。
そう、また星那の顔と重なって、ずっと笑っていてほしいと思ったんだ。
「あれ?」
ふと驚いたような声をあげる。気になってその視線が向く方向を見てみると、そこには矢代さんがいた。
しかもその動きは不審で、何かから隠れるようにコソコソと歩いている。
「えっと、矢代さん?」
「へっ!?」
後ろから近づいて声をかけると、彼女はまるでカエルのように飛び跳ねた。
そんなに驚かせてしまうなんて。少し反省しながらも小谷さんと揃って矢代さんを見つめる。
「なんだ、千佳と広瀬くんかぁ」
驚かさないでよ、と彼女はおどけて笑う。つられて俺も笑ったけど気になるのはそこじゃない。
どうしてあんなに怪しい行動をしていたのか。その答えは彼女の少し前を歩くふたりにあった。
「これ、見てよ。悠大くんが笑っているお宝写真!」
すごいでしょ、と彼女は腰に手を当てて見せびらかす。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……。
「星那と江崎くん、か……」
彼女の持つ写真には、笑顔の江崎くんとすました顔で笑う星那が写っていた。
大丈夫、大丈夫。ふたりが一緒にいるところを見たってもう怖くない。
それよりも頭に浮かんだのは、やっぱりふたりはヨリを戻したんだ、ということ。
江崎くんが女遊びをやめた理由もきっと星那にあるんだろう。
星那もずっと江崎くんのことが好きだったわけだし、ふたりがまた付き合うのは当たり前のことだよね。
それなのにどうしてこんなに胸が痛むんだろう。今の俺には関係ないのに、どうして……。
結局ふたりには話しかけずに、小谷さんを家へ送り届けてから帰った。
その間も悲しげに隣を歩く彼女のことは見えないフリをしていた。