宿泊学習後、初めての登校。
席に着くまでに何人かの人に声をかけられた。それに返事をしながらも俺は窓の外の景色を眺める。
空は少し曇っている。今日はいつもより早い時間に来てしまったからあまり人はいない。
もちろん朝に弱い渚はいるわけがない。
「……広瀬くん」
後ろからいきなり声をかけられてドキリとする。休み明けだから久しぶりに見たけど、絶対にあの日のことは忘れない。
目の前には小谷さんが立っていた。
「おはよう、小谷さん」
俺は宿泊学習の2日目の夜、彼女に告白の返事をした。
星那と江崎くんのキスシーンを目撃した俺はかなり気が動転していた。気づけば彼女と付き合っていたんだ。
でも、付き合おうと望んだのは俺。これが最善の答え。今でもこれで良かったと思っている。
まっすぐに伸びた黒髪。礼儀正しくておしとやかな振る舞い。他の人から見ても彼女は美人の部類に入るだろう。
「……やっぱり綺麗だな」
ポツリとこぼした言葉はどうやら耳に届いたみたいで、彼女の顔はボッと一気に赤くなった。
「そんなこと言わないでくださいっ……」
あぁ、なんだか可愛いな。恥ずかしそうに顔を隠す彼女を見てそう思った。
星那じゃないとダメだと俺は決めつけていた。星那以外の人なんて見ようともしていなかった。
でも、答えはもっと近くにあったのかな。彼女と付き合ってからそう思うようになってきた。
「迅は今、楽しいか?」
昼休み。一緒に昼食を食べている渚にいきなり問いかけられた。
「もちろん。みんなのおかげで楽しいよ」
これは嘘じゃない。渚や小谷さん、矢代さんに出会えて本当に良かったと思っている。
4人でいる時間は楽しくて、いつまでも笑っていられる。
「……じゃあ幸せか?」
その質問に一瞬戸惑った。
彼はきっと俺の気持ちをわかっていながら聞いているんだ。
星那のことが好きなのにどうして小谷さんと付き合ったのか。それを聞き出そうとしている。
「幸せ、ではないかもしれない」
俺にとっての幸せは星那と一緒にいること。きっとそれは俺と星那の関係が変わっても変わらないだろう。
「でも、絶対に自分で幸せをつくってみせる」
夢みたいな幸せはもう叶わない。
俺には小谷さん、星那には江崎くんがいるんだ。俺と星那が関わることはきっともうないだろう。
この気持ちは消すと決めた。その決断に後悔するつもりはない。
「迅がいいならそれでいいけど」
何が言いたげな顔をしていたけど、俺の表情を見て言うのをやめたらしい。
きっとこの気持ちが中途半端ではないことに気づいたからだろう。
「素直でいろよ。自分に嘘はつくんじゃねーぞ」
……そんなこと言われなくてもわかっている。今だって自分に素直でいるし、昔からそれは変わらない。
俺はそう思っていたから、間違いに気づくことかできなかったのかな。
渚の言葉を受け止めていれば、これ以上苦しむことはなかったかもしれないのに─────。
◇◆◇
宿泊学習から数週間が経ち、今は夏休みの真っ最中。
でも、矢代さんはなんとか免れたものの補修の手前だったらしく、今は矢代さんの家で4人で勉強会をしている。
「それでね!悠大くんが……」
そう、矢代さんのための勉強会……のはずだったのに。
いつの間にか勉強しているのは俺と渚と小谷さんだけで、彼女はひとりで口を動かしていた。
「理々愛。手が止まっているけど勉強は?」
その様子を見かねて口を挟んだ小谷さん。うん、それは俺も言おうと思っていたよ。
「だって飽きたんだもん」
面白くなさそうな顔で彼女は答える。その顔が幼い子供みたいでクスッと笑ってしまった。
「ちょっと、広瀬くん?笑わないでよね!」
「ご、ごめん。面白くて」
うっすらと笑みを浮かべながら謝ると、また彼女はムスッとした顔をする。
なんだかこの雰囲気が好きだな。特にこれといって大事な話はしていないけど落ち着く時間。
俺にとってこの瞬間が本当に大切なんだ。
ムードメーカーの矢代さん。冷静にツッコミを入れる渚。そのふたりに加わって話す俺。
そして、静かに見守る……俺の彼女である小谷さん。
組み合わせはバラバラだけどひとつになるとこんなに楽しいこと。みんなに出会うまでは知らなかったよ。
ひとつだけ。たったひとつだけ俺がこのとき間違えていたのは、この時間が1番の幸せだと思っていたこと。
確かに他のことには変え難いくらいに楽しい。
でも、それは俺の本当の気持ちを抑え込んでいた結果なんだ。
もっと早く間違いに気づいていれば、どれだけ良かっただろう。
「お邪魔しましたー」
もうすぐ日が暮れる頃、俺達は矢代さんの家を出た。
小谷さんの家はここから近いから俺が送っていくことにした。
渚の家とは反対方向だから渚とはここで分かれることになる。
「……じゃあな」
心なしか心配そうな渚の顔。もしかして、まだ俺が無理していると思っているのかな?
「大丈夫だから。また明日ね」
それだけ言って俺は歩きだす。小谷さんは小さく手を振って俺の隣についた。
その表情は嬉しそうで、好かれるってこういうことなんだ、と俺まで嬉しくなった。
彼女と一緒にいる時間は幸せな気持ちに浸れる。
星那と付き合っていたときは知らなかった相手に想われる嬉しさ。それは彼女に教えてもらった気持ちなんだ。
「やっと見つけた。広瀬」
ふと後ろから声が聞こえた。よく知っている声。でも、聞き慣れたくはない声。
「江崎くん……」
正直に言うと会いたくはなかった。しかも、隣に小谷さんがいるときには絶対に会いたくなかった。
「隣にいる奴が新しい彼女?」
彼はいつでも変わらない。いつだって余裕そうで不敵な笑みを浮かべている。
そしてそのまま小谷さんに近寄る。
「あれからどうだった?悲しかった?」
きっと宿泊学習の夜のことを言っているんだろう。
『あれからどう?』だなんて、わかりきったことを言わないでよ。全部わかっているはずなのに。
「江崎くんには関係ないよ」
あの日、彼は星那とキスしていた。きっとふたりがいたのには理由があったはず。
しかも、わざと俺に見せるようにしていたってことは、やっぱり付き合っているのかな……。
「ふたりはまた付き合ったの?ヨリを戻したの?」
「は?どういうことだよ」
彼は俺の発言に意味がわからないという顔をした。
え?どういうことって、聞きたいのは俺の方だよ。付き合っていないのにキスしたってこと?
それって……。
「だって、キス……」
「ははっ。あぁ、あれか。どうだろうな」
彼は思い出したように笑う。でも、俺にはその表情が寂しそうに見えるんだ。
俺にとって彼は1番の天敵。それでも、何か抱えているなら助けたいと思う気持ちは変わらない。
「あの、えざ……」
「じゃあな。もうお前に用はないから」
俺が聞く前に彼は言葉を挟んだ。まるで俺から逃げるように。