ここにはいられない



「ううーーーーっ」

寝返りを打って目を閉じ直し、じっと自分の身体と対話する。

トイレに行きたい。
あのウーロン茶は我慢したのに、ちゃんと出し切ったはずなのに、水分というのはどこから発生するものなのだろう。

「はああああ」

盛大に溜息をついてみても尿意が収まる気配はない。
このままだとせっかく落ち着いている膀胱炎が再発してしまう。


枕元に置いてある携帯で時間を確認すると2時13分。

丑三つ時じゃないの!

「関係ない、関係ない」とおまじないの言葉を唱え続けても、古来から伝わる丑三つ時の恐怖は消えない。
13日の金曜日は全く気にならないのだから、私も日本人だという証明の一つかもしれない。
これが12時とか5時ならば、同じ暗さでもずっと印象は違うのに。

「あーーーーっ」

すっかり目は覚めてしまって、もう尿意がすっきりしない限り眠気は訪れそうもない。
暗い部屋は嫌なので電気をつけ、ベッドの上で脚をブラブラさせながら更に5分足掻いた挙げ句、ようやく腰を上げた。

なぜトイレに行くためだけに、こんな覚悟が必要なのだろう。


玄関で靴を履き、意を決するためにひとつ深呼吸。

よし!

バンッとドアを開けて走る。
ほんの数秒なのにどうしても慣れない。
彼の家のドアノブを掴み、その勢いのまま乱暴にドアを開けて飛び込むと「うわっ!」という悲鳴に迎えられた。

「きゃあああああ!!」


元々恐怖でドキドキしていた心臓が、一際ドッキンと波打った。
人によってはこのまま心臓が止まっていたと思う。

走っただけではない理由で浅く早い呼吸を繰り返していると、パチリと電気がついた。

「なんだ、あなたか」

青いTシャツにハーフパンツ姿の彼が珍しく驚いた顔で私を見下ろしていた。

「ああ、暗いのは苦手なんでしたね」

彼だとわかると急激に心臓が落ち着く。

「こんばんは」

「あ、はい。こんばんは」

丑三つ時に玄関先でお互いパジャマに近い格好で、妙に間抜けな挨拶を交わす。

「トイレですよね。お先にどうぞ」

『お先に』ということは彼もそうなのだ。
借りる身なのに譲ってもらうなんてできない。
大体、トイレの外で待たれるなんて恥ずかし過ぎる。

「いえ!私は待ってますから!」

「我慢は膀胱炎に良くないですよ」

一気に顔が赤くなったのがわかって、すぐに下を向いた。

「気付いてたんですか?」

「女性には多いと聞きますし、なんとなくそうかなって」

そう言われてしまうと何も言えなくなり、お先にトイレを借りることにした。



引き戸を開けて出ると、彼はリビングのソファーから立ち上がってこちらに歩いてきた。

「あ、ありがとうございました」

そのまますれ違って帰ろうとすると、

「毎回あんな状態じゃ身が保たないでしょう?大丈夫なんですか?」

と呆れたような溜息を落とされた。

それは私もずっと感じていたことで、だけど打開策がないまま生理的限界に追われてこんな生活を続けていたのだ。
これがもし仕事だったら、何らかの改善策を早々に考えていただろうけど。

疑問型で投げかけてきた言葉は、それでもただの独り言だったようで、彼はそのままトイレに入ってしまった。



閉じられた戸を見つめて私は考えた。

真夜中だけなのだ。
昼間は職場にいるし、例えこちらを訪問するとしても怖くない。
夜でも早い時間であればそれほどでもない。
真夜中だけ移動しなくて済む方法があれば・・・。


見つめていた引き戸がガラガラガラと開いて、驚いた顔の彼が私を見つめた。
「まだいたのか」「一体何の用だ?」と目が言っている。
その聞こえない声に答えるように、私は大きく口を開いた。

「『ここで寝起きしても構わない』っておっしゃってましたよね?」

「・・・ああ、はい」

「夜だけ、お世話になってもいいでしょうか?もちろんご迷惑にならないようにリビングの隅で構いません。朝早くには出ていきます。決してプライバシーを覗いたり、お邪魔になるようなことはしませんから!」

随分思い切った決断だったのに、彼は眉一つ動かさない。

「どうぞ。お好きなように」

まるで他人事のようにあっさりと、私の決死の願いは了承された。

「ただリビングの隅は俺が困ります。2階の奥の部屋を使ってください。荷物置き場になってますが、布団1枚くらいは敷けますから」

「はい」

「簡単な内鍵を今日中に付けておきます」

「それは・・・申し訳ないです」

「その方がお互い安心なので」

「わかりました。お願いします」

「今から使いますか?」

「いえ、今夜からお願いします」

「そうですか。では、おやすみなさい」

トントンと足音が2階にたどり着く。
そして少し迷ったような間があってから、静かにパチリと階段の電気が消えた。


今夜からこの家で寝る。
自分で言い出したことにも関わらずこの状況に戸惑ってしまい、その帰り道は全然怖くなかった。











引っ越すわけではないので特別な準備は必要なかった。
私がしたことは布団をまとめて布団袋に入れただけ。
今日は彼も定時に上がってくれたので、私の家の玄関から部屋まで布団も運んでくれた。

「大丈夫です!自分で運びますから!」

「モタモタされるより俺がやった方が早い」

少しイラッとされて強引に奪われたので、反論もできずそのままお願いしてしまった。


借りる部屋は確かにヒーターなどの季節ものや、ダンボールの空き箱などが隅の方に雑然と置いてあるものの、私一人くらいは十分に間借りできるほど片付いていた。
私も彼と同じように手前の部屋を寝室、奥の部屋を物置にしているけれど、私の方がもっと物が多い。

取り付けてくれた内鍵は本当に簡単なものだった。
片方が輪になった釘、もう片方はフック状になっていて、その輪にフックを引っかけるだけのもの。
後は取り壊すだけだから改装するにも遠慮はいらないけれど、襖に素人が取り付けられる鍵なんてこの程度だろう。


階段を降りる時、彼の寝室の襖が3分の1ほど開いていた。
見えたのは一部分だけだったけど、私と同じようにシングルベッドが窓にくっつくような形で置かれている。
掛け布団とタオルケットが半分めくられたようになっていてるのは、朝起きた状態のままだからなのだろう。

クローゼットなんてないから、ハンガーラックに私服もスーツも作業着もごちゃごちゃにかかっている。
リビングといい、トイレといい、「必要なものが必要なだけあればいい」と言っているような簡素な部屋だ。

そんな中にこれからしばらく、「不必要」な私が入る・・・。




簡単とは言っても準備を終える頃にはすっかり夕食の時間になっていた。

この部屋には寝る時来るだけだから、自分の部屋に戻って食事すればいい。

そう思って自宅でご飯を炊き、カレーを作ったのだけど、迷いながらも余分に作ってしまった。
まあ、カレーは余ったら冷凍すればいいだけだから。

迷い迷い彼の部屋に行き、チャイムを押すか一瞬考えて、そのままドアを開ける。
リビングでパソコンに向かっていた彼は顔をこちらに向けることすらしなかった。

「あのー」

返事はなく、顔だけ動かして私を見た。

「ご飯はもう食べましたか?」

彼が急に私の頭上に視線を向けるので私も同じところを見ると、壁掛け時計が7時20分過ぎを示していた。

「あー、もうこんな時間か。そろそろ、と思ってました」

食べてなくてホッとしたけれど、もう一歩踏み込むのにはそれなりの勇気が必要だった。
大きめに息を吸い込んで思い切って言う。

「あの、カレーたくさん作ったのでよかったら食べませんか?」

目が少しだけ大きく開いた。

「えっとお礼にしては安過ぎるのでそちらは改めてするとして、今は、なんていうか、ついで?みたいな感じだと思って」

わずかに首をかしげる。

「もしよかったら食べないかなって思って作りました。他人が作ったものに抵抗を感じる人もいるでしょうから、無理に、とは言いません」

視線が外れて少し考えているような素振りをしているので、私も黙って返事を待った。

「お礼はいりません」

ある程度覚悟していたけれど、明確な拒否の言葉はやっぱり痛い。
少しだけ呼吸が止まる。

「カレーはいただきます」


素直に嬉しかった。
別においしいと言われたわけでもないのに。

他人の作ったものを食べるということは〈信頼〉だと思う。
信頼があって、安心があって、そこから初めて「おいしい」に繋がる。

私と彼の間に積み上げたものは何もない。
鍵を開け放って他人を出入りさせている人だから警戒心が薄いのかと思いきや、距離感はとても遠い。

私は彼に初めて信頼を向けられたような気がしていた。

「じゃあ、今持って来ますね!」

浮かれた気持ちで走って自宅へ戻り、重い圧力鍋、次に炊飯器を運んだ。
ウーロン茶を運び、それからコップとお皿、スプーンまで持ち運んだところ、

「食器くらいありますよ。あとお茶も」

と彼が笑った。

「俺、どんな生活してると思われてるんだろ」

ふっ、と笑った顔に見入ってしまった。
わずかに目尻を下げて、口角が上がっただけの、小さな微笑み。

だけど、この人も笑うんだなーって。
これからまた少し接触が増えるけど、思ったよりは楽しくできるかなーって。
期待を膨らませるには十分だった。



ところが盛りつけたカレーライスを前にして、一瞬彼のスプーンが止まった。
何か気に障るような要素があっただろうか、と考える。

「もしかして福神漬がないと嫌なタイプでしたか?」

「福神漬?」

「はい。実は私、お漬け物全般苦手で、福神漬も買ってないんです。こちらの冷蔵庫にもなかったので付けませんでしたけど、必要でした?」

彩りからすると真っ赤な福神漬と白いらっきょうが付いていた方が見栄えはする。
けれどどちらも好きではないので、私のカレーはご飯にルーをかけるだけだ。

「いえ。そういうこだわりはありません」

「何かもう少しトッピングでも用意すればよかったですね。気が利かなくてすみません」

「いえ、大丈夫です。いただきます」

口に入れたのはわかったけれど、あんまりじっと見るのは失礼だと思って自分のカレーに集中した。
私にとってはいつものカレーだったけど、彼はどう思っただろう。

期待と不安がない交ぜになった落ち着かない気持ちでスプーンを動かしていたのに、彼から味に関するコメントはとうとうもらえなかった。








「鍵のことなんですけど」

カレーのことにばかり気持ちが向いていたので何の話かわからなかった。

「鍵?」

「はい。実は合い鍵を失くしたので1本しか持っていなくて。作った方がいいですよね?」

確かにあれば便利だろうけど、わざわざ作ってもらうほど必要だろうか?
合い鍵を作るお金くらい出し惜しむつもりはない。
でも彼だって今年度中には退去するのだから、もったいなくないかな。

「一月だけなので、なくてもいいかな」

「じゃあ、預けます。俺の方が多分仕事遅いから」

開けっ放しのドアで数日トイレを借りていたけれど、確かに私より彼の帰宅は遅かった。

「でも朝は?多分、私の方が早いと思うんです」

「ああ、そっか」

出勤時間まで合わせてもらうわけにいかない。
でもそこは私だって仕事なのだから、遅く出るのは困る。

「俺が鍵をかけて職場で鍵を渡します」

「そうですね」

一緒の職場というのは何かと便利だ。
仕事中でも会おうと思えば可能なのだから。

「お風呂と洗濯は自分の部屋でしますけど、掃除はさせてください。もちろん、寝室には立ち入りません」

「必要ない、と言ってもやるんでしょうね」

「やります」

「では、どうぞ」

「あと、もちろんこのことは・・・」

「誰にも言いません」

「お願いします」

家の外で一緒に行動することはないし、自発的に話さなければ聞かれることもないだろうけど。
元々ペラペラ話すような人とも思えない。

ここまで考えて、意外と自分がこの人のことを信頼しているのだと思った。

「あの・・・私はいいんですけど、本当にいいんですか?何か盗まれたりっていう心配はしませんか?」

「盗むつもりですか?」

「盗みません!」

「それなら大丈夫でしょう。貴重品は持ち歩いていますし、もし何かなくなっていたら、あなたが盗んだと思うことにします」

「いや、一応外部の犯行も視野に入れてください」


簡単な打ち合わせが終わる頃にはお互いカレーも食べ終えていた。

「ごちそうさまでした」

「いえ、こちらこそありがとうございました」




キッチンを借りて後片付けをしてから自分の部屋でお風呂に入った。
歯磨きも済ませてあまり遅くならないうちに彼の部屋に移動する。

彼はリビングでテレビをつけたまま、パソコンに向かって仕事をしていた。
分厚いフラットファイルが数冊、彼を取り巻くように広げられている。

「あの、お先に寝ます。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

時刻はまだ10時少し前。
寝るには早い時間だったけど、まさか仕事をしている人の隣で暢気に寛ぐわけにはいかない。




今日から私の寝室となった部屋でパジャマに着替え、持ってきた本を寝転んで読む。

けれど、そわそわとして全然頭に入ってこない。
同じページを5回読んだところで諦めて本を閉じた。

「もう、寝ちゃおう」

本当にすることがないので寝るしかなかった。

そういえば鍵をするのを忘れていたな、と内鍵のフックを下ろしてみた。
簡単な作りながらきっちりと付けられていて、襖をガタガタさせても全然開きそうにない。
それでも本気を出せば襖ごと壊すことは可能だろうけど、そんな心配は全く必要なさそうだ。

お互いの安心のために必要だ、と付けられた内鍵。
けれど、外からは鍵がかかっているのかどうか、見ただけではわからない。
この鍵があってもなくても、彼は絶対にこの襖を開けないと思う。

それはカレーを食べてくれた人に対する信頼のお返しと言うには、もう少し踏み込んだ感情だった。








早く寝ると早起きできるもので、いつもよりずっと早い時間に目が覚めてしまった。
しばらく布団の中でもぞもぞしていたのだけど、やっぱりすることもない。

簡単に布団を上げ、パジャマとは違う部屋着に着替えて、トイレに行ってから自分の部屋に帰る。
夏は終わりが近いけれど、まだまだ日の出は早く、活動するには十分な明るさ。
部屋の移動も怖くなく、むしろ爽やかな空気が清々しいほどだ。

いつもならトーストにコーヒー程度で済ませてしまうのだけど、何しろ時間があるのでちょっと手を掛けたものを作りたくなった。

8枚切りの食パンを2枚焼いて、あり合わせの野菜を混ぜたオムレツを作る。
焼き上がったパンにレタスとオムレツ、ケチャップを挟んでオムレツサンドは出来上がった。
コーヒーもインスタントではなく豆からドリップする。
サンドイッチが馴染んだ頃に包丁を入れると、赤と緑と黄色がとてもきれいで、我ながらうっとりしてしまった。

とは言え、実はこのオムレツサンド、かなりボリュームがある。
サンドイッチ用のパンではなく普通の食パンを使っているし、もったいないから耳も落とさない。
中身もとても具だくさんだ。
いつも食パン1枚にヨーグルトくらいしか食べない私には明らかに多かった。
そう、ちょうど2食分くらいに。

「お昼まで残すとパンがしなしなになっちゃうしな」

やっぱり熱々カリカリのうちに食べるのが一番おいしい。

「いらなかったらお昼に持っていけばいいし」

しなしなにはなるけれど、味はしっかりしているから冷めてもそれなりにおいしい。

「お世話になってるのに自分の分だけ作るっていうのも情がないよね」