ガスは使えても給湯は電気なので結局お風呂は無理だった。
食事が終わると水と沸かしたお湯とでなんとか洗い物を済ませ、早々に寝ることにする。
南部さんと長田さんはリビングに布団を並べて、和泉さんと私は寝室を借りて一緒に私の布団で寝た。
狭いし洋服のままだと寝心地はよくないけれど、人の体温と気配がもたらす安心感は絶大。
千隼に抱き締められた時もそうだった。
暗闇は変わらないのに、全然怖くなかった。
むしろ、それよりも今まで感じたことのない何か大きな感情の波の方がずっとずっと怖かった。
もし、あの波に身を任せていたら、どうなっていたのだろう?
目をつぶってする考え事がどこか夢がかってぼんやりしてしまうように、暗い中で起きた一連の出来事は現実だったという実感が伴わない。
『こんな夜は好きな人の側にいたいじゃないですか』
和泉さんがああ言った時、私は誰を思い浮かべたんだろう?
そのぼんやりした幻を追い掛けているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
明るさというのは力だと思う。
停電という状況は変わらなくても明るいだけで気持ちは強くなるし、実際できることも増える。
私の部屋で和泉さんと二人で洗面、歯磨き、着替えを済ませ、土鍋でご飯を炊いた。
暗がりだと水加減も頃合いもわからないから昨日はできなかったのだ。
炊きたてのご飯と、冷凍庫の中で不本意にも自然解凍されてしまった明太子、目玉焼き、昨日の残りの牛丼それから豆腐とワカメのお味噌汁を朝食にする。
「あー!店長、お肉全部食べちゃったんですか?もう玉ねぎしか残ってない!」
「違う、違う。和泉さんには出汁の染み込んだ美味しいところを食べて欲しくて!俺なんて、ただの出がらし肉さ」
「私だって出がらし肉がよかったー。店長、まさか玉ねぎ嫌いなんですか?」
「君が思うほど俺は完璧な人間じゃないんだよ」
「じゃあ完璧を目指して玉ねぎ食べてください!」
二人の様子を長田さんが目を細めて笑いながら明太子を口に運ぶ。
鳥の声なんて聞こえないほど、朝からとても騒々しい。
誰かと迎える朝は久しぶりだけど、千隼とはまた違う朝だ。
千隼は昨日どんな夜を越え、今どんな朝を迎えているのだろう。
明るくなって目を開いて、今、改めて考えると、千隼の行動はある種のラインを大幅に越えていたと思う。
私が暗いのが苦手だと知っていても普通ならわざわざ訪ねて来たりしない。
次に会った時「この前大丈夫だった?」って声を掛ける程度がせいぜいだろう。
まして、抱き締めたりなんかしない。
あれはやっぱり、そういうことなんだろうな。
大学時代に告白されたこともあったし、親しくしていた男友達に想いを匂わされたこともある。
大ちゃんから離れたくて県外に出たのに、結局忘れられず、新しい恋には踏み出せなかった。
だけどその時は「本当に申し訳ない」という気持ちしかなかった。
今私が千隼に感じている気持ちはそれとは違って、今まで知らなかったものだ。
あまりに理解できないからとても怖い。
昨日はそんな想いでいっぱいだった。
千隼がどう受け取ったのかはわからないけど。
だけど同時に千隼は「大地じゃなくてごめん」とも言っていた。
私が大ちゃんを好きだってことも彼は知っている。
何かを直接言われたわけでもないし、答えを返す必要はないはずだ。
ほとんど会うこともないのだから、千隼の方でもそのうち忘れるだろう。
そう思うのに、全然心が離れて行かない。
ずっと慢性的にドキドキし続けていて「どうしよう、どうしよう」ばかり頭の中をぐるぐる回る。
私の心は私に一体どうしろと言うのか。
その日の夕方に停電は解除されたけれど、私の中で答えは出ないままだった。
『今夜飲みに行かない?』
大ちゃんから来た何の変哲もないメッセージに不吉なものを感じ取ったのは、ただの邪推だろうか。
停電の夜から10日ほど経った木曜日。
私はデスクでお弁当の唐揚げを噛みながら深い溜息をついた。
なんだか行きたくない。
大ちゃんからの誘いにそんな気持ちになるのは初めてだった。
『他に誰が来るの?』
里奈が来るかどうかで臨むスタンスは全然違う。
二人の仲があの後どうなっているのかも聞いていなかった。
『菜乃と千隼だけ』
帰ってきたメッセージの文字にビクッと心臓が跳ねた。
あれから何度も千隼とはすれ違ったけれど、結局は挨拶だけ。
どちらかがもう一歩踏み込まない限り、話す機会なんてない。
千隼にどう向き合ったらいいのか、答えは相変わらず出ていないけど、会って確かめたいという気持ちはあった。
もし、今日の飲み会が終わったら話し合う時間を作れるかもしれない。
『わかった。行く』
大ちゃんは空元気も出せないほど落ち込んでいた。
ほとんど話さずお酒ばかりガブガブ飲んでいる。
大ちゃんがよく食べる焼き鳥や塩やきそばをすすめても、黙って首を振りまた焼酎を呷る。
会話の糸口すら掴めずに困って、私も「千隼、早く来ないかなー」と時計ばかりを見ていた。
「千隼、遅いな」
俯いたまま腕時計に目を落とした大ちゃんがポツリと言った。
「来週から議会が始まるから、その準備で忙しいのかも」
今年入ったばかりの私にはそれほど大きな案件はない。
だから議会質問の準備もほぼなくて、先輩方ばかりが遅くまで準備に追われている。
議会の前と会期中はどこの課でもバタバタしている。
議員の急な思い付きで質問が飛んでくることもあるから気が抜けない。
対応するのは部長や課長だけど、準備するのはもっと下の人間だ。
千隼は7年目らしいから、もう立派に戦力だろう。
それなら日付が変わる前に終わるとは思えなかった。
「俺、里奈と別れることにした」
そういう話じゃないかと思っていた。
大ちゃんが里奈と別れるなら私にはチャンスのはずなのに、頭が痛くなるばかりで喜びは湧いてこない。
「この前の停電の夜、遅くなったけどさすがに帰ったんだ。あんな時に一人はやっぱり辛いだろうと思って。だけど里奈は帰って来なかった」
これから聞く内容はきっといいことじゃない。
そう身構えて、私はビールのジョッキをテーブルに置いた。
「里奈、別の男の家にいたんだって。会社の同僚で、俺とのことずっと相談してた奴。次の日帰ってきて問い詰めたら、泣きながら謝られた」
耐えられなくて頭を抱えた。
里奈は、そういう子だ。
ひどく不安定な子だとわかっていた。
だから「帰った方がいい」と言ったのに。
「俺も色々悪かったけどさ、でも、もう・・・無理かな」
大ちゃんは吐き出した溜息の分を取り戻すようにお酒ばかり飲んだ。
何杯飲んでも全然いつもの明るい大ちゃんにはならないのに。
反対に私はお水一口飲む気持ちになれず、半分以上残ったビールや焼き鳥や塩焼きそばをただただ見つめていた。
千隼が1秒でも早く来ることを祈りながら。
けれど日付が変わっても、千隼はとうとう来なかった。
私では杖ほどの支えにもなれないけれど、必死で抱えて大ちゃんをタクシーに乗せた。
「大ちゃん、行き先はどこ?実家?」
後部座席をのぞき込んで聞くと、大ちゃんはじっと私を見つめた後、私の腕を引っ張ってタクシーの中に引きずり込んだ。
酔っているのに酔えていない、心細げな瞳が揺れながら私を見ている。
「菜乃の部屋に行きたい」
ああ、そういうことか、と思った。
途中からそうなるような気はしていた。
それでも迷った。
そんな自分に問いかける。
私は大ちゃんが好きなんでしょう?
何を迷うことがあるの?
里奈とも別れるって言ってるんだから。
小さい頃からずっと一緒でずっと好きだった大ちゃんが、今初めて私を求めている。
それで大ちゃんの心が手に入る気は全然しなかった。
だけど、大ちゃんが求めてくれるのも、今だけだと思った。
私が好きなのは大ちゃんだ。
大ちゃんなんだ。
「━━━━━いいよ。わかった」
迷いを振り切るように、そう答えていた。
ここから私のアパートまではタクシーだとほんの5分。
考え直す暇なんてないくらいあっという間だった。
「なんか緊張する」
そう言ってヘラヘラと笑いながら大ちゃんは部屋に入った。
リビングの真ん中に立ってぐるりと見回す。
「随分殺風景だなー」
「最近引っ越したばっかりだから。隣の部屋にはまだ開けてないダンボールもあるよ」
キッチンに立ってあたたかいほうじ茶を淹れた。
あえてマグカップに並々と。
飲み会の後や身体が冷えた時、ことあるごとに千隼がそうしてくれたように。
あたたかいお茶は心も温めてくれるから。
大ちゃんにも、元気を出して欲しいと思ったから。
私の部屋に大した家具はないのだけど、唯一大きな書棚が一つある。
大学入学の時にお年玉を貯めたお金で買ったもので、丈夫で大容量で、しっかりとしたガラス扉がついているものだ。
そのガラス扉のおかげで地震にも耐えた頼もしい私の宝物。
両手にマグカップを持ってリビングに向かうと、大ちゃんはその書棚の前に立っていた。
わざと少し音をたててマグカップをテーブルに置く。
その音で大ちゃんはゆっくりと振り返った。
「ああ、ありがとう」
大ちゃんはそれ以上何も言わずに、私が好きな本をもう一度チラリと一瞥した。
それだけで私は心の中に土足で入り込まれたような気持ちになってしまった。
大ちゃんにその意志がないこともわかっていて、理不尽な感情だともわかっていて、それでもその不快感は拭えなかった。
書棚の中は私の好きな本ばかりで、それは私にとってほとんど頭の中同然だった。
別に恥ずかしいような本が並んでいるわけでもないのに、それを丸ごと見られることに言い様のない抵抗を感じた。
これまで誰かに書棚を見られたことはなく、当然こんな気持ちになるのも初めてで、私自身かなり戸惑っていた。
「あっつ!菜乃、沸騰させ過ぎ」
「あー、ごめんごめん」
「謝り方が軽い!火傷したのに!」
「本当に申し訳ございませんでしたっ!」
「今度は嫌みだなー」
お互い必死に明るく振る舞おうとしているのが感じられて苦しい。
今までどうやって会話してきたのか思い出したくても、こんな状況は経験がないから参考にならない。
マグカップを置いて顔を上げると、大ちゃんも同じようにこちらを見ていた。
目が合って、空気が変わる。
大ちゃんの目は私を飲み込もうとするように深く、強い引力を持っていた。
そこから目が離せない私の視界の外で、大ちゃんの手がゆっくり私に伸ばされる。
そっと腕を引かれて身体は大ちゃんの方に倒れていった。
あたたかい体温に包み込まれて、深く呼吸する。
これが大ちゃんだ。
私がずっとずっと求めていたぬくもり。
頬に当たる肩の骨の感触も、首筋の匂いも、全部大ちゃんだ。
思った通り、大ちゃんの腕の中はホッとする。
身体の力を抜いて身を預けられる。
きっとこのまま眠ってしまえるくらいに安心できる腕だ。
こんなことをされるのは初めてなのに、まるで違和感がない。
まったく想像していた通り。
目盛り通りきっちりすり切りの。
期待を毛ほども裏切らないのに、私の胸の中には納得以上の感情が生まれなかった。
もしこれが高級ステーキの話だったら「やっぱり思っていた通りにおいしい!」と喜べたと思う。
それなのに今はなぜか喜べない。
思った通りなのだから十分だ。
それより上を望むなんてただのワガママ。
そう理屈を説いてみたところで、心にはさざ波ひとつ立たない。
腕の力を弱めて大ちゃんが少しだけ離れる。
暗い目は私を映しているようで映していない。
私とは別の何かを見たまま、大ちゃんの奥に熱が灯る。
ほんの一瞬躊躇った。
ファーストキスなのにな、って。
ずっと捧げる相手は大ちゃんがいいって思っていたはずなのに、何かが私を戸惑わせていた。
それはもちろん里奈に対する後ろめたさもあるけれど、それとは別の違和感もあって・・・。
だけどその正体を掴む前に、唇は重なっていた。
やさしくしっかりと重ねられた唇が確認するようにわずかに吸いつく。
グッと深めても、奥に入り込んでも、大ちゃんはやっぱり大ちゃんで、とても優しい。
これが私が好きだった人。
ずっとずっと好きだった人。
そのはずなのに。
嫌だとまでは言わないけれど、早く終わればいいと思った。
大ちゃんとの触れ合いは安心できるし好きだけれど、それは〈人のぬくもり〉以上のものではなく、他の誰かでも代わりの利くものだ。
ちょうど停電の夜に和泉さんと一緒に寝た時感じたものと全く同じ。
やっと手にした〈欲しかったもの〉は、手の中でその色味を失っていた。
いや、〈本当に欲しいもの〉が別にあるとはっきりわかった。
そのことを自覚して、ゆっくりと、けれど強い力と意志を持って大ちゃんを押し戻した。
大ちゃんは抵抗せずに離れ、私の反応を伺うようにじっと表情をのぞき込む。
きっと私の目は今ものすごく凪いでいると思う。
同時に私も真正面から大ちゃんを見つめた。
ずっとずっと好きで、忘れられなくて、傷ついても傷ついても追い求めた人。
そしてそれがすべて過ぎ去ってしまった人。
抱き締められて、キスをして、私はもう大ちゃんに恋をしていないと気付いた。
私が欲しいのは安心できる腕じゃない。
きれいに収まる心じゃない。
私が本当に欲しいのは、身体の中が痛くて、じっとなんてしていられなくて、肌という肌が過敏になって、居心地が悪くて、頭の中がおかしくなりそうな、あの場所だ。