静かな冬の雨の夜は、あの日のことを思い出す。
あれはわたしが大学生だった頃のお話。
高校生のあの子だった。
ある程度のお金持ちだった男子高校生は、高校2年生を境に成績が伸び悩んでいた。
わたしが担当した生徒たちが軒並み成績アップすると評判をききつけた生徒の親からご指名を受けた。
はじめて彼の御宅へお邪魔したときのことを今でもはっきり覚えている。
さらさらな黒髪の短髪。
肌が白くてわたしよりも背が高くて細かった。
凛々しく揃えられた眉毛に二重まぶたからのぞく涼やかな瞳。
すっとした鼻筋にちょうどいい厚さの唇。
一見すると、どこかの男性アイドルグループにでも入っていそうなぐらいのルックスだ。
学ラン姿の彼はわたしをみるなり、毎回顔を赤らめていた。
けれど、よくある憧れの光景のひとつだな、ととらえつつ、真面目に勉強を教えた。
高校3年の冬、成績があがり、これから大事な受験に向けてラストスパートをかけているところだった。
その夜はみぞれまじりの雨が降っていて、かなり底冷えした。
玄関のドアホンを押して声をかけると、男の子は咳をしながら鼻声で応対した。
「すみません、お願いしてもよろしいですか」
弱々しい声だったので、もしかしてと思いながら玄関のドアを開けると、パジャマ姿の男の子が床に座り込んでいた。
その日両親は仕事で出張しており、お手伝いさんも急用で帰ってしまって、家には彼ひとりだった。
「昨日から、何も食べてなくて。本当は今日、キャンセルしようとしたんですが……」
「わかった。今日の授業はなしにするから。キッチン借りてもいい?」
「……はい」
いつもは2階の彼の部屋にいくのだが、ふらふらとした歩き方でそのまま階段から転げ落ちたら大変だ。
1階のリビングダイニングに通してもらい、キッチンを借りた。
ぼんやり座っている男の子をみながら、とにかく温かく栄養のあるものを食べさせようとした。
「できたよ」
「わ、すごい。先生の手作りだ!」
一人用の土鍋のふたをあけると、一気に湯気が立つ。
湯気と同時に出汁の香りが部屋中に広がった。
なんてことない、たまご雑炊。隠し味にちょっとだけ工夫した。
彼はふうふうと息をふきかけ、食べ始める。
「おいしいです」
「よかった。口にあって。もう少し豪華なほうがよかったでしょ」
「そんなことはありません。だって南月先生が僕につくってくれた、特別なものだから」
「よかった」
彼は目尻にしわをつくりながら食べ続けて、気がつけば鍋いっぱいにつくった雑炊がからっぽになってしまった。
「ごちそうさまでした。南月先生」
「いいえ、こちらこそ。それぐらい食欲があれば元気になれるかな」
そういうと、急に彼がしおらしくなった。
「あの、ずっと作ってほしいです。南月先生に」
「何いってるの」
おいしいのはありがたいことだけど、彼から流れる空気にこたえることはできない。
拒否したことに対して、彼は下を向いている。
「だって僕は……」
「まずは体調なおさないと」
といっていると、突然立ち上がり、男の子から後ろから抱きしめられた。
「……お願いだから、僕のそばにいて」
「冗談いわないで」
彼の熱を背中で感じる。
それを受け入れるわけはいかない。
だってわたしにとって大切な生徒のひとりだから。
傷つけさせたくはない。
あんなに弱々しかったのに、わたしの腕をつかむと立ち上がらせソファに座らせた。
「僕は……南月先生のことが好きなんだ」
「やめなさいって」
「ずっと想ってきたんだ、先生のこと。気持ち、抑えきれない」
彼はわたしの上にのしかかってきた。
やめて、と、いったのに、彼は自らの唇をわたしに押し付けた。
突然のことで防ぎようがなく、顔を背けても彼はやめようとしなかった。
「いや、やめて」
これ以上エスカレートしたら彼のためにならない。
精一杯の力をこめて、彼の体をはねのけた。
彼は力なくソファの下に敷かれたカーペットに体を横たえる。
「……風邪、ちゃんと治してね。おやすみ」
と、逃げるようにして帰った。
後日、彼に悪い気を起こさせたと反省したわたしは家庭教師をやめた。
あの彼は無事に第一志望の難関大学に合格したと風の噂で聞いたけど。
今頃、綺麗なお姫様みたいなひとと幸せに暮らしてくれればいいんだけどな。
「またフッたらしいよ」
「さすがだわ。鉄の女王」
「言い寄られても臆することなくノーをいうってさすが美人はいうことがすごいわ」
またわたしの噂話か。
月に一回は必ず給湯室からもれる、わたしへの下らない話。
泣き言いって後輩女子社員に泣きを入れているんだろうか、ウチの後輩男子は。
バカバカしいな、何をしに会社にきているんだろう。
そう心の中で文句を垂れるのは、わたし、桜庭南月(さくらばみつき)。
もうじき三十路に手がかかる、ぎりぎり20代の29歳。
大学を卒業して、地元でも有数の総合的な企業に入社した。
元は老舗のソースや醤油などの食料品を扱った会社だったが、手広く商売を続け、今の大きな企業に変貌した。
最初の所属先は営業事務だったが、年を重ねるごとに異動になり、今は経営戦略室という、ちょっとだけ上の部署に所属している。
自分はたいしたことのない女だ。
なのに、イメージだけが先行してしまう。
近づく男はみな、わたしのことを高級アクセサリーでもみつけたような顔をする。
いざ、付き合ってみたら、
「そういうやつだとは思わなかった」
「見かけによらず、だな」
と、不満をぶつけてくる。
しかたないじゃない、こういう性格なんだものといってみれば、
「外じゃあツンツンしてるんだけどな」
と、やはり見かけだけで判断される。
これならばもうそういう男ばかりで疲れてしまったので、自分の武器を最大限利用して生きてやろうと思った。
鉄の女王と呼ばれるぐらい、無敵であろうと努力した。
すべての根源は自分の過去に原因はあるんだけど。
気にしてもしかたない。
まずは自分を磨くことに専念した。
容姿に関していえば、他の女性、男性社員いわく、ため息がもれるぐらいのいい女といってくれる。
幼少期から大学生までずっと栗色の肩まであるストレートヘアから最近、少しだけ緩くパーマをあてた。
ブランドのスーツ、ブランドの下着、ブランドの靴やバッグは、給料があがるごとにバージョンアップさせた。
アクセサリー、化粧や美容に時間とお金をかけていた甲斐はあった。
新入社員のときは先輩男子社員やおじさん社員がわたしの後ろを歩いては話すキッカケを逃さまいとしていた。
ただ恋愛に関していえば落第点がとれるので、わたしの恋愛経験のなさに男たちはわたしの前から散った。
ちゃんとした恋愛、しておけばよかったな、と後悔する。
学生時代のあの件がなければ、今頃は愛する人たちに囲まれながら平和に暮らしていたんだろうなあ。
彼を思い出すたびに、心がざわつく。
「桜庭主任、クラウドに資料、アップしたのでみてください」
と、後輩男子から声がかかる。
「ありがとう。確認しておくから、続きを進めて」
そういうと、後輩男子は照れながらパソコンに向かい、仕事を進める。
夢なんかみていたって仕方がない。
まずは目の前の仕事を片付けなきゃ。
「桜庭、ちょっといい?」
黒髪のショートヘアに茶色いふちのメガネをかけ、白いシャツにグレーの長袖カーディガン。
黒の膝丈スカートに黒のストッキング、黒のパンプスで身を固めているのは、途中入社で同僚の高城千春。
今の部のリーダーで、みんなのまとめ役である。向かいに座っている高城のパソコンをのぞく。
「またあんたの出したの、パクってるじゃん」
と、次回の会議に提出する計画案を社内サーバーからアクセスして、画面に表示した。
責任者の欄に『阿久津』と載っている。
「パクられた、か」
「設定が似てるからってまたやらなくてもいいのにね」
阿久津ちひろ。わたしと同期だ。
同期で同姓ということもあり、研修時から仲良くしていた。
けれど、相手はどう思っているか、よくわからなかったけれど、後々になって自己査定に響くことになる。
最初のプレゼンのとき、彼女からこのプレゼンでは絶対にムリだと指摘された。
その案件を捨て、別の案件を出したところ、彼女のプレゼンが通ることになった。
わたしの出す予定だった案件からいいところを抜いて作成されたものだった。
どういうことだと説明してほしかったけれど、あれは自分のアイデアだからと突っぱねる始末。
確かに彼女のアイデアも盛り込まれたものだったから、文句は言えない。
それでも巧みに近づく彼女に、わたしは懸命に応えてしまう。
男の相談をしたけれど、彼女はやめたほうがいいと一点張り。
やはり、彼女はわたしとくっつこうとする男を食い散らかしてきた肉食女子と判明。
うまい具合な世あたり上手だな、と感心してしまう。
そんな彼女は、今では経営企画課、課長代理というポストを与えられている。