「傘、ありがとうございました」

最後は笑って別れようとしたのに、彼女の目を見るとどうしても笑えなかった。

名前も知らない彼女なのに、どうして心を揺さぶられるのだろう。

「待って」
踵を返した足が、真剣な声音に縫い止められる。

「名前、教えて。最後に」

これも縁でしょう。
そう言った声の表情が、どんな顔で言ったのか、背中越しなのに分かってしまって、蝶はこみ上げたものを喉の奥に押し込んだ。

「紀ノ川、蝶です」
響いた声に、笑う気配がした。
「ありがとう」

私。
そう言って告げられた名前を、微笑もうとしてこぼれた何かの音を、きっと決して忘れないと思った。