春が来たら、桜の花びら降らせてね


『おい、原田!』

「冬菜!!」

突然、名前を呼ばれたんだ。
記憶の中の声に、誰かの声が重なる。

振り返れば、そこには高校生の夏樹君がいた。

「急に出ていくから、心配した」

「…………」

わざわざ、追いかけてきてくれたんだ……。
それを、どこか冷めた気持ちで受け止める。

好きな人なのに、嬉しいはずなのに……どうして、何も感じないのだろう。

あぁ、無くなってしまったのだ、心が。

「泣いてる……のか?」

「…………」

この質問も、あの日と同じだ。
そっか、世界は何にも変わってなどいなかった。

結局、私は暗闇の中でしか生きられない。

泣いてなんかない。
なのに、夏樹君はそう尋ねる。
私は無表情に夏樹君をただ見つめた。


「冬菜……俺、またお前から奪ったんだな」

夏樹君は泣きそうな顔で、瞳に深い絶望を宿して、私に手を伸ばし、頬に触れようとする。

それに、ビクッと体を震わせると、夏樹君は手を止めた。

「あ……ごめんな、触れる資格なんか、無いよな」

夏樹君が自嘲的に笑い、力なくその手を下す。

こんなに胸が痛くて軋んで、こんなに悲しい気持ちになるのなら、夏樹君と再会なんてしたくなかった。

どうして、声をかけてきたりしたの。
知らなければ、また傷つくことなんてなかったのに。

顔には出さずに、心の中でボロボロに泣く。

「でも、もう、冬菜に背を向けて歩かないって決めたんだ。どんなに遠くても、お前の背中を追いかける」

「…………」

この世界は、黒く汚い。
人間は、普通じゃないモノを笑い、理解しようともせずに蔑む。

救いようのない世界なんだと、私は思い出してしまった。

むしろ、今までがおかしかったんだ。
きっと、夢を見ていただけ、すぐに忘れなくちゃと思う。

また、無駄な期待を、望みを抱かないように。
そう思った私は、これで使うことも最後だと思いながら、スマホの文字アプリを起動する。

文字を打つと、それを夏樹君へと見せた。


『もう、私の世界を壊さないで』

「っ……冬菜、俺はお前の世界を壊したかったわけじゃない!」

『もう、やめて』

「冬菜っ……」

名前を呼んで言葉を失った夏樹君。
あの日とは違って、今度は私から背を向けた。

これは惨めだと思いたくない、精一杯の私の意地だ。

「なら、冬菜はずっと一人ぼっちでいる気かよ!!」

夏樹君が私の背中に叫ぶ。
そうだよ、私と夏樹君の歩く道は一生交わらない。

私が辿った道を、どんなに夏樹君が追いかけてきても。
私に、立ち止まる意思も、振り返る意思もないから。

「俺は、冬菜を……どうすればっ」

夏樹君は、私を追いかけてこなかった。

でも、それでいい。
私が目指す先は、誰もいない場所であり、ひとりぼっちになるための道だから。



──だから、さよなら夏樹君。



【夏樹side】

――俺は冬菜を……。

「あの暗闇の世界から、連れ出してやりたかっただけだ……」

一番笑顔にしてやりたかった女の子から、俺は笑顔を奪った。

冬菜を追いかけられなかった理由、それは怖かったからだ。

俺があの子の世界を壊してしまったから。
俺は、廊下の真ん中で力なく俯く。

そして、遠くて近い、いつも忘れるなと疼く過去の傷跡に引きずられるように、罪にまみれたあの日々に意識を奪われていった。




***

4年前、小学6年生の春。
クラス替えをして、新しいメンバーの顔触れの中、俺は自分の席へと歩いて行く。

その途中で、俺の足がピタリと止まる。
窓から見える桃色の景色を背に、窓際に座る女の子。

開いた窓からそよぐ、柔らかい4月の風が、その長い黒髪をフワフワと揺らす。

その様が、木々を彩り揺れる桜の花のように見えて、つい見とれた。

こうして俺は、無口で無表情な彼女の隣の席になった。


『おい、原田』

『…………』

そいつは、原田 冬菜といって、どんなに声をかけても怯えるように顔を強張らせ、一言も声を発さなかった。

その時の俺は鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、なんとやらで。

俺は移動教室の廊下、女子トイレの前での待ち伏せ、とにかくしつこいくらい冬菜に話しかけまくった。

そのたびに全力で逃げられたけど、そのうちに気づいたことがあった。

『なぁ、原田、消しゴム忘れたのか?』

それはある日、授業中に間違えた文字を冬菜が斜線で消しているのを見て小声で話しかけた時のことだ。

冬菜は俺に突然話しかけられてオロオロしだすと、仕方なくといったように小さく頷いた。

授業中で逃げられない状況だったとはいえ、冬菜から反応があったことが嬉しかった俺は、自分の消しゴムをパキッと割って差し出す。


『仕方ねーな、俺のやるよ!』

『っ……!』

ご機嫌に、千切れて不格好になった消しゴムを差し出す俺を、冬菜が驚いた顔で見た。

そんな表情の変化を見せてくれた冬菜に、喜びが隠しきれず、俺は授業中にも関わらず浮かれていた。

何か、してやりたくて仕方なかったんだ。
この時から俺は、冬菜のことが好きだったんだと思う。

誰かのためになにかしたい、胸の奥底から突き上げられるような衝動を俺は初めて知った。

『あ……っ、あ』

そんな時だ、掠れるような吐息だけの脆い声が聞こえた。

俺は聞き逃さないように耳を澄ます。

先生の授業の声、ノートを取る鉛筆の音すべてが、煩わしいと思うほどに君の声が聞きたかった。

『う……っ』

冬菜は、話そうとしていたのだ。
でも、すぐに無理だと気づいて申し訳なさそうな顔をする。

今までにも、こんなことがあった。
話そうとして、苦しそうに喉を押さえて、悲しげに諦めたように背を向ける。

本当は寂しくて、誰かと仲良くなりたいんだと気づいた瞬間だった。


『昼休み、一緒に校庭行こうぜ』

『…………』

でも……と、戸惑うような瞳に俺は笑った。

『桜の絨毯作ってやる!』

『…………』

冬菜は新芽が花咲くようにフワリと笑った。
奇跡を目の当たりにしたかのような、そんな胸の高鳴りを俺は感じた。

俺たちはみんなにバレないよう、顔を突き合わせて笑い合う。

この瞬間が、永遠に続けばいい。
そう思うほど、俺は君に惹かれていたのだ。




そして約束の昼休み。
給食を食べ終わると、俺は冬菜の手を引いてさっそく校庭へとやってきた。

桜の木の下、降り積もる淡い薄紅色の花びらをかき集める。

一緒に集めようとした冬菜には、木陰に座っているよう声をかけた。

俺が冬菜にプレゼントしたかったからだ。
絨毯を作る俺を、桜の木の下に座る冬菜が穏やかな表情で見つめている。

温かくて、ゆっくりと時間が流れていた。
俺は特に言葉を交わしているわけじゃないのに、幸福感に満たされる。


『原田、寝転べって!』

『…………』

冬菜は俺に言われたとおりに横になる。
その瞬間に広がる冬菜の柔らかそうな長い髪を踏んでしまわないように、隣に胡坐をかいて座った。

桜に囲まれ、穏やかな笑顔で寝そべる冬菜は、宝石を見るよりずっと綺麗だと思った。

冬菜を眺めていると、胸にある幸せの種が芽吹いたように、全身に温もりが広がっていく。

どんな事情があるのかはわからないけど、いつか冬菜に話してもらえるように、強くなろうと決めた。

そんな時、『佐伯ー!』と、遠くから俺を呼ぶ声がした。

俺たちのそばに、クラスメートがわらわらと集まって来る。

『佐伯、鬼ごっこするんじゃなかったのかよ!』

『そうだよ、なんでこんなとこにいるの?』

あ、やべ……忘れてた。
約束したわけじゃないが、クラスの連中と外で遊ぶのは暗黙の了解だった。

俺は冬菜と過ごせることが嬉しくて、今の今まで他の奴等のことなど頭になかったのだ。

そう思っても時すでに遅いため、俺は今から参加すればいいかと笑って立ち上がった。


『なら、原田も一緒にやろーぜ』

そう言って冬菜を誘うと、冬菜は無言で俯く。

この時の俺は、冬菜が絶対喜んでくれると思っていた。だから、冬菜の表情が曇ったことが不思議でならなかった。

でもきっと、冬菜は怖かったんだ。
人に拒絶されること、幻滅されることが。

なのに俺は、何も知らずに冬菜を振り回し、苦しめた。

全部俺の物差しで、嬉しいに決まってるって決めつけて。

知らないことは罪だと、俺はこれから、身を持って知ることになる。

『ねぇ、喋んない原田なんて置いて早く鬼ごっこやろうよ』

『園崎……』

その中にいた園崎が、冬菜をチラッと見て、俺の手を引く。

手を引かれるまま、冬菜を振り返れば、悔しそうに俯いていた。

『は、原田も行こうぜ!』

たまらずそう声をかけても、冬菜は無言で首を横に振り、まるで「楽しんできて」とでも言うように無言で微笑んだ。

その笑顔が寂しげで、胸が締め付けられた俺は、無意識に胸をおさえる。