「博登、今日から高校生活スタートするんでしょう。早く、起きなさい。」
母親が木目の螺旋階段をのぼり、僕の寝室のドアをガチャリと開けた。
「おはよう、朝よ。」
母親が淡々と言い、僕の窓辺の白いカーテンを勢いよく開ける。
「ウッ」
太陽の幾筋の光がまぶしく目に当たり、僕は手で顔を覆った。
「‥‥‥‥」
もう少し寝ようと思ったその時、ーーーー
「今日から高校生活スタートするんでしょう。勉強・友情・恋愛・いつまでも寝てないで、楽しい高校生活が始まるわよ。がんばって。」
母親が、嫌がらせのように言う。かけ布団を放り投げ、僕の体を二回大きく揺らす。そして、さっそうと下に駆け下りた。
「‥‥‥辛い。」
僕はまだ半分眠っている目をこすりながら、シングルベットからゆっくりと体を起こした。開けっ放しの寝室のドアを抜け、短い廊下を一歩一歩亀のようにのろのろと歩く。そして白い壁に手をつきながら、ふらついた足取りで木目の螺旋階段をゆっくりと下りる。
「はい、朝ごはん。お茶漬けと、カルピスね。」
リビングに繋がるドアを開けると、慌しく今朝の準備に追われている母の見慣れたいつもの風景が広がっていた。広くもなく、狭くもない、十畳ほどのリビング。三人掛けの白い柔らかいソファーと、三人掛け革張りのソファー。それと、革張りのこげ茶色の回転椅子。そのリビングの中央にはちゃぶ台が配置されており、目の前には、35インチの液晶テレビが置かれている。
「おはよう。」
僕は適当にあいさつを済ました後、引き寄せられるようにちゃぶ台の後ろに座った。ちゃぶ台の上にはおぼんが乗っており、その上に今日の朝食が置かれている。母の言った通り、おぼんの上に乗っていたのは、お茶漬けとカルピスが入ったプラスチック製のコッップ。それと、お箸。
「‥‥‥‥」
僕はちゃぶ台の上に乗っていた、テレビのリモコンの電源ボタンを押した。ピッという機械的な音が小さくなり、僕の心のように暗かったテレビ画面が明るく映る。テレビ画面には若い女性アナウンサーと、中年の男性アナウンサーが映っていた。
「今朝から、嬉しいニュースが飛び込んできました。あの有名女優が、人気俳優と熱愛!ビックカップルの誕生か?このまま、ゴールインなるか‥‥‥‥‥?」
それほど好みではない女子アナが、カメラに目線を向けて今朝からどうでもいいニュースを真剣に言う。
「うざい。」
僕は顔をしかめ、好みの女子アナが出演している番組にチャンネルを変えた。リモコンを人差し指で操作し、すぐに画面が切り替わる。
「おはようございます。エンタメから、社会まで。ありとあらゆる情報を発信していきます。」
画面が切り替わったと同時に、僕の好みの女子アナがテレビ画面に映る。
ーーーーー中学生の頃も、そうだった。中学校に行くのはものすごく嫌だったけど、この女性アナウンサーに元気をもらって登校していた。この女性アナウンサーの声も好きだが、容姿はもっと好きだ。しかも、この女性アナウンサーが担当して読み上げる、事件や事故のニュースは学校に行く前のちょっとした安らぎの時間だ。どうでもいい恋愛のニュースよりも、僕に近いニュースを言ってるからだ。
「今朝から、悲しいニュースをお伝えしなければいけません。女子大生が、同じ大学に通う男子生徒数人に性的暴行を加えられていたことが分かりました。女子大生はうつ病うつ病発症し、しばらく大学を休学しております。女子大生のお腹には胎児も宿っており、女子大生の両親は大学側と男子生徒たちを訴える方針を示しています。これについて、男子生徒たちは否定しています。女子大生が風俗で働いていた為、自分たちの子供とは言い切れない。性的暴行も、合意の上だったと‥‥‥‥。」
食い入るように液晶テレビの画面に映っている好みの女子アナを見ていると、
「ダラダラ飯食ってんと、早く学校に行く準備しろ。博登。」
いらだちを含んだ声が、僕の耳に鋭く聞こえた。
「‥‥‥‥‥‥」
僕は、声のした方に視線を向けた。視線の二メートル先に、厳しい表情を浮かべた父の姿が目に映った。父はイスに座りながら、マグカップから湯気が出ているコーヒーを美味しそうに味わって飲んでいる。
「‥‥‥うん。」
僕は好きな女性アナウンサーから視線を外し、朝食のお茶漬けを慌てて食べた。そして、カルピスをゴクゴクと一気に飲む。普段なら美味しいと感じられるカルピスも、慌てて一気に飲んだから美味しく感じられなかった。
「博登。洛陽総合の制服、この白いソファーの上に置いとくね。」
母が、白いソファーの上に洛陽総合の制服を準備してくれた。小学校の頃から、母の手を煩わしている。優しい母に感謝していると同時に、自分の将来の不安が募る。
「‥‥‥‥」
僕は朝食を食べ終え、洛陽総合の制服に着替え始める。着ていたパジャマを脱ぎ捨て、汚れ一つ付いていない新品の真っ白なカッターシャツに着替えた。緑色のネクタイをへたくそに結び、ズボンを履く。パジャマから洛陽総合の制服に着替えると、一気に体と心がずしりと重くなるのが分かる。
ーーーーーー家にいてずーっと、僕の好きな女子アナを見ていたい。
そんなことを思っていると、
「女子アナばっかり見てんと、着替えたら忘れ物ないか確認しろ。入学式早々遅刻したら、許さへんからな。」
僕の気持ちを悟ったかのように、朝から口うるさい父がまた僕を怒鳴る。父は既に白いワイシャツを着ており、その上から、紺色のスーツを身にまとっている。春らしい桜色のネクタイを上手にキュッと締め、黒いズボンを履いている。
ーーーーーー父は同志社大学を卒業し、高学歴のサラリーマンだ。社会に出て、京都の地元の銀行で働いている。母も同じく、京都の地元の銀行で働いている。そんな二人の間に、僕のような障害者が産まれたから心配しているのだろう。いや、心の中では、殺意を感じているかもしれない。
「‥‥‥‥‥」
一言文句を言いたいのが本音だったが、僕は歯を食いしばって我慢した。父と母のおかげでこの大きな家で暮らせていることは事実だし、文句を言ったところで怒られることは分かっている。
「‥‥‥‥‥僕はちらりとテレビ画面を見た後、家から出ようとする。テレビ画面に映っていたのは僕の好きな女性アナウンサーが、人気急上昇中のイケメン若手タレントに取材していた。
ーーーーー僕の妄想が、一気に現実に引き戻された。
「博登、忘れ物。療育手帳。」
重い足取りで家から出ようとしたそのとき、母が僕の療育手帳を無理やり渡した。
「これは、いらない。」
「時間がないときに、文句を言わない。」
僕の想いは聞き入れてもらえず、半ば強引に療育手帳を手に渡す。
「これがあれば、市バスが無料で乗れるの。日本という国は、博登のような弱者を助けてくれてるの。だから、療育手帳を持って行きなさい。」
「博登、持っていけ。うだうだ文句言うてんと、療育手帳持っていけ。バスも無料で乗れるし、何が不満やねん。」
僕と母の会話に、父が割って入った。
「‥‥‥‥‥別に。」
僕は、療育手帳をポケットにしまった。
ーーーーーー無料だったら、なんでもいいんですか?自分の息子が、療育手帳が原因でいじめに遭う可能性は考えないんですか?16年も一緒に生活してるくせに、僕の気持ちも分からないんですか?
声に出せない怒りの感情と闘いながら、僕は心の中で声を張り上げる。
ーーーーーー両親に文句を言いたい。中学生の頃は自転車通学で学校には持っていく必要はなかったけど、高校はバス通学。療育手帳を持っていかないといけない。
学校の指定された黒い革靴を履いて、黒いカバンを持って家を出る。家を出ると、広々とした庭が広がっていた。土地だけでも優に150坪は超える、広々とした庭。広々とした庭には砂利が敷き詰めれており、年季の入った大きな松の木が歴史を感じさせるように立っている。大きな松の木の下には、石灯篭が一本豪華に立っている。石灯篭は全部で三本あるが、玄関から外に出て最初に視界に入るのは松の木の下にある、石灯篭。
ーーーーーー和風日本庭園。
「ワォーン!」
僕が玄関から外に出ると、愛犬のゴンが鳴いた。体毛の半分が茶色と黒で覆われているが、少し首元に白色が入っている。
まん丸とした愛くるしい目に、耳が垂れているのが特徴。
「お前は、いいよな。」
僕は愛犬のゴンの頭を優しく撫でた後、庭の門に向かって歩く。緩やかなカーブに敷かれた石畳の道を少し歩くだけで、外に出る門がすぐに見える。
「行ってらっしゃい、学校がんばってね。私も、仕事がんばるから。療育手帳忘れず‥‥‥‥」
「行ってきます。」
うざかったのでやたら大きな声を張り上げ、母の話を遮った。そして庭の門をくぐって、外に出た。街の気温もすっかり心地よく感じ、春らしいポカポカ陽気に包まれている。
「‥‥‥‥‥」
澄んだ空を見上げると、青い海のような空が広がっていた。白い雲も少なく、まぶしい太陽が東の空に浮かんでいる。電線の上には小鳥が乗っており、チュンチュンと鳴いている。
ーーーーーー京都府京都市右京区、御室仁和寺ーーーーーー
ここが、僕の実家だ。閑静な住宅街に生まれ、僕の実家は200坪もある、豪邸。それと同様に、周囲の家も大きな家がたくさん建ち並んでいる。
「‥‥‥‥‥」
なだらかな坂道を下り、御室仁和寺のバス停に向かう。御室仁和寺のバス停に向かう途中、道にピンク色の桜の花びらが散っていた。人に踏まれたり雨で濡れて汚れて、土色に変色していた。そして、近所のおばさんがゴミ出しをしている姿も見えた。バス停には僕も含めても、数名しかおらず、道路を走る車も少ない。御室仁和寺駅の桜の木からピンク色の花が満開に咲き誇って観光客が多く訪れたのは数日前で、今は風に吹かれて切なく散っている。


ーーーーーー五分ぐらい過ぎたところで、26号系統のバスがやってきた。
「‥‥‥‥‥」
26号系統のバスが御室仁和寺の停留所で止まり、後ろのドアが開く。僕は、26号系統のバスに乗り込む。通勤ラッシュの時間帯のせいなのか、くたびれた顔をしたスーツを着たサラリーマンを多い。それでも車内は人が少なく、空いている席も多かった。空いている席に窓際があったので、そこに僕は座る。
「‥‥‥‥‥‥」
目まぐるしく移り変わる景色に僕は、呆然と車窓ら外の景色を見つめる。


『4月10《水》午前7時50分』
府立体育館前にバスが到着すると、僕は時間と共に混雑していた車内を掻き分けながら前に進んで降りた。
「ふー。」
口からため息が自然と漏れ、歩道を歩く。ここまで来たら、僕と同じ制服を着た学生の人たちが歩いている。道路にも人気の軽自動車が走り、日本産の高級車が少しだけ走っている。
「‥‥‥ばれずに三年間、やり遂げる。秘密にしとけば、大丈夫だ。」
そう自分に言い聞かせるも、自然とポケットに入れた療育手帳に力がこもる。
円町通りを歩いて下った所で、洛陽総合高校に着いた。距離にして大体、一キロぐらい。
「入学式、だるいわ〜。カワイイ子いねーかな?」
「しんど〜い。俺、もう中卒でいいから、学校休みたい。」
「神様、お願いします。保健体育の先生は、若い女の先生で‥‥‥。」
「それは、本気で分かる。保健体育の先生で男やったら、もう終わりやで。」
校門をくぐると、髪の毛を染めた僕と同じ制服を着た学生がうるさく騒いでいる。わざと乱れた服装をしているのか、シャツは出し、ボタンは開けている。おまけに、ガムを食べている生徒もいた。学生服からタバコの臭いがするのは気のせいではなく、しっかりと臭う。学校の規則を守って服装をきちんと着て、ボタンも一つも開けてない僕はいじめの標的だ。
「‥‥‥‥‥」
ポケットに入れた療育手帳に、力がこもる。