【完】『そろばん隊士』幕末編


話が少し前後する。

将軍となっていた一橋刑部卿は二条城に諸侯の名代を集め、

「まつりごとを朝廷にお返し申し上げる」

という、いわゆる大政奉還を表明した。

奇しくも坂本暗殺の時期である。

守護職にあった、新撰組の直属の上司である会津侯も、その場に控えていた。

屯所に一報がもたらされたのは当日の夜である。

公用方の筆頭である広沢富次郎と、添役の小野権之丞によって伝えられた。




原田が痛飲したのはこのあとの広沢と小野をもてなすために開かれた席で、会津侯から御酒下されがあって、

「みなで飲んでくだされ」

と広沢が注いで回ったのが端緒である。

岸島はこの日、島屋という両替商からの知らせを受けて、島屋の番頭に対面していた。

「新撰組の公用の封がついた小判の包みが、島原の名主さまから手前どもへ届けられまして」

という内容である。




岸島は小判の包みを見た。

確かに墨で「会津中将御預新撰組公用印」と打たれた印が捺されてある。

「この包みを名主さまはさるお方から渡されたらしいのですが、斯様な公金、しかも五十両ともなりますと、これは勘定方にお改めいただいたほうがよろしいかと存じまして」

島屋の番頭が知らせるのも無理はない。




しかし。

新撰組の公金はこないだの紛失の件で消えた分以外、屯所となっている本願寺の蔵に預かってもらっており、出し入れは必ず勘定方が帳簿につけてある。

しかも最近は島原遊廓へは五十両という大金の支払いはない。

あれば岸島は記憶にあるはずであろう。

「そのさるお方、とやらはさては新撰組を騙る偽物というのではあるまいな」

岸島が怪しんだのはそこである。

何者かが例の公金を盗んだ以上、いつかは必ず出回るはずで、

「そこで足がつけば」

というのはあった。

だが。

島原の名主がさるお方としか言わないのが、岸島にはどうにも引っ掛かるのである。




そこで。

遊廓に疎かった岸島は、名主の周囲を調べようとまず遊廓の店主のあたりから調べ始めた。

が。

そこは遊廓である。

「いちいち名主さんのことなんぞ、頭に留め置かれしまへん」

とのみで、尻尾もつかめない。




そんなある一日。

岸島は近藤から呼び出された。

「実は頼みがある」

と言うのである。

「これを島屋という両替商に届けてもらいたい」

と出したのは、袱紗に包まれた五十両の包みである。

「実はこの度、大丸で隊服を作ることとなった。ついては大丸と取引のある島屋を通じて支払うこととなったので、届けてもらいたい」

という。

なるほど公用なら勘定方に頼むのは当たり前であろう。

岸島は、

「承知いたしました」

と袱紗を胴巻きの袋へおさめると、

「では行って参ります」

と屯所を出た。




島屋に着くと、

「岸島さま、お待ちしておりました」

と中へ通された。

「例の大丸へ支払う隊服の件で参った」

と言うと番頭は、

「さて…手前どもが伺っている件とは異なりますが」

と不思議なことを言い出した。

「番頭どの、それがしは近藤局長から預かって…」

「あ、そちらでございましたか」

というと番頭は、

「近藤先生もまた、嘘が下手なお方にございますなぁ」

とくすくす笑いだした。




「嘘…とな?」

「岸島さまはご存じではあらしまへんように存じますが」

というと番頭は、

「身請けのお代でございますよ」

と言った。

「身請け?」

「えぇ、島原の棗屋という郭の琴浦というお方で」

岸島はあきれたのか言葉がでない。

が、口をついて出たのは、

「局長はいったい、何人身請けすれば気が済むのやら」

という偽らざるところであった。




屯所に戻って報告だけを済ませると、岸島は勘定方の詰所に戻ろうとした。

すると近藤が、

「岸島くん」

と、どういうわけか呼び止めた。

「局長、…何か、ございましたか?」

「いや、実はな」

と小声になり、

「例の積み立ての件だが、あれは実は下手人はおれだ」

と耳打ちした。

岸島は思わず瞠目し、

「それは、まことにございますか」

重々しく近藤がうなずく。

「あれに手をつけてはならぬというのは知っておったが、どうにも所司代や奉行というのは人の金で遊ぶのが好きなようでな」

と言い、

「それでおれの方で立て替えたのだが、ご公儀からはまだ支払いがない」

そうしているうちに土方が岸島に監査を命じ、そこで露見した…というのである。

「しかしそれなら会津様に借財を申し込めばよろしきこと。積み立ての金子に手を出すというのは、かつて河合どのが腹を召したときとよう似ておりまする」

岸島はずけりと言った。