とりあえず金子がない事実を土方に伝えると、
「それはいつからなくなっているのか」
といい、帳簿の調査も始まった。
「だが積み立てだけはあるはず」
岸島が踏んだのはそこで、これは河合切腹の件のあと、使い込みや横領がないようにと岸島が定期的に調べてあり、まだ手付かずのはずであった。
ところが。
徳田からの報告は、実に驚くべきものであった。
「積み立てがほとんどない」
と言うのである。
しかも。
封の紙がついた金子箱そのものの数が足りないのである。
「これは…」
前回改めたのは半年前である。
つまり。
そこから半年の間に誰かが金箱を持ち出した者がある、ということになる。
岸島の奏上を受けた土方は、
「誰かが着服した」
と断言し、犯人を召し捕るよう命じたのであった。
そういういきさつで。
ひそかに岸島が積立金の犯人探しを始めた頃、
「われわれは御陵衛士隊という新たな隊を作りたいのだが」
と、なぜか伊東側から申し出があった。
「さては察したな」
とだけ土方は言ったが、実際はわからない。
ただ。
言えることとして。
土方がもともと伊東派を新撰組と切り離したかったような節があったところへ、そういった申し出がなされた。
これは。
何らかの動機があった…と、自然の理として特別おかしい話ではない。
が。
この申し出によって、隊は近藤につくか伊東につくかという選択を、隊士たちは迫られたことになる。
そんななか、会津藩の公用方の小野が目をつけていた近江屋で、坂本龍馬が中岡慎太郎とともに刺客に斬殺されるという事件が起きている。
問題は、犯人であった。
原田左之助の容疑がにわかに浮上したのである。
「おれは坂本なんて奴は知らんぞ」
と原田は言ったが、現場に落ちていた鞘が原田のそれであったことと、原田の故郷の松山弁を聞いたという証言があって、原田は取り調べを受けてから帰ってきた。
しかし。
「おれはその日、屯所で仲間と酒を飲んでいた」
と主張し、事実、配下の三浦常三郎と松永権十郎という平隊士と三人で痛飲していた姿を、武具方の芦名鼎が目撃している。
しかし。
確かに原田以外に伊予松山の出の者は新撰組にはいないが、原田は江戸詰めが長かったのもあって、普段はべらんめえな江戸言葉である。
実際に岸島が参考人として聴取を受けた際にも、
「原田どのは江戸言葉ゆえ、伊予松山の訛りは聞いたことがない」
といった旨の供述をしており、当初から誰が被疑者か分からない、迷宮入りの様相になりつつあった。
岸島には不思議でならないことがあった。
まず積立金が行方知れずになったこと、伊東から隊を去りたいと申し出たこと、さらには坂本暗殺で原田が疑われたこと…である。
のちに検死から二刀流の使い手として新徴組の桂某という名も上がったが、どちらにせよ倒幕佐幕で分けると佐幕である。
これらのことどもから、
「案外、坂本は島津あたりから狙われたのではあるまいか」
と、のちに土方の主治医であった手塚良仙が述懐しているが、そうした噂も当時からささやかれた。
繋ぎあわせると、薩摩とも通じた伊東派の誰かが始末した…と見るのが、辻褄の合う話で、
「とすれば…毛内くんあたりかも知れぬな」
と、岸島と監察の同役であった尾形俊太郎は言った。
この話を岸島は原田にだけ打ち明けると、
「毛内有之助、か」
と原田は呟いた。
「検死書によると坂本は背に傷があって、右の脇腹から逆さ袈裟に左肩へと斬られている、とある」
つまり右に刀を差し、左に刀を持って、下から斬り上げなければ出来ない傷なのである。
「いかに新撰組に手練れが数多あるとはいえ、左手で刀を操るのは…毛内どのただ一人」
岸島の見立てが正しいかどうかは分からなかったが、このときの原田にはかなりの説得力を持って聞こえたらしい。
このあと原田がどう具体的に動いたかは資料がないが、配下である三浦常三郎に対し、
「御陵衛士たちとはいつか斬り合うかも分からぬから、さまざまな鍛練だけはしておけ」
と言い、岸島も三浦の居合の稽古に立ち会ったほどであった。
「三浦どのは、居合の筋がよい」
もしかしたらそれがしより強いかも分かりませぬなぁ、と笑いながら原田に語るほどであったが、
「私は原田さんに恩がありますから」
と三浦は言った。
聞けば、背が低いことを理由に入隊を断られたところを、
「人の志を背丈だけで決めるものではない」
と、たまたま通りかかった原田が口添えし、入隊を許されたのだという。
「今こうしてご奉公できるのは、原田さんのおかげでございまして」
原田の思わぬ面を、岸島は見たような気がした。
話が少し前後する。
将軍となっていた一橋刑部卿は二条城に諸侯の名代を集め、
「まつりごとを朝廷にお返し申し上げる」
という、いわゆる大政奉還を表明した。
奇しくも坂本暗殺の時期である。
守護職にあった、新撰組の直属の上司である会津侯も、その場に控えていた。
屯所に一報がもたらされたのは当日の夜である。
公用方の筆頭である広沢富次郎と、添役の小野権之丞によって伝えられた。
原田が痛飲したのはこのあとの広沢と小野をもてなすために開かれた席で、会津侯から御酒下されがあって、
「みなで飲んでくだされ」
と広沢が注いで回ったのが端緒である。
岸島はこの日、島屋という両替商からの知らせを受けて、島屋の番頭に対面していた。
「新撰組の公用の封がついた小判の包みが、島原の名主さまから手前どもへ届けられまして」
という内容である。
岸島は小判の包みを見た。
確かに墨で「会津中将御預新撰組公用印」と打たれた印が捺されてある。
「この包みを名主さまはさるお方から渡されたらしいのですが、斯様な公金、しかも五十両ともなりますと、これは勘定方にお改めいただいたほうがよろしいかと存じまして」
島屋の番頭が知らせるのも無理はない。
しかし。
新撰組の公金はこないだの紛失の件で消えた分以外、屯所となっている本願寺の蔵に預かってもらっており、出し入れは必ず勘定方が帳簿につけてある。
しかも最近は島原遊廓へは五十両という大金の支払いはない。
あれば岸島は記憶にあるはずであろう。
「そのさるお方、とやらはさては新撰組を騙る偽物というのではあるまいな」
岸島が怪しんだのはそこである。
何者かが例の公金を盗んだ以上、いつかは必ず出回るはずで、
「そこで足がつけば」
というのはあった。
だが。
島原の名主がさるお方としか言わないのが、岸島にはどうにも引っ掛かるのである。