【完】『そろばん隊士』幕末編


岸島たち新撰組にすれば、小野はただの食い道楽ではないといったことはこの一事で判然としたようで、

「なかなか会津の家中には楽しきお方がおわすものにございますな」

などと、感心するほどでもあった。

が。

その小野はこういう話も持ってきた。

「あの伊東甲子太郎という隊士、裏で薩摩や長州ともつながっておるという風聞がある」

というのである。




岸島はただならぬ内容に、

「それは土方副長はご存知なのか」

と訊くと、

「斎藤どのに探りを入れさせておるようだが」

と小野は答えた。

岸島は徳田を呼び、

「これはいかがしたものか」

と思案したが、

「表沙汰にはせぬがよろしかろうと存ずる」

という徳田の言を容れ、黙ったままにしておくことにした。




が。

しかし、である。

いかに在京が長いとはいえ、新撰組のいわゆるフロントのような役割が山本覚馬であり、小野権之丞である。

いわば窓口のような立場のはずの、しかも変わったばかりの小野がなぜ伊東と薩摩との接点を知っているのか、

「そこが奇異ではないか」

と岸島は首をかしげた。




小野に言わせると、

「伊東どのは背が高かろう」

しかも色白の細面で、なかなかの美男である。

「あれだけの相貌で、目立つなというほうが無理がある」

何度か近江屋へ入る姿を見かけている者もあるし、それがしも見た、と小野は言ってから、

「何しろ楠小十郎の件もありましたからな」

と結んだ。

「楠小十郎、か…」

名前は岸島も山崎から聞いたことがある。

まだ浪士組として芹沢鴨や新美錦などがいた頃、長州から間者として送り込まれた件の当事者で、池田屋の前後の時期には露見して、処刑されている。

しかし。

伊東は楠小十郎とは違う。

まず長州ではない。

確かにともに尊皇と攘夷の思想は掲げているが、伊東の発想は違うところにありそうである。




「ともあれ、それがしは伊東どのではござらぬゆえ、実相は分からぬ」

と小野は言った。

一頻り語らってから小野が去ったあと、

「面倒なことになったな」

と岸島は小さく呟いた。

勘定方で小荷駄隊長だが、まだ監察も兼務である。

「…これは調べねばならぬのか」

もはや長年の相棒のようになりつつあった徳田に振ってみた。

徳田は、

「なれど調べるにも内偵は怪しまれましょう」

と、岸島が内偵に向かない気性であることを指摘した。




かいなをこまぬいていたが、

「下手にひそひそとやろうとなさらぬのがよろしいかと」

岸島は膝を叩いた。

「正面切って行けば誰も怪しまぬか」

目から鱗が落ちたような思いで、岸島は下僕を呼び、

「伊東どのの屋敷は知っておるか」

と聞き出し、

「出来れば今一人監察がおればよいのだが」

と、懐にしまってある隊士の名簿を繰り開き始めた。




しかし。

人選というものは、うまく行かないことのほうがほとんどである。

そこで。

悩み抜いた末、岸島は原田に声をかけた。

「おもしろいじゃねぇか」

原田はまるで博徒の出入りの前のような、昂奮で紅潮した顔を見せたが、

「いや、斬るのではない」

と岸島は言った。

「原田どのならば、斬るのはいつでも斬れよう」

まずは伊東の出方を見て、それからでもおそくはないだろうというのが、岸島の言い分である。

「まぁ仕方がねぇな」

少し不満げであったが、

「おしげのそろばんの師匠に、簡単に死なれちゃ困るからな」

そう笑いながら、最終的に原田は納得したようであった。




下僕から聞き出した伊東の屋敷に近づいた。

「いかな下僕でも嘘は言うまいが、誰か隊士が出てくれば間違いはない」

原田は変に用心深い面がある。

そのとき。

門から出てきたのは、袖章のない羽織をつけた阿部十郎である。

「…阿部どのも、か」

岸島は伊東の意見が意外と隊内に浸透していることを察した。

「隊士が出入りしている、間違いはなかろう」

ようやく岸島は動いた。

「ごめん」

岸島は門に立つと、

「伊東どのはご在宅か」

と、あえて声高に呼ばわった。

「堂々と正面から行けば、相手も無体はするまい」

というのである。




すると声に気づいたらしく、中から人が出てきた。

「…岸島くん」

出てきたのは斎藤一である。

「いったい」

「いや火急ではないが、ちと話がありましてな」

後ろには原田もいる。

「伊東先生は不在です」

「…居留守じゃねぇだろうな」

原田が探ろうと身を乗り出した。

「原田どの、伊東どのが不在ならば仕方あるまい」

また改めて来れば良い、と言った。

「しかし伊東甲子太郎が長州と繋がってるって話は、どうやって調べるんだい」

「それはそれよ」

別に口論というほどではない。

が。

もともと岸島は声に張りがあるところに来て、原田は小声でも筒抜けになるほど声が大きい。

二人の話の内容は、周りの通りすがりの町衆の耳に嫌でも入るほどであった。

「…ご無礼いたした」

岸島たちは静かに去った。