【完】『そろばん隊士』幕末編


次期の将軍が一橋刑部卿に決まった頃、岸島は再編で新しく変わった小荷駄隊の隊長に任ぜられた。

いわゆる軍の輜重部隊にあたり、弾薬や食糧の運搬や確保が任務となる。

「岸島くんを隊長とし、補佐には尾関くんと島田くんをつける」

ちなみに尾関とは尾関雅次郎、島田とは島田魁のことで、尾関は旗奉行として、隊旗の管理者でもある。

「島田くんは怪力であるから、小荷駄隊の力になってもらいたい」

というのが、辞令を交付された際に土方から言われた一言であった。




が。

どちらも浪士組の頃からの古参で、岸島の配下になることをよしとするかどうか分からない。

「徳田どのなら、いかがなさるか」

いわば秘書のような役回りとなった徳田に話を向けると、

「それなら芦名さんに聞いてみるのはどうでしょう」

と、芦名鼎を呼んだ。

そういえば芦名は旗奉行の下に位置する武具方に今はいる。

芦名が来ると、

「尾関さんも島田さんも、相手が居丈高にならなければ悪い人ではないから、大丈夫なのではないか」

との見解で、

「ならば一度、腹を割って話すのが肝要かも知れんな」

と岸島は言った。




芦名の周旋で、小荷駄隊の岸島、尾関、島田の三人とそれぞれの部下の計九人で木屋町の座敷を借り、会食というはこびとなった。

そこで岸島は、

「それがしは若輩ゆえ」

と、尾関と島田の二人を上座に座らせ、みずからは下座に座るという行動を取った。

すると。

「岸島さん、隊長は貴殿なので上座には貴殿でないと困る」

と島田に促され、

「ならば車座はいかがでありましょう」

と岸島が言い、

「車座ならば互いに気を遣わずに済む」

となり、三人はぐるりと座り込んだ。

「車座なぞ久しいのう」

島田は杯を干した。




「確かに、浪士組の頃なぞ近藤さんも土方さんもみな車座で、上下隔たりなくみなで議論を重ねたものよ」

尾関が遠い目をした。

「岸島さんは確か池田屋のあとの入隊でしたな」

「いかにも」

島田が酒を注ぐと、

「池田屋のあと会津様から褒美を頂戴し、禁門の戦のあとはご公儀からお褒めも頂戴したが、あのあたりから隊は変わった」

島田が言うには、

「近藤さんも土方さんも、あのあとは身なりも急に直参のような縮緬羽織になったし、金回りも変わって女まで囲うようになった」

というのである。

「しかし、車座で議論を戦わせていたのが、まるで殿様に意見するように下座でわれらは言わねばならなくなった」

尾関がうなずいた。

「われらは部下ではない、同志だ」

岸島は相槌を打ち、

「もっともにござる」

と言った。

「今の、あの伊東や加納がいるままでは隊はご奉公に障る。岸島さん、どう思う」

酒の回った島田の眼は鋭かった。




岸島は島田に真っ向から論ずるのを避けるように、

「確かに島田どのの卓見、それがし感服いたしましたが、何より大事はご奉公と存じますゆえ、まずはわれら一同、与えられた役儀をつとめ果たすが肝要と存じまする」

と言い、島田に酒をすすめた。

「岸島さん、おれはあんたを気に入った。おれは気に入った者は助ける。だから心配せんでいい」

「かたじけなく存じまする」

岸島の折り目正しさは、酒が入っても変わっていなかったようであった。

尾関も、

「おれは岸島さんをただのそろばんの出来る武士だとだけ見ていたが、何か誤解をしていたようだ」

そう言うと酒を岸島にすすめた。

「御酒、ありがたく頂戴いたす」

杯を干すと、

「われら小荷駄隊が動かねば、いかに新撰組といえど戦の表道具は揃えられぬ。われらはわれらなりに、ご奉公に励もうぞ」

この会席で、岸島の懸念は消えたといっていい。




このようにして。

岸島、尾関、島田の三人が打ち解けるようになると、かねてより島田と懇意でもあった原田が加わるようになり、

「この四人で伊東や加納に伍することが出来れば、あれらも好きは出来まい」

と原田は豪語したが、

「はて、それで丸くおさまれば良いのだが」

と岸島は、一抹の不安を徳田にだけもらしている。

年が明けて慶応も三年となると、伊東派の加納や毛内と、近藤派の永倉新八との亀裂が決定的な事態となっていた。

そうしたなかで。

どちらにもつかず、いわば原点回帰で奉公第一という面々が集まった岸島たちの仲間は、第三の派閥になりつつある。

「それがしは派閥なぞ何の興もござらん」

と岸島は言う。

尾関も、島田も「われらはあくまでもご奉公を大事と思っておるまでのこと」と言い、仲間を集めて語らったりするようなことはしない。




しかし。

その無派閥の連中だけが集まってくるという、無派閥の派閥という分かりにくい集団は、加納や毛内などの伊東派の者には理解しがたいところであったらしく、

「あの者たちは何かあればご奉公を口にするが、要はことなかれなのではないのか」

と俗物のように見ていたところもあったらしい。

だが。

伊東派であっても、隊にあるかぎり岸島が握る金銭、とりわけ月の手当てがなければ飯にも事欠く訳であり、

「やはりそこがそろばん侍の性根というものよ」

と、特に加納道之助あたりなんぞはしたたかに放言していた。




これを聞いた芦名は岸島に対して、

「岸島さん、言われて腹が立たないのですか」

といきり立ったが、

「芦名どの、居合は鞘のうちが勝負なのだよ」

とだけ言った。

確かに居合は刀を先に抜くと不利になる。

つまり。

岸島の目から見て加納は、鞘から刀を抜いているようにうつっていたようで、

「芦名どの、あれは言わせておくに限る」

とのみ言い、帳簿に目を落とし再びそろばんをはじきはじめたのであった。




慶応三年も春を過ぎた頃、それまで新撰組と会津藩をつなぐ役割を果たしていた山本覚馬の視力がさらに悪化し、ついにほとんど見えないようになった。

それを機に。

担当が山本から小野権之丞という公用方に変わった。

小野は洋学に長じた山本とは明らかに違い、どちらかというと洋学には疎い。

しかし。

小野は食い道楽で、洛中の飯屋で名だたるところはほぼ小野は行ったことがあり、しかも下情に明るいという決定的な強みがあった。

それだけに、

「長州や土佐がどの店を根城にしておるかなぞ、手に取るように分かる」

と言い切り、事実三条の升屋や近江屋といった商家が根城であることを、小野は早々と掴んでいたのである。