この長州征伐のさなか。
大坂城内で指揮を執っていた将軍、徳川家茂が脚気の発作で世を去ったのである。
このため。
岸島は屯所で浮いた金を積み立て金とし、いざという際の有事の予算として、帳簿を新たに作ったのであった。
こうしたなか。
長州軍が小倉城を奪い、奪われた小倉藩小笠原家は豊津の香春へと転進。
周防大島で戦いを繰り広げていた幕府軍も惨敗の上、退却を余儀なくされ、次第に戦況は悪化の一途をたどりつつあった。
他方で。
将軍の突然の薨去、という事態に、次期の将軍を誰にするかで意見は割れていた。
政事総裁の一橋刑部卿慶喜、将軍の後見であった田安家の慶頼、さらに家茂のおじで津山松平家の斉民…と三人の候補が上がり、誰に絞るかを大老の酒井雅楽頭が決断できずにいる…という現況である。
「通常であれば血筋がものを言うが、今は非常のときである」
一橋刑部卿に頼むのが最善ではないか、というのが老中の脇坂淡路守をはじめ、幕府の幹部のおおかた一致した意見であったが、
「あの御仁はいささか才はあるが」
と会津侯や越前侯あたりは一橋の一誠のなさを危惧していたようで、
「あれならまだ田安どのが良い」
という異論もあった。
この相続の決定までに幕府は長州戦で連敗に次ぐ連敗を重ね、次第に戦意は喪失し、公儀の威光も地に落ちつつあった。
「近藤さん、もはや公儀に頼るのは無理があるのではないのか」
と、伊東甲子太郎や加納道之助などが主張をした。
確かにその通りであろう。
仮に現実的は路線をとるならば、幕府の傘下を離れて動くことも不可能ではない。
戦は勝つ方につくのが武家の原則である。
しかし。
「伊東くん、われわれは公儀や会津侯に恩義がある」
恩義あっての新撰組だ、と近藤は言った。
「それは武家のとるべき道ではあるかも知れないが、恩義ある人を裏切ってまで人のとるべき道ではない」
この辺りが、近藤の面目躍如たるところであったかも分からない。
いっぽうの岸島はというと。
おしげに教えていたそろばんは、次第に評判を呼んで寺子屋よろしく近所の子も習いに来るようになっていた。
「岸島さんは子供を手なずけるのがうまいなぁ」
などと沖田あたりなんぞは言っていたが、しかしそろばんがうまいだけの無能な隊士でないことだけは沖田にも察せられたようで、
「岸島さんは、伊東さんをどう思われますか」
と水を向けてみた。
すると。
「沖田どのゆえお答えいたしまするが」
と普段は主義や主張など口にもしない岸島が、
「少なくとも筋が一本通っているのは近藤局長ではなかろうかと存ずる」
伊東の意見はいわゆる変節の理で、人は恩義ある者を裏切ってはならないという近藤の見識を、岸島は認めていたようであった。
「しかしなぁ、僕は岸島さんみたいな隊士には、変に戦で討ち死にしてもらいたくないな」
沖田は言った。
「まぁ僕は労咳持ちでいつ死ぬか分からないけど、岸島さんにはそろばんの腕もあるし、何より子供に好かれる」
そういう人は簡単には斬り死にされてほしくない、というのが沖田の偽らざる本音であったらしい。
「お言葉ありがたく存じまするが、勝ち負け生き死には武家のならいにて」
と、会釈をするのが沖田への、岸島の精一杯の謝意であった。
次期の将軍が一橋刑部卿に決まった頃、岸島は再編で新しく変わった小荷駄隊の隊長に任ぜられた。
いわゆる軍の輜重部隊にあたり、弾薬や食糧の運搬や確保が任務となる。
「岸島くんを隊長とし、補佐には尾関くんと島田くんをつける」
ちなみに尾関とは尾関雅次郎、島田とは島田魁のことで、尾関は旗奉行として、隊旗の管理者でもある。
「島田くんは怪力であるから、小荷駄隊の力になってもらいたい」
というのが、辞令を交付された際に土方から言われた一言であった。
が。
どちらも浪士組の頃からの古参で、岸島の配下になることをよしとするかどうか分からない。
「徳田どのなら、いかがなさるか」
いわば秘書のような役回りとなった徳田に話を向けると、
「それなら芦名さんに聞いてみるのはどうでしょう」
と、芦名鼎を呼んだ。
そういえば芦名は旗奉行の下に位置する武具方に今はいる。
芦名が来ると、
「尾関さんも島田さんも、相手が居丈高にならなければ悪い人ではないから、大丈夫なのではないか」
との見解で、
「ならば一度、腹を割って話すのが肝要かも知れんな」
と岸島は言った。
芦名の周旋で、小荷駄隊の岸島、尾関、島田の三人とそれぞれの部下の計九人で木屋町の座敷を借り、会食というはこびとなった。
そこで岸島は、
「それがしは若輩ゆえ」
と、尾関と島田の二人を上座に座らせ、みずからは下座に座るという行動を取った。
すると。
「岸島さん、隊長は貴殿なので上座には貴殿でないと困る」
と島田に促され、
「ならば車座はいかがでありましょう」
と岸島が言い、
「車座ならば互いに気を遣わずに済む」
となり、三人はぐるりと座り込んだ。
「車座なぞ久しいのう」
島田は杯を干した。
「確かに、浪士組の頃なぞ近藤さんも土方さんもみな車座で、上下隔たりなくみなで議論を重ねたものよ」
尾関が遠い目をした。
「岸島さんは確か池田屋のあとの入隊でしたな」
「いかにも」
島田が酒を注ぐと、
「池田屋のあと会津様から褒美を頂戴し、禁門の戦のあとはご公儀からお褒めも頂戴したが、あのあたりから隊は変わった」
島田が言うには、
「近藤さんも土方さんも、あのあとは身なりも急に直参のような縮緬羽織になったし、金回りも変わって女まで囲うようになった」
というのである。
「しかし、車座で議論を戦わせていたのが、まるで殿様に意見するように下座でわれらは言わねばならなくなった」
尾関がうなずいた。
「われらは部下ではない、同志だ」
岸島は相槌を打ち、
「もっともにござる」
と言った。
「今の、あの伊東や加納がいるままでは隊はご奉公に障る。岸島さん、どう思う」
酒の回った島田の眼は鋭かった。