酒井兵庫が来た。
「藤堂隊長、お呼びでございますか」
「ちと、そろばんの腕の検分を頼みたいのだが」
「そろばん、でございますか?」
「勘定方なら、多少はそろばんの腕の良し悪しも分かろう」
藤堂はそろばんがまるで苦手であったらしい。
「…で、どなたの腕を?」
「岸島くんをこれへ」
と呼び出されたのは、旅装をした中肉の武士である。
「丹後宮津、松平伯耆守元家来、岸島芳太郎と申します」
松平伯耆守といえば老中として上洛中の殿様である。
「宮津さまのご家中か」
「いかにも」
「して、家中でのお役目は?」
「勘定方、大坂蔵屋敷詰にございます」
懐から出したのは小さな五つ玉のそろばんである。
酒井は検分役を仰せつかると、
「ならば、ご承知ながら役儀により検分をいたす」
「では早速」
と指で繰ってみせた。
「願いましては…」
酒井が思い付くまま数字を言う。
岸島がはじく。
記録がとられてゆく。
パチパチ、と小気味の良い音がする。
「これはなかなか出来ますな」
記録をちらりと見るなり、酒井兵庫は言った。
するとそのとき。
人影が廊下で動いて、
「これは下手をすると、山崎くんよりそろばんが上手いかも知れんな」
と、後ろから土方歳三が覗き込む。
ちなみに山崎とは今は監察の山崎丞のことをさす。
「…副長」
藤堂が下座に膝を滑らせた。
「いや、いい」
それより、と土方は、
「われわれの中でそろばんが出来る者は少ない。今も河合くんと酒井くんが主だが、まだ手薄だ。──岸島くん、君は働けるか」
「もとより、お役に立てるならば」
「よし、決まりだな」
帳面の岸島の名の上に朱で丸がつけられた。
かくして。
岸島芳太郎は会津中将家御預、すなわち新撰組に参加することとなったのだが、
「きみの役割は勘定方と会計方になる」
と、案内役となっていた隊長で文学師範の尾形俊太郎は言った。
「実は私も勘定方なのだが、そろばんと帳面の仕事は苦手でだな…」
と、頬を指で軽くかきながら言った。
「勘定方は河合くんと酒井くんがあるから、しかと聞いて仕事を覚えおくように」
「はっ」
岸島は頭を下げた。
廊下を抜けて会計方の間へ行くと、
「本日より新しく勘定方となった岸島芳太郎くんだ。河合くん、面倒を見てやってくれ」
「はっ」
河合耆三郎も返答の仕方は同じになった。
「早速で悪いが岸島くん、この帳面の算勘を頼む」
「はっ」
岸島に手渡されたのは請け払い帳である。
が。
中身を見ると。
「三番隊、隊士四名共々島原にて慰労を致す」
などとあり、どうやら隊長が隊士を遊郭へ息抜きにつれてやらねばならなかったらしい。
「河合どの」
まるで蔵屋敷のときと変わらぬ様子で、岸島は河合を呼ばわった。
「いかがした、岸島くん」
「この三番隊の請け払いでありますが、いささか額が高く見受けられるように思いますが」
と岸島が指をさしたのは、三番隊の平隊士たちが島原遊廓へ登楼したときの金額である。
通常平隊士ならば月の手当てが十両つく。
「しかしながら」
とさされたそれは、四人で四両二分、つまり一人あたま一両二朱となり、日当と手当てを差し引くと、一人あたり二分は多い計算になる。
岸島はそれを指摘したのである。
が。
河合は苦笑いをしながら、
「日頃の隊務では命懸けで京の民のために働いておるゆえ、たまにはと羽目でも外したのであろう」
「しかしながら、二分は高うございます」
一人二分、すなわち四人で二両の無駄を削れば、それで新式の武器を買う足しになるはずであろう。
ちなみにこの時期は一両が四分、一分が四朱、一朱が二百五十文で、四千文が一両となる。
親子五人が楽に暮らせる額が一両二分であったことから考えると、決して安い額ではない。
とかく武家というものは、と岸島は、
「民が汗水流して納めた年貢を、さもさも当たり前がごとき調子にて湯水のごとく金子を使ってしまう」
これで民の心が分かると言われても、何の得心にもならない…というのである。
言われてみれば。
およそその通りであろう。
播州の商家から出てきた河合はふと、父親が同じような愚痴をこぼしていたことが頭によぎったのか、
「なるほど副長に申し上げてみる」
といい、席を立った。
河合から言上を聞いた土方は、
「確かにそこは岸島くんの申し分には一理ある」
と言った。
土方も江戸の試衛館で近藤勇に師事する前は日本橋の商家に奉公しており、散薬の行商もしていた時期があったからか、金を稼ぐことがどれほどの労苦かを悉知していた。
それだけに、
「われらは京の水に馴染んで、武家であろうとすることに無用に囚われていたのやも知れぬな」
と、その場で人を遣って、件の平隊士たちに二分の返還を命じた。